小池百合子のカイロ大学“入学詐称”問題ー非合法入学のこれだけの証拠
小池氏のカイロ大学”入学詐称”を追及する。
結論からいえば、本人証言をベースに、エジプトの大学関連法令から裁判例、カイロ大学の学則から現地報道、留学時代を知る日本人の証言まで照らし合わせた結果、小池氏が合法的に入学した証拠は一切得られなかった。
カイロ大学”卒業詐称”どころか、小池氏の学歴は根底から崩れることになる。
まずは、入学時期から検証する。
小池氏の自叙伝『振り袖、ピラミッドを登る』(1982年)には、
という記述がある。
他の公表されているプロフィールも多く見たが、下記の通り入学年・月には一貫性がある(ただし学部・学科の記載有無はばらつきがある)。
・1972年10月 カイロ大学入学
・1972年 カイロ大学文学部入学
・1972年 カイロ大学社会学科入学
・1972年10月 カイロ大学文学部社会学科入学
しかも、72年10月1日からの記録も明確に残している。
自叙伝の35年後に発刊された『挑戦 小池百合子伝』(大下英治著、2016年)でも、
と同様の記述がある。
非常にリアルな描写だが、同じ1972年10月の出来事について、小池氏のルームメイト北原氏の証言はまったく異なる。
カイロ大学で軍事教練を受けていたはずの同じ年の10月上旬、語学学校初級クラスに一緒に通ったというのだ。
不憫に思った北原氏は自身が通っていた外国人向け語学学校に誘ったところ、小池は「連れて行って」と一緒にいった経緯まで記されている。
こちらもリアルである。一体どちらが正しいのか。現地情報から検証する。
検証の鍵として、カイロ大学での軍事教練の開始年について調べてみた。
1973年公布の法律第46号(人民議会は1973年5月6日承認)はエジプトの大学における軍事教育を受ける者に関して、次のように規定している。
軍事訓練コースはすべてのエジプト人男子学生に差別なく適用される。反対に女子学生、外国人学生はコースの履行義務の範囲から除外される。
軍事教育の目的については、こう記されている。
大学に軍事教育を義務付けた法律第46号の詳細について、エジプトの法令検索サイトでチェックした。
法律の公布日は1973年5月2日であり、同法にそって大学内でどう仕組み化すべきかの指示もある。他の資料や記事をみても、エジプトの大学での軍事訓練は同法にもとづき、1973年に開始とある。
鉄板「匍匐前進」エピソードも嘘だった?
つまり、法律公布の前年、「1972年10月の入学時に軍事訓練を受けた」という小池氏の話自体、ありえないことになる。
それにしても、このエピソードは小池氏が何十年も語り続けてきたものだ。彼女の政治家としての資質を評価する記事には必ずといって登場する。
カイロ大学での軍事訓練とそのエピソード”匍匐前進“の武勇伝をひっさげ、小池氏は戦争を知らない政治家ばかりの日本の政界で、戦いを知る”強い女性リーダー“という稀有なポジションを確立してきたのだ。
しかし、エジプトの史実に基ければ、そのすべては崩壊する。
ただ、入学が翌年の1973年ということであれば、ありえなくもない。
同居人の北原氏の母親宛ての手紙(1973年10月11日付)によれば、小池さんが1973年10月に入学できることが決まって、缶詰の赤飯を食べてお祝いした(「小池百合子『虚飾の履歴書』」)。
北原氏の証言どおり、1973年の10月に入学したとして、その年、軍事訓練を受けたとしよう。もしそうであれば、これまで一貫して経歴に記してきた1972年のカイロ大学入学が嘘だと確定する。
また、先述したとおり、カイロ大学の軍事訓練の対象はエジプト国籍を持つ男性限定とある。エジプト人でも女性や外国人(男女)は対象外。日本人の女性には訓練への参加資格さえないのだ。
ただ、同法4条には「女子学生(訳注:エジプト国籍)に対する軍事教育には軍事文化と医療奉仕が含まれる」とある。
これは自叙伝で「女子といえば、負傷者運搬の要領、応急手当の仕方などを教わる」の内容と矛盾はしていない。
問題はその前の記述で、「男子は上半身裸になってグラウンドを駆け巡ったと思うと、地面を這って進匍匐前進の練習」とあり、匍匐前進は男子限定だったことを自身が書き残している。
その後のページでは「実際の軍事教練やカウミーヤ(愛国心)の授業を教室内部から見れば」と自身が”見学者“であったことに言及する。
