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カイロ大学声明の本質④ー小池百合子のエジプト国家エージェント化

前記事「カイロ大学声明の本質③ー小池百合子とハーテム情報相の深い関係」で述べたが、一言でいえば、小池氏はハーテム氏の目論見どおり、エジプトの利益を代弁するエージェントとして立派に育ったというわけだ。

その記録をハーテム氏は歴史の証拠として、政府系新聞に明確に残している。もちろん、ただの新聞ではない。

アハラーム紙はハーテム氏が最高執行委員を務めていた新聞であり、彼が創設したエジプトの国家情報部の従属下にある「政治機関」である(参考文献『ハーテム回想録10月戦争政府の首相』未邦訳)。

10月戦争とは、いわゆる第4次中東戦争のことで、ハーテム氏は戦時中首相代行を務めた。

つまり、アハラーム紙の記事はすべてエジプトの国益に根差し、政治的意図をもって書かれた声明なのだ。

ハーテム氏は、小池氏が環境大臣という要職に就いてから紙上で彼女について語り始めるようになった。

入学・卒業の実態が正規のものというより、ハーテム氏の”支援”であることに言及。小池氏の学歴について、弱みを握っていることを仄めかしたといえる。

記事のなかには、「1970年に日本の首相からの要請で、当時14歳だった小池百合子という日本人の女の子を養女にした」という一文がある。直訳すれば「養女にした」だが、「子飼いにした」「採用した」との意訳もできる。

アハラーム紙の政治的文脈から解せば、「エージェントとして採用」という訳がいちばんしっくりくる。

「日本の首相の要請」という記述も意味深長ではないか。
1970年当時の総理は佐藤栄作である。両者に面識はあったのか。

たしかに1970年、

「アラブ連合*のアブデル・カーデル・ハーテム特使(元副首相)は首相官邸に佐藤首相を訪れ、歓談した」
*当時のエジプト国名。シリアと連合を組んでいた。

「読売新聞」1970年6月7日

との記録が残っている。

その翌年の1971年9月、小池氏本人が「カイロ留学へ(家族、アラブ協会中谷武世会長が見送る)」と書いている。

続けて、「アラブ協会名誉顧問であるエジプトのハーテム氏とは現在に至るまで文字どおり家族的付き合いを続けている。エジプトでの父親的存在だ」と、ハーテム氏との特別な関係を明かしている。

カイロ留学を見送った中谷武世氏は小池氏の”師父”と呼ばれた存在。佐藤首相の兄・岸信介氏の戦前からの盟友にして、佐藤氏自身のブレーンだった人物である。

『佐藤栄作日記』(朝日新聞社)にも、中谷氏と対談した記録が残されている。「中谷武世が総裁選を心配してやって来る」「本部で中谷武世と対談」(『佐藤栄作日記』からの一部抜粋)と記すほどの関係だ。

中谷氏とハーテム氏の関係も相当深い。1958年1月に初面談している。

その年の9月にナセル大統領(ハーテム氏は当時、大統領顧問兼副首相)の要請に応じて、中谷氏はアラブ協会を設立したとされる。さらに小池氏の父・勇次郎氏は中谷氏と親しく、長く同会の会員だった。

以上のディープな人物相関関係から、何が言えるだろうか。つまり、中谷氏が勇次郎氏の娘をハーテム氏の懐に差し出し、その裏には佐藤首相の”要請”があり得たということだ。

そう考えると、極めて特例な小池氏のカイロ大学編入についても説明がつく。先述したように、フセインやその他のアラブ諸国からの亡命工作員でさえ許されなかった特別待遇のことだ。

大学組織法の第807条に「極めて必要かつ不測の事態の場合、教育大臣は、共和国大統領の決定により発行された規則および規定に従って、学生を編入させることができる」とある。日本の首相からの要請は、まさに「極めて必要かつ不測の事態」だろう。

そしてこの法律は、ナセル大統領死去後、後任のサダト大統領が1972年に制定したものだ。この年は、小池氏がカイロ大学〝入学〟を謳っている年でもある。

同居人の証言・物証(母親に送った手紙、小島氏が証拠保全済)では、“編入”したのは1973年のはずだが、「共和国大統領の決定により発行された規則および規定」によって、入学年の改竄などどうにでもなる。

ハーテム氏は大統領ではないが、サダト大統領とはともに革命をおこした同志であり、軍・情報部権力の中枢にいた人物であったことは、これまでみてきたとおりだ。

何よりもエジプトにとって日本権益の窓口であった。

エジプト日本権益の後継者

「日本の首相の要請で小池氏を養女にした」と記述のあるアハラーム紙の記事で、ハーテム氏は日本の権益を細部にわたって語っている。

ハーテム博士は日本(政府)や日本の首相との良好な関係に投資した結果、日本はカイロ大学小児病院(訳注:カイロ大学医学部附属の教育機関でもある)や製鉄会社、オペラハウスの設立援助に同意したという。

しかし、博士の日本関係での最も重要な功績は、1973年10月戦争後、スエズ運河の再開に漕ぎつけたこと。日本が全面的に資金を提供し、第一段階で1億8000万ドル、さらに第二段階で1億8000万ドルの援助を実施したことであり、現在、スエズ運河はエジプトに年間300ドルの利益をもたらしている。

「日本の偉大な業績のおかげである」

それにしても、首相の要請時、「14歳であった」という年齢が気になる。当時、中学生だった小池氏を、佐藤栄作首相がハーテム氏の養女にさせたとはにわかには信じがたい。

しかし、相手は「プロパガンダの父」であり、イスラエル軍の不意を突いた奇襲攻撃を仕掛け、情報戦で勝利した第4次中東戦争における「戦略的欺瞞計画」を立案したほどの人物である。

小池氏が14歳の時といえば、記事の1970年ではなく、1966年。この年の1月4日、「来日中のアラブ連合の副首相ハーテム氏来邸」(『佐藤栄作日記』)と官邸で会っている。その翌月、佐藤首相は特使をエジプトに派遣しており、ハーテム氏の出迎えを受けている(「読売新聞夕刊」1966年2月4日)。

佐藤首相がハーテム氏と会ったのは日記によると2回だけだが、その2回の時期はハーテム氏が現地新聞に残した「1966年小池養女説」及び「1970年小池養女説」の年とぴったり重なる。

二人共あの世に行き、真相は闇のままだが、これこそハーテム氏が生み出したエジプト流プロパガンダの真骨頂だ。

いくら疑念や疑問が寄せられても、一切答えず、さらに大きな”誇張”や”法螺”をかぶせていく。それを何層にも重ねることで、疑念を持つ者の追求心をそぎ、真相を闇に葬り去る。すべてはエジプト国家に有利な言論空間を生み出していくためだ(参考文献『プロパガンダ理論と実践』ハーテム著、未邦訳)。

首相要請の有無は別として、わかったことは小池氏が”エジプトのエージェント”として育成され、いまもハーテム氏が築いたエジプトの日本権益の後継者であることだ。


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