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小池百合子の同級生・後輩の学歴詐称問題ーその入念な手口とカイロ大学腐敗の構造

小池氏と近しい関係だった、サダト大統領のジハーン夫人と3人娘が、不正な形でカイロ大学に入学した経緯は「小池百合子のカイロ大学“入学詐称”問題ー非合法入学のこれだけの証拠」で記した。

その夫人は小池氏の1学年後輩で、長女は同学年だった。

彼女たちも正規の”カイロ大卒“という学歴になっていたが、1980年代に入り、次々と学歴詐称疑惑が表沙汰になっていく。ジハーン夫人・二女ノーハ、長男ガマルの3人が不当な学位授与の容疑で訴えられた(詳細は後述)。

そして、優秀な学位が授与されたはずの三女ジハーン(夫人と同名)は「落第生」であったとカイロ大学教授が暴露している。

「末娘は勤勉ではなかった。彼女は年を追うごとに落第科目を増やしていった。2学年で彼女は4科目を落第し、3学年は”補習”に費やした。教授の何人かがギザの大統領邸宅に呼ばれた際、この学生には(訳注:卒業は)難しいかもしれない、と説明した」。

ムハンマド・アナニ自伝『エジプトのオアシス』(未邦訳)

ジハーンの卒業危機は急展開を迎える。

新聞に

「ジハーン・サダト、英語学士取得(総合成績87%)」

「グムフレイヤ紙」(政府系)1981年7月13日

という見出しが躍ったのだ。

「昨日、カイロ大学で文学士試験の結果が発表された。文学部長ナサール博士によるとジハーンの総合成績は87%で、平均の総合成績は40%だった」

“誰か”の話に酷似しているではないか。

「首席卒業」を長年アピールしていながら、実際には落第していた小池氏、それをカバーするカイロ大学の対応だ。

2020年の都知事選挙ではフシュト学長から直々に「卒業を認定」するカイロ大学声明が出され、24年同選挙の告示直前に行われた「虚偽学位」告発会見では元文学部副学部長のハムザ氏が登場し、「卒業証明書は本物」と熱弁。ハムザ氏は小池氏の学業実態や成績についても、擁護していった。

“追試で首席”という苦しい言い訳

「学業実態のある卒業だと確信している。追試を受けた学生に限れば彼女の成績はトップ。だから『首席』と勘違いしたのだろう」

「日刊ゲンダイ」2024年6月19日

“追試で首席”とは苦しい言い訳だが、エジプト権力中枢に近い落第生に救いの手を差し伸べる、こうしたカイロ大学幹部は「スルタンの召使い」と呼ばれる。「スルタン」とは、イスラム王朝の君主の称号だが、この文脈では、「権力者に媚びへつらい、(訳注:カイロ大学を支配する軍の)諜報機関に協力することで、報酬を得ていく」(『我が足跡を辿る』2004年 カイロ大学歴史学部教授ラウフ・アッバース著・未邦訳)人物のことだ。

サダト大統領ファミリーにはどんな「スルタンの召使い」が仕えていたのだろうか。本記事で彼らの学歴詐称の手口とその背後にあるカイロ大学の腐敗の構造に迫っていく。

その前にサダト家と小池氏との関係、サダト家の面々について触れておこう。

「私がサダト大統領に始めて会ったのは1974年。ある国家議員と大統領との会見に付き合うかたちで大統領官邸でお会いした。

『カイロ大学の2学年です。奥様と同じ文学部で勉強中なんです』と自己紹介すると、『そうですか。うちの女学生さんも試験にはふうふういってますよ。頑張ってください』『しっかり、勉強して、エジプトをよく理解してください』と大統領は私に声をかけてくださった。

ジハーン夫人は私の一学年下のクラスで学んでいた。
夫人は『また遊びにいらっしゃい』と言いながら手を振る。大統領官邸訪問というより、親戚のおじさん、おばさんを訪ねたような感じった」

『振り袖、ピラミッドを登る』1982年 小池百合子著

「百合子さんのが入ったのは文学部社会学科。このクラスにジハーン夫人の長女*もいた」

「産経新聞」1976年10月22日

「ジハーン夫人の娘ノーハさんと同級*だった」

「朝日新聞」1978年2月1日

「三木さん(当時の副総理)だけでなく、政界、経済界のいろんなミッションが産油国を廻り、最後にカイロに立ち寄り、サダト大統領に会うというのがパターンでした。私はカイロ大学3年目の後半でしたが、通訳とかコーディネーター役――例えば誰にあったらいいかなど――に駆りだされました」