それが後になって、インタビューで繰り返し語る「私は軍事訓練に参加し、匍匐前進した」という嘘に変換されていったのだろう。
いずれにせよ、以上の検証によって、1972年の入学も軍事訓練も、虚偽だと判明した。
とはいえ、本人は自叙伝で
伝記で
と、1972年に入学するまでを具体的に書き残している。
これも、あり得ない。
文学部長は1972年当時、留学生(非エジプト国籍の学生)に入学許可を与える権限を持っていない。当時も現在も、入学の合否を審査するのはエジプト高等教育省(1961年設置)の留学生課である。この制度は1963年公布の「高等教育省に属する大学および高等教育機関の組織に関する法律49号」に根拠がある。
同法の第1条によって、カイロ大学は「高等教育省に従属する大学」と規定され、同省の規定に反するカイロ大学の規則は取り消されている。その結果、カイロ大学の入学条件は高等教育省傘下の大学最高評議会マターとなり、留学生の入学についての事務処理は同省留学生課となった。
同法の第4条、5条によって、カイロ大学長でさえ高等教育大臣が任命するものとなり、学部長は事務職に追いやられた。留学生の入学条件など決められる立場ではない。
また、「アラビア語を学んだ実績」で入学許可を得られたというが、これもまたありえない。
当時も今も、高等教育省はアラビア語能力を入学条件に課していない。審査されるのは学力のみだ。その基準として、留学生の本国での高校卒業証明書ならびに成績または公的な試験(例:日本であれば「大学入学共通テスト」。受験していない場合は「通知表の成績」)の結果の提出が求めらられる。
ただ、日本語の書類をそのまま受け付けてはくれない。卒業及び成績証明書を英訳し、高校から文部科学省に送付してもらう必要がある。省の認証印のある書類をカイロの日本大使館に出し、それが真正であることを承認する「レター」(アラビア語)を添付して、はじめて受け付けられる。
その後、成績証明書の点数は両国間の「同等性認証」制度にもとづき、エジプトの全国高等教育試験の点数に換算される。それがカイロ大学が求める点数(学部別に異なる)をクリアし、かつ、留学生の定員範囲内で得点の高い順に合格が決まる。
日本側の手続きには最低数カ月がかかる。加えて書類を留学生課に提出してから、この換算・判定プロセスを経て合格通知書をもらうには、さらに半年前後はかかる。中には留学生課に何年通っても、エジプト的なお役所仕事から合否結果が出てこないケースもある。筆者や同じ留学生課に通った日本人・外国人の実体験だ 。
それが小池氏のように、所定の手続きを経ずにいきなりカイロ大学の学部長や学生課に行って、すぐに入学許可を得たというのは作り話としかいいようがない。
そもそもカイロ大学の学生課にいく用事が出来るのは、教育省留学生課から合格通知書をもらった後だ。上記の通り、カイロ大学は高等教育省の従属機関であるから、同省の文書があってはじめて正規の入学手続きを開始してくれる。
ここまで証拠がそろえば、「私がカイロ大学に入学したのは、1972年10月だった」という自叙伝の書き出しからして、不自然なことに気づく。もっともらしい留学ストーリーを創作するため、「私が入学したのは本当に1972年10月なのよ」と自分に言い聞かせながら、偽りの年月を筆した彼女の姿が目に浮かぶ。
説得力のある北原氏の証言
対して、入学は1973年10月だという北原氏の証言はリアルだ。
北原証言の中で、重要なキーワードは2年「編入」である。
この「編入」経緯について、小池氏のカイロ留学前から、小池一家を経済的に面倒をみていた実業家の朝堂院大覚氏が記者会見で語っている。
2人の証言で共通しているのはハーテムの“コネ”による編入だ。
しかし、カイロ大学の100年を超える歴史において、“編入は不可能”と言われるほど至難の業である。
編入がなぜそんなに困難なのか、解説しよう。
エジプトはコネ社会とはいえど、カイロ大学に入れるかどうかでエリートになれるかどうか決まる学歴社会である。“学歴ロンダリング”になりやすい他大学からカイロ大学への編入には何重にも厳しいルールが課されている。
まず、カイロ大学に入学可否は、エジプトの全国高等教育試験(現地名でサナウィーヤ・アンマ、高校の最終学年に受験)の総得点で決まる。
毎年、カイロ大学の各学部は入学に必須点数を発表し、それをクリアした者のみが願書を送れる。いわゆる足切りだ。そして、志願者を共通試験の点数順に並び替え、1位から定員に達するまでの高得点者のみが入学許可される仕組みだ。
