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言葉あれこれ#20 引用

 誰かの記事を読んで、心になにがしかの反応があった時、それを言葉にしたい衝動に駆られる。自分に来た手紙ではないのに、心の中で返事を書いているのに似ているかもしれない。

 通常は、コメントと言う形でその記事に残す。だがコメントに収まり切れない思いがあったとき、私の場合、ついつい感銘を受けた記事から直接文言を引用してしまったり、当該記事を貼り付けて記事にしてしまうことが多い。

 これについて、このところ思うところがあった。

 実際のところ、記事に感銘を受けて心の中に沸き上がった「返事」は厳密な意味で「返事」ではないように思う。
 「返事」とは呼びかけがあって答えるものだ。記事を読んで考えたり感じたりしたことを、自分なりに整理し、吟味したりする千思万考は、「わたしのお気持ち」や「感想」であって「返事」とは言えない。

 そう言う場合、引用する前に、まず第一に、その千思万考が記事への「お返事」に値するのか、というのを考える必要があるだろう。

 noteの場合はコメント欄があるので、コメント欄がついている限りは「感想受付中」のようなオープンな状態ではある。
 とはいえコメントと違って記事の引用は、相手の土俵に「まるごと引き合いに出される」わけである。引用された側にしてみれば、その記事は誰か特定の個人に向けて出した文章ではない。「市報」や「社内報」「学校のおたより」みたいなものに、突然、直接個人的な手紙をもらったような唐突感は否めないだろう。

 第二に、引用された側に「自分の記事が引用された記事を読んで考えリアクションしなければいけないだろうか」と思案させ、反応を強要する恐れがある。そのことは気に留めておかなければいけないと思う。嬉しいと思う人もいれば、余計なことをしてくれたと思う人もいるかもわからないからだ。

 これまで私は、結構気軽に引用してしまっていた。当該記事に誘導し、読んでもらえば話が早い、と思っていたからだ。記事に対する私の読み取り方が間違っている場合もあるだろうから、引用記事があれば、「記事そのもの」に対する齟齬は起きにくいと考えていた。

 また、文章をピックアップして切り取るような引用の仕方より、記事を書いた人に通知が行く「記事貼り付け」のほうが「引用させてもらいました」ということをはっきり示すことができるから、むしろリスペクトの気持ちをこめてそうしていたようなところもある。

 紹介記事はいいのだ。相手の記事を紹介するという目的が果たされるだけなので、何ら問題は無いと思う。ただ、自分の意見を加えたいときの引用は、上記の第一、第二のことを考え合わせると、もう少し慎重になったほうがいいのかもしれない、と思うようになった。

 つまり、おおいに反省したのである。

 そのきっかけとなったのが、自分の拙記事『言葉あれこれ#ノイズ』である。

 こちらは、思いがけなく多くの反響をいただいた記事だったが、実はたまたま同じ日に、白鉛筆さん『【雑談】上手いと思われてはいけない』と言う記事のなかで、「読書中にこの人上手い、と思わせるのは、ある意味作者の影を感じさせることなので、そんなノイズを感じさせない本当に上手な作品を目指したい」といった記事を書かれていたのだった。

 そのコメントに「ノイズつながりで同じ日に似たような記事を書いてました」と書いたところ、白鉛筆さんが私の記事を読んでくださって、「実はこの続きがあるんですよ」とのこと。その「続き」の記事が、『【雑談】noteの読者はとても手強い』だ。

 また『言葉あれこれ#ノイズ』の翌日には、geekさん『あったあった』という記事を書いていらして、こちらは、geekさんが私の記事を読んでの雑感を書いてくださったものだった(コメント欄を読む限り)。

『【雑談】noteの読者はとても手強い』のコメント欄には、私の『言葉あれこれ#ノイズ』も読みました、という穂音さんの「味噌汁理論」が書かれていたし、geekさんの『あったあった』のコメント欄には、ウミネコ制作委員会さんが私の記事を読んで2つの記事に繋がりを感じた、ということが書いてあった。

 geekさんはご自身のそのコメント欄で、私の記事に対してあまり見当違いなことを言いたくなかったので引用しなかったんですよ、ということをおっしゃっている。

 そこでわたしは、はた、と、立ち止まったのである。
 そして、なんということだ、と思ったのだった。

 自分がいかに簡単に引用記事を貼り付けてきたかを考えたら、顔から火が出る思いだった。
 そして改めて、記事を丸ごと貼り付けなくても「ちゃんと繋がる」ということがある、と知ったのだった。