「VANGUARD」1990年12月号

*産経新聞の取材では社会学科の同級生に長女がいたというが、長女ルブナは英語学科で学科が違う。同学年であることは、ルブナのテレビインタビュー(エジプトの番組名「最後の言葉」2023年9月30日)での発言から確認した。朝日新聞の記事ではノーハさんと同級ともいうが、彼女は長女ではなく、二女である。彼女も英語学科で別の学科に在籍で同級ではない。

小池氏が大統領官邸を訪問したのは一度や二度ではないようだ。大統領夫妻を「親戚のおじさん、おばさん」と呼ぶぐらいの関係を築いたのだ。

次に大統領一家のプロフィールを公式記録から紹介しておこう(出典「サダト家の公式経歴特設サイト及び政府系エジプト報道」)。

ジハーン大統領夫人(1933年-2021年)は母がイギリス人、父がエジプト人医師の上流階級に生まれ。英語で授業が受けられるミッション・スクールに通った。

大統領夫人がカイロ大学文学部アラビア語学科に入学したのは1973年、子供を育てあげた後の41歳のときだ。優秀な成績で学士号、修士号を得た後、カイロ大学に勤務しながら、博士号も取得している。

3人の娘はいずれもカイロ大学文学部英語学科を卒業。次女は大学院に進み、三女は”優秀な“成績で卒業し、英文学科の助手に抜擢された。長男の卒業成績は化学科トップ3だった。

一族の統領サダトはといえば、エジプト北部ミヌーフィーヤ県の貧村の生まれだ。母親はスーダン人で、14人もの兄弟がいた。苦学の末、陸軍士官学校を卒業。”アラブの英雄”ナセルが結成した陸軍の秘密組織・自由将校団の一員となり、1952年エジプト革命を率いた。

1970年9月28日、ナセルが死去した際、サダトは副大統領の職にあり、後任として共和国大統領に就任した。 貧しい家系の出身から軍事政権トップにのし上がった彼は、3人娘を名門カイロ大学に入れ箔をつけさせ、エジプトの名家に嫁がせていく。

長女ルブナは1972年入学後、在学中の1974年に文部大臣の息子と結婚。同年、二女ノーハは人民議会議長の息子と婚約、翌年結婚。3女ジハーンは1975年入学、81年卒業後、住宅大臣の息子と結婚している。

しかし、我が世の春は続かない。

サダト暗殺後に学歴問題が露呈

1980年にサダトが暗殺される。残された遺族はその数年後、立て続けに学歴詐称の訴訟を受ける。

「ジハーンとガマル・サダトの学位に異議を唱える」
行政司法裁判所はジハーン及びガマルの学位に対する異議を巡る裁判を審理する。(中略) 原告弁護士はジハーンに対してはカイロ大学文学部の入学資格について、ガマルについては取得した工学部学士号について疑義を呈している。
大統領の暗殺後とはいえ、誰が証拠を提供したのか。カイロ大学の中に権力者に盾突く人物はそうはいない

「アハラーム紙」1983年4月11日

「スーフィー博士はガマル・サダトの学位問題を提起した最初の責任者」
当時学長であったスーフィー博士はガマル学位問題を提起し、(関与したとされる)サーレハ教授を大学から追放した。
しかし、問題は工学部の一部の教員がガマル氏らに個人授業をしたことに苦情が寄せられていたが、なぜこれまで調査が実施されず、大学規則に違反した授業がどうして継続していたのか。
カイロ大学則第103条は教員が有償・無償を問わず個人授業を行うことを禁じている。 当該大学やその制度下における試験中の学生監視状況についても、いくつかの苦情が寄せられている。これらの苦情に真摯な態度で調査せず、試験制度とその監視手続きにカイロ大学が対処してこなかったのはなぜなのか。

「アハラーム紙」1983年1月18日


学長が問題提起したことになっているが、深読みすれば、権力交代の時代背景もありそうだ。エジプトの軍事政権はサダト大統領からムバラク大統領に移行した時期で、ムバラクの正統性を確立するため、サダト時代の汚職、腐敗を一掃するキャンペーンをしていた時期に重なる。正当に学位を取得したのに、キャンペーンの一環として、サダトの権力基盤を失墜されるために長男がやり玉に挙げられたとのさらなる深読みもできなくはない。

だが、記事はカイロ大学に蔓延る不正な制度自体の問題を追及している。これは、サダト時代にカイロ大学が腐敗した経緯と実態を詳述した、同歴史学教授アッバースの著作『カイロ大学の過去と現在』『エジプトの大学と社会 100年の大学闘争1908年-2008年』『我が足跡を辿る』の内容と重なる。

