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仏は常にいませども

同じ豊橋市、同じ趣味の大先輩、山本野人先生がお亡くなりになり4ヵ月近く経とうとする。本日発刊の古美術雑誌「目の眼」須恵器、猿投特集で山本先生と共に掲載されたのは良い思いでとなりました。皆様ぜひご覧ください。WEB上で無料で見られる事もできますがやはり紙が良いと思います。

さて、本誌でも山本先生を偲ぶ文章もあったので私も記憶のあるうちに山本先生との
思い出をちょっと書き連ねておこうと、ふと思った。

山本先生の存在を知ったのは東京のある古美術店でちょうどご一緒していた花人のKさんから同じ豊橋市の方でこんな方がいるけど知っていますか?という話だった。
その後、名古屋の骨董仲間N先輩と企て
直接山本先生にお会いしたい旨をメールでお伝えしたところこんな痛烈な返信メッセージが来た。
「どちらに住まわれていらっしゃるのでしょうか。どういったものを座辺においていらっしゃるのでしょうか。仏教関連はかけらでももっていらっしゃるのですか。また晩酌にどのような酒器で楽しまれているのでしょうか。興味の範囲が違いますと、噛み合わず、お会いするのが、面倒くさいところもありますので。 山本野人」

このメールでなんて面倒くさい方なんだろうと(笑)N先輩の援護射撃のおかげもあり紆余曲折ありながらも承諾を頂き後日お伺いすることになった。今となっては若者の本気度を試しその駆け引きを楽しんでいたんじゃないだろうかとも思う。

平安時代の仏教美術に恋い焦がれ執念で蒐集した仏像群、斑唐津、黄瀬戸、志野、鶏龍山、ありそうで無さそうな須恵器など卓に上がった酒器の数々。そればかりではなく安物のくらわんかも同じような目線で愛されていたのが印象的でした。手入れの行き届いたお庭を眺めながら奥様による地元の魚介類を使った豪華な料理に舌鼓を打ち同好の士とグダグダ何時間も過ごした。ちょうど11月でお庭の紅葉もよく色づき自慢の礎石に散った紅葉がとても美しかった。

この酒宴を皮切りに約8年間、山本先生と私は親子程の歳の差のあるせいか色々と世話を焼いて下さった。人との出会い、物との出会い、少し大袈裟かも知れないが私の人生を変えるほどの経験させて頂いた。2度程、仏教美術を中心とした利休にたずねない平安茶会をご自宅で開かれて役不足ながらもお点前やお運びのお手伝いをさせて頂いたのは特に思い出に残る。

現代人らしく普段からフェイスブック等のSNSでも繋がり毎日顔を合わせているような感覚だった。いつも揶揄われたり時には叱られたりした時もあったがたまにはお褒め頂いたり励まされたこともあった。名古屋の料亭で酒宴があったとき私が贋物とは知らず李朝の焼物を持っていった際先生はひとこと、「私だったら買わないなぁ」。あえて贋物とは言われなかったがあっこれはやっちまったなと、すぐに察した。同席していた褒め殺しで有名なKさんには「箱は立派だね!箱は」とお褒め頂いた。内心ショックだったが翌日すぐにこんなメッセージを下さった。
「例の李朝でめげているかと思うので、私心を実は、君はそこそこ伸びるのではないかと期待しております。
理由
①お茶にどくされていない 
②必殺仕事人のように、真摯である
③あまり自由になるお金がない  
まあせいぜい頑張って 山本野人」と。

ここから私の堕落人生が始まりました(笑)

いずれ身体もよくなり少なくともあと10年はこのまま骨董遊びが一緒に出来るのだと勝手に思っていた。ちなみに私が裏山文庫という小さな古民家を改装した小さなスペースを作ったのは山本先生に会うたびに「もっと好きなことしたら?何でもいいから早くやんなさいよ、いつやるの?いつか?バカじゃないの?!」と私に火をつけたからだ。その後、病状の悪化とコロナウイルスによる外出控えで山本先生は結局、裏山文庫には一度も足を運ぶことは無かったのがとても残念だ。

昨年、2020年9月の末に訃報の知らせを頂いた。その訃報の知らせとほぼ同時刻に他県に在住している同好の士が突然うちを訪ねてきたのには心底驚いた。虫の知らせというやつか。こんな事って本当にあるんだな。

お亡くなりになった当日の晩、ご遺族に無理を言ってお邪魔させて頂いた。先生はいつも骨董好きの仲間が集って宴会をしていたお座敷で静かに眠っていた。好きな事をとことんやり尽くし満足したのだろうかとても清々しい御顔だった。最後にこの場所でご対面が出来たのが何よりだった。出会いも別れもこのお座敷だ。
心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌。

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