いただいたものは返したい、と彼は言った。【#創作大賞感想/#なんのはなしですか】
私は焦っていた。
なんでか。
いや・・・だから。
危ないから。
危ないって!
そっちは危険なの!
その、———その路地裏は。
「課長」になった彼を、私はだいぶ前から知っている。
と、思っていたが、遡って見ると、初めてコメント欄で話したのはたかだか1年半前のことだった。
えっ。1年半しか経っていないの、という感じだ。
もうその頃には「なんのはなしですか」には年季が入っていた。
それはそうだ。
上に引用した熱い記事を読めばわかる。すでに3年前からコツコツと自らの記事に刻印を続けていたのだ。
だからそれは、彼の記事には必ずついているもの、と思っていた。
あまりに当たり前の顔でそこにいるもので、それはまるで彼の「スタンプ」や「印鑑」のようになっていて、それを「自分が使ってもいいもの」だとはまるで認識していなかった。
ある意味私にとってそれは「聖域」で「踏み込んではならない領域」だったのだ。
ところがひょんなことから、私は彼とリアルで対面することになった。
それまでには、あれこれいろいろ、あった。思わせぶりですみませんが今あなたが想像したようなことではないことがいろいろあった。フフ
たとえば、あなたの周りには、「本好き」というのはどのくらいいるだろうか。あなたの家族は?あなたの友達は?同僚は?
私の周りには、ほとんどいない。
本を読むのは好き、という人はいる。あれだけ書店に本が並んでいるのだ。本を読む人はそれなりにいる。しかし「趣味は読書です」になると、極端に減る。なぜならば「趣味」と言ってしまったら最後、どんな作家が好きかとかよく読むジャンルはとか突っ込まれでもしたらどうしよう、と思っているからだ。
1冊か2冊、鉄板の本を持っておくのは就活の基本だが、人は皆、なんとなく本を読む。別にすごく好きなわけじゃない。昨日読んだ本は面白かった。でも内容はすぐに忘れてしまうし、誰かと話したいほど感動もしていない。だからこれは「趣味」とは言えない。たいていの人は、そう思う。
しかし稀に、三度の飯より本が好き、という輩がいる。
常に何か読んでいないと気持ちが悪いし、本を読んでいるのが「常態」で本を読んでいないのは「非日常」だ。本屋にふらふら引き寄せられ、本屋に行ったら買わずに出ることができない。その夜もなぜかネットで本をポチっている。仕事が忙しくて読めない日は積読を重ね、いつかの休日に思いを馳せる。ああだれか、朝昼晩、自分にご飯を提供してくれて、日がな一日、本を読んでいられたらなと思う。ああいっそイッパイアッテナみたいに本が読める猫になりたい、と思う。読んだら何かに書きつけたいし、内容はいつまでも覚えていて、得た感動を誰かに伝えたいと熱望する。
———そういう輩だ。
でも、そういう「輩」は不思議なことに身の回りにいないのだ。
ねえ!ちょっと!
あんなにみんな、本を読んでるじゃない!
漫画も読むじゃない!映画も観るじゃない!
なんで「本について語り合う」とこまでいかないの?
三度の飯より本が好きな輩はいつもそう思っている。
飢えている。
それがnoteをしてみたり、文学フリマに行ってみたりすると世界が一変する。本が好きな人が、この世にはこんなにいるのか!東京流通センターでぎゅうぎゅうとひしめきあうほど!noteで毎日、本の話をするほど!
と、思う。
そしてついに、「なんやかんや」あって出会うことになるのである。
「なんやかんや」はなかなかハードルが高い出来事なわけだが、今は割愛する。
「スタンド使い」は「スタンド使い」といずれひかれ合う。
本好きは本好きとひかれ合うのである。
彼と私はついに出会った。
わざわざ、遠くから吉穂堂まで会いに来てくれたのだ。
吉穂堂に来てくれたのは、「誰かに励まされたり、エネルギーをもらったら、それを自分ができることで返したいと思う」という彼のポリシーがあったからだった。
私の、老体に鞭打ち無茶をやる姿に、励まされたと言ってくれた。
彼に福祉の心があり、熟年女性にも優しいことには定評があるだろう。
私は感動した。
だが初対面だ。互いに気を使い、探り合い、緊張し慮ってそこが肝心という本の話も満足がいくほどはできない。
それでも本の話ができる!分かり合える人と!という喜びに満たされて、さようならまたいつかごきげんよう、と別れて帰路に就いた。
そして私は、忘れたのだ。
彼の「リアルなんのはなしですか」を聞くことを。
しかもそのことは、公式メッセージのやり取りでマティさんに彼に会ったことを何気に自慢し、マティさんからの「生リアルなんのはなしですか、聞けましたか!」という一言で思い出した。
聞いてねーよ
あの時ほど、青ざめて震えたことはない。
私はハリセンボンの近藤春奈と化していた。
あんな大チャンス、たぶん二度と訪れることはない。
なぜならその後、恥を忍んでコニシさんに「あのー、私、リアルでなんのはなしですか、を聞くのを忘れちゃって・・・」と告白したら、
また会っても絶対に言いませんからね!
と、言われたからだ。
そう。
確かにそれは「聞く」ものではなかった。
「使う」ものだったのだ!
その後、突如、その日は訪れた。
私は、文学フリマのことで頭がいっぱいで、正直他のことが何にも手につかない状態で、彼の路地裏での暗躍「#なんのはなしですか」の大躍進を横目に見ながら、
えええええええええっ!!!!
と思っていた。
使って良かったの、あれ?
使うべきだったの、あれ。
フリマの最中、海人さんと話していて、
「いやあ、あれ、あんなにすごいことになるとは―――」
というと、海人さんは涼しい顔をして言ったものだ。
「あれは私、最初からああなると思ってました。誰かが使ったら最後、凄いことになるって。だってものすごく便利な、魔法の言葉でしょう。強烈なパワーフレーズじゃないですか。完璧ですよ、あれは」
なんかどこか、誇らしげだ。
それはそうだ。
海人さんはその時点ですでに、あの言葉を使いこなしていた。
あれ―――つまり
#なんのはなしですか
———をッ!!
でも私は、その時点で乗り切れていなかった自分を自己弁護するわけではないが、心配していた。
それを使った記事を回収することよって多忙を極め、彼が小説や記事を書く貴重な時間が削られてしまうことを。
私は彼の記事が読みたい。
なぜなら彼の書く記事が好きだから。
そして、その言葉が「大量消費」されてしまうことを、心配していた。
それで私は冒頭のように焦っていたのだ。
そっちは危険だ。
その路地裏は危険だ、と。
しかしそんな思いもむなしく、「賑やかし帯」、「判子」、「#どうでもいい課」などが次々とUPされた。
これだけのムーブメントになってしまうと、私のようなものが老婆の心で心配したところで仕方がない。
#どうでもいいか (©蒔倉 みのむしさん)
なんて気にもなっていた。笑
ところが上の引用の記事を目にして驚いた。
彼は、引用記事でこう言っている。
なんという覚悟だろう。
彼はもうすでにそんなにも覚悟が出来ていたのだ。
ならばもう、私ができることはただひとつじゃないか!
#なんのはなしですかをnote公式バナーにするために全力でコニシ木の子さんを推す。
(あれ?創作大賞にするために、だったかも・・・)
いつきさんの「賑やかし帯」も最高ですが、note運営さん。
公式バナーにしてください。
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