同じ学部専攻だとしても、点数が劣る他大学の学生や、ましてエジプトの大学入試を受けていない小池氏のような外国人を途中編入させては、カイロ大学の権威にかかわる。
小池氏が卒業したとする文学部社会学科の規則でもはっきりこう記されている。
カイロ大学の学則にも同様の記述がある。他のエジプトの大学からはおろか、同じカイロ大学内の学部から別の学部への編入も原則受け付けていない。
「コネ入学」の規定を確認してみる
例外はないのか。
編入ではなく、いわゆる「コネ入学」であればエジプト・アラブ共和国大統領令・1972年法律第49号*「大学組織法とその施行規則」76条に規定がある。
* ナセル大統領時代に制定された1963年第49号をサダト大統領が改正したもので、軍事革命政権による大学統制力がさらに強化された。これが適用されるのはエジプト最初の国立カイロ大学(創設1908年)、第二のアレクサンドリア大学(1952年)、第三のアイン・シャムス大学(同)、第4のアシュート大学(同)を始めとする12大学(タンタ大学、マンスーラ大学 、ザガジグ大学 、ヘルワン大学、イスマイリア、メヌフィア大学、ミニヤ大学、サウスバレー大学、以上はすべて1972年以降設立)
しかし、この条文は1985年6月29日の憲法裁判第106号で違憲の判決が下り、無効となっている。「近親者の優遇は、法の下の平等、教育機会の公平性に反する」という理由からだ。極めて真っ当な司法判断である。
そうはいっても、本当にコネ・裏口入学はないのか。
権力者が大学に圧力をかけたとしても、各受験生の総得点と全国順位が鏡張りのため、後でバレやすい。また、権力者の裏口入学がバレれば、不公平な学歴社会に苦しむ“エジプト世間”の不満を高め、反政府運動につながるリスクもある。過去に表沙汰になったのは、共通入試の段階で、得点の高い受験生と他の受験生の点数がすり替えられた事件ぐらいだ(権力者が関わったとの噂はあるが、真相はいまだ不明)。
では、編入の例外はないのか。なくはない。
同法第81条に「ある学科から他の学科への編入は、学年度の終了時のみとする」とある。
カイロ大学の同じ学部内に限り、学科間の編入は可能という意味だ。同じ学部内なら学科が違っても、全国中等教育試験の必須点は満たしており、入った後も共通科目も多い。違う科目があっても、編入後、その単位を取得させる対応も可能だ。
一方、同じカイロ大学でも学部間の編入は許されない。例えば、必須点も専門も異なる文学部から医学部などへの編入はNGだ。
例外とはいっても、この条文は公平性の高い編入制度を担保していることがわかる。
さらには同じ専攻学科からであっても、大学組織法所管外の教育機関からカイロ大学への転入学、編入は厳しいルールが課されている。容易に単位交換はできず、1年から入り直さなければならないか、それすら認められないケースがほとんどだ。
一例として、小池氏のような外国の大学からエジプトの大学への編入を巡る判例をみてよう。
アラブ・ベイルート大学法学部2回生(エジプト国籍)の父親が起こした裁判がある。レバノンの大学からエジプトのアレクサンドリア大学法学部2年への編入申請したところ、大学が受入拒否したことを不服とし、拒否撤回を求めて国を訴えた(国家訴訟庁、アレキサンドリア行政裁判所裁判番号1444)。
判決は原告敗訴であった。同じアラビア語で、同じアラブの大学で、同じ専門分野の1年分の単位をとったエジプト人でも、2年編入は不可能だったのだ。
以上の学則・法令・判例にもとづけば、日本の大学の数カ月と大学の単位ですらない外国人向けアラビア語初級コースの数カ月分をカイロ大学1学年分とみなす、2年編入はありえない。小池氏への編入措置は明らかに法令違反だといえる。
違反を覆せる一つの条文
しかし、同法212条及び施行規則289条を隅から隅までチェックしたろころ、違反を覆せる条文が一つだけある。
87条の「極めて必要かつ不測の事態の場合、教育大臣は、共和国大統領の決定により発行された規則および規定 に従って、学生を編入させることができる」だ。
大統領の決定によって、編入を認めるという超特例中の特例条項である。