 引用、というのは、「他の文章や事例または古人の語を引いて、自分の説のよりどころとすること」とされている(広辞苑)。
 この、辞書から言葉の意味を記すことも、当然引用のひとつである。

 その際「(広辞苑)」と示したように、必ず出典を明示しなければいけないなど、いくつかの規定が「著作権法」に明示されている。

 自分の考えや論説のよりどころを補強したり、説明したり、裏付けたり、証明したりしたいときに、他者の作品や論文、故事成語や歴史上の人物の言葉などからその一部を持ってくる、と言う行為は、日常的によくやること、ではある。

 仮面ライダーカブトの主人公、天道総司がよく「おばあちゃんが言っていた」とおばあちゃんの名言を引き合いに出していた。唯我独尊的なオレサマ人格の主人公のよりどころとして、彼が強く祖母をリスペクトしてることがわかる名ゼリフ。発言に妙に説得力が生まれるという効果がある。(いちいち『仮面ライダー』を引き合いに出すのはいい加減やめたほうがいいと自分でも思うのだが、つい。すみません。ちょうどいい例だったのでご容赦いただきたい)。

 普段から名言ばかり多用している人もいないと思うが、送辞や答辞、結婚式や授賞式など、なにかしらのスピーチなどでは、相当数の人がなんらかの「良さそうな言葉」を引用することは多いと思う。それがTPOやその人の人柄に上手くマッチしない場合、浮いてしまうことや上から目線になってしまうこともあり、注意が必要である。

 引用が多いものとして、他には海外文学などがあげられる。扉やあとがきに(扉の場合はエピグラフという)、引用や謝辞がずらりと並んでいる海外の文学に面食らったことがある人は多いかもしれない。
 文章の途中でも、登場人物のセリフでも、知っていなければ面白さが伝わらないような引用が数多く出てくる。

 西洋では「私たちは巨人の肩の上に乗る小人」と言う言葉があるくらい、現在の学問や技術があるのは先人たちの学問や研究の成果の積み重ね、という意識が根強いので、引用には、先人の研究や論文、作品に対するリスペクトから、自分の論文や意見も、先人の業績の上に立っているということを忘れない、という意味があると思われる。東洋で言えば「温故知新」ということになるだろうか。

 とはいえ、それが逆効果になってしまうこともある。
 引用が多すぎることで「乗っかりすぎ」になり、自分の作品が過去の作家の思考や言葉たちに憑依されたようになってしまうこともあるし、不適切な引用で著作権法に触れたり、引用された側に不利益をもたらしたりすることもありうる。

 引用する、ということは「リスペクト」でもあるが「都合よく使う」にもなりうる、諸刃の剣である、ということは、肝に銘じておきたい、と思う。
 SNSだろうと記事であろうと、それは同じであると思う。

 さて最後に、白鉛筆さんの『【雑談】noteの読者はとても手強い』に対して、私もいろいろ思うところがあった。

 穂音さんのコメントに、

自分で作る味噌汁は、誰にとっても美味しいわけではなくて
でも、これがいい、とツボってくれる人が確実にいる。

『【雑談】noteの読者はとても手強い』
の穂音さんのコメントより

 とあって、それに白鉛筆さんが「味噌汁理論」と名付けていた。
 言い得て妙、だと思う。

 そして穂音さんは「一度作り手として目覚めてしまうと、純粋な味わい手には戻れなくなる」ともおっしゃっている。

 私もまったく同感で、楽しんで読んでいる自分と、作り手としての目線で別のところに注目している自分が共存している。そしてとき子さんと同じように、noteの仲間の文章を読むときと、出版物の文章を読むときはおのずと違う読み方をしている。そしてたぶんそれは、無意識だ。

 コメント欄には、穂音さんやヱリさん、とき子さんなどの文章を書く立場からだけでなく、絵描きさんとしてのKaoRuさんのコメントや、音声表現の立場に立ったいぬいさんのコメントなど、バラエティに富んでいて、本文、コメント欄共にとても勉強になり考えさせられた。

 引用や記事引用を効果的に使うのは、なかなか難しい。
 気をつけながら、いつかは上手に、有効に使える「引用の使い手」になりたいと思う。