この法律の制定は10月1日、発効は1972年10月5日。ハーテム氏の支援で小池氏が2年生に編入されることが決まったのは同年11月(書証あり:北原氏から母親への手紙、入学は翌年1973年10月)である。偶然というには出来過ぎのタイミングである。
「カイロ大学声明の本質③―小池百合子とハーテム情報相の深い関係」でも触れたとおり、ハーテム氏が小池氏のカイロ大学の入学から卒業までを支援したのは、日本の首相からの要請があったからという理由である。
日本の首相からの要請とはまさに、同法87条の前提条件「極めて必要かつ不測の事態の場合」に相当するだろう。
大統領令87条は”小池条項”だった
以上の傍証からすると、87条が小池氏に適用されたというより、当時、日本からの彼女の特別編入のために制定された”小池条項“と読み取れなくもない。
奇しくも、87条が制定された1972年と同時期に、小池が懇意にしていたエジプト人向けにカイロ大学入学ルールの変更が行なわれている。
大統領夫人やその娘たちといえば、小池氏が
というほどの関係だった。
その彼女たちのために変更されたカイロ大学入学ルールについて解説しよう。
「GCE」とは、イギリス系高校で16歳時に課せられる、大学入学に向けた予備試験である。従来、エジプトの高校卒業時(18歳)に受験する「共通試験」と同等とみなされていたのは「GCE Aレベル」だった。
Aレベルは18歳で受験する試験で、イギリスの大学入学に足る学力に相当する。従来、両国の大学入学資格のレベルを比較し、イギリス系高校出身者に対し、エジプトの大学への公平な入学制度が確立していたのだ。
一言でいえば、カイロ大学への最低入学資格は
であった。
きわめて単純に聞こえるが、この制度が構築されるまでに長い年月がかかっている。
教育の頂点カイロ大学が最初にできて、その後に、カイロ大学入学に足る学力を養うべく、小中高の教育制度を作り上げていったのだ。
この価値を崩壊させたのがサダト大統領である。「高校卒業証明書またはそれに相当する外国の証明書」を持たないジハーン夫人や娘のために、厳格な法令・規則を変えて、カイロ大学に入学させたのだ。
縁故主義による権力の腐敗である。
しかし、サダト大統領が暗殺された後、事態は動く。
教育機会の平等を訴える弁護士がジハーン夫人の入学資格の合法性の是非を問い、カイロ大学を訴えたのだ。
しかし、裁判は延期のうえ、棄却され、うやむやにされてしまう。夫人の入学資格については、不公平とはいえ入学規則の改正後であった。
小池氏編入は合法だったのか
一方、小池氏の編入資格の合法性の是非はどうか。
ポイントは87条の「極めて必要かつ不測の事態」と「共和国大統領の決定により発行された規則および規定」の2つある。
この条項が、どういうケースで適用されてきたか調査してみた。
公開済みの事例ではすべて、外国の大学を中退した学生を編入させるために使われている。小池氏のケースと同じだ。
例えば、ロシア・ウクライナ戦争、スーダン内戦のため大学で勉学が続けられなくなったエジプト人や一部スーダン国籍の学生に対し、2023年、87条を適用し、編入させている(「マスラウィ」2023年6月18日)。戦争・内戦という「極めて必要かつ不測の事態」も明確だ。
「共和国大統領の決定により発行された規則および規定」はどうか。
編入受入の規定は細かく、19項目もある。単位交換のための厳密な同等性査定についてや高等教育省が承認していない大学の場合、査定ができないため、編入試験を別途課すなどの内容である(「マスラウィ」2023年6月18日)。
筆者がカイロ大学に留学していたの1990年前半には、ボスニア内戦から逃れてきた難民学生を一部受け入れていた。その際も、彼らは1年から入り直すか、編入規定をクリアするのに何度も留学課に通って書類を申請していた。
つまり、小池氏の編入に限って、緩々なのだ。これは87条適用の適法性を問うに足る事案である。
しかし、赤の他人の編入事案に対し、カイロ大学を訴えることができるのか。
ジハーン夫人に対する裁判や過去の判例をみれば、わかる。小池氏のケースでこれまで述べてきたような証拠をもとに、編入は大学組織法に反するという異議申し立ては可能だ。
実際、大学組織法87条を巡る裁判の判決文にこうある。
小池氏の場合、この原則に反し、客観的な条件も権利も順位付けも皆無だったのは明からである。そこを焦点にエジプトの裁判で争い、勝訴すれば、小池氏のカイロ大学卒業どころか、入学したという主張が無効となる。