一連の著作は母にあたるジハーン夫人、姉のノーハをはじめ大統領ファミリーへの不正学位授与問題にも触れており、ガマルだけが例外ということはありそうもない。

長男ガマルの裁判はどうなったのか。

ガマル・サダト氏への学士号授与に異議を唱える訴訟」
故サダト大統領の子息ガマル氏への学士号授与をめぐる訴訟は、ラマダン弁護士によって提訴されたもので、ハミード裁判官(裁判所長兼国家評議会副議長)が裁判長を務める行政裁判所で本日審理される。
同弁護士は訴状の中で、自分の担当科目の試験をキャンセルした工学部教サレハ博士に関する調査ファイルや同教授が言及したガマルの落第を発見した経緯を含めるよう要求している

「アハラーム紙」1983年10月11日

少ない記事情報から読み取ると、担当教授はガマルが落第していた科目について試験自体がなかったことにして、彼を落第から救済した不正の実態が浮かび上がる。

しかし、この裁判は延期される。

――ジハーン氏とガマル・サダト氏の大学の学位への疑義を巡る訴訟を延期

「アハラーム紙」1983年9月2日

行政訴訟裁判所は昨日、カイロ大学を相手取って提起された、ジハーン・サダト氏への学士号および修士号授与ならびにガマル氏の工学学士号授与の決定保留を求める2件の訴訟の審理を延期することを決定した。

本訴訟についてその後の政府系新聞記事が見あたらない。権力者ファミリーの醜聞を防ぐために、うやむやにされたのだろうか。

ネット検索したところ、個人の投稿記事をみつけた。

「サダト氏の一人息子で、カイロ大学化学科3位の学位を取得したガマルは卒業後、工学部の教授の下で働き始めた。在学中、化学学科長による告発があったため、学位取得手続きが長引いたが、調査でガマルへの”忖度”はなかったことが証明された。『大統領の息子であり、彼は取得したカイロ大学の学位に値する』と『アル・ワフド』紙は報じた」

素直に読めば、大統領の息子だから学位に値すると、“コネ卒業”を認めたような内容だが、真偽は不明だ。  

いえるのは、一連の訴訟の裁判長が国家評議会副議長だったことだ。国家評議会副議長とは、エジプトの国家機関の中で、司法権を持つ組織のトップ2である。

たかがカイロ大学の学位と思われるかもしれないが、カイロ大学は由緒ある国家機関である。一連の訴訟は学位を授与したカイロ大学に対して起こされたもので、カイロ大学も国家評議会も同じく、国家を代表する機関である。

どれだけ不正の証拠があろうが、国家機関の名誉をこれ以上損ねないよう司法的な配慮がなされた可能性もある。

サダト家の次女ノーハに授与された学位を巡る裁判については最終結果が出ている。

「ノーハ・サダト氏の文学士号取得を巡る裁判への控訴は棄却」
行政司法裁判所は昨日、エジプトの故指導者サダトの娘であるノーハ氏にカイロ大学から授与された学士号に対する異議申し立ての不受理を決定した。こうして大統領ファミリーの学歴問題は幕を閉じたように思われた。しかし、2005年前述したカイロ大歴史学教授アッバース氏が自伝『我が足跡を辿る』を刊行。その中で、サダト一族の学位問題について、アッバース氏は自身の体験をもとに告発した。

「アフバール紙」1983年10月26日

関連箇所の大意を紹介しよう(原文は文学的・隠喩的な表現を含み、ただ訳出しても分かりづらいため、該当箇所の解説・補足をした書評をいくつか参考にした)。

「ジハーン・サダトがカイロ大学で摘み取ったもの(訳注:偽学位)には犠牲が伴った。ハナフィ博士は、ジハーン夫人が学士号で優秀な学位を取得したことに異議を唱え、彼女を採点した者たちの腐敗に抗議したというだけで、学部長と学長から嫌がらせを受けた。ジハーン・サダトが1年を通して数日しか講義に顔を出さなかったにもかかわらず、 彼の昇進は2年近く遅れた。

優秀な成績で卒業した後、ジハーンはアラビア語学部の講師に任命され、ドイツ語学部の1年生にアラビア語を教えていた。同僚の一人であったドイツ語学科助教授は、夫人が大学に来たときの歓迎係となり、夫人のコーヒーを用意することを専門としていた。この『国家的使命』の報いとして、後に在ドイツ・エジプト大使館の文化顧問の地位に就いた。

教員たちは『ファーストレディ』に嘆願するために奔走し、何人かの教授は大統領の家で娘のための個人レッスンを引き受けた。そのうちの何人かは文化顧問や政権党の要職で報われた。

学部長は副学長にまで上り詰め、その後、諮問評議会の初代議長となった。学長は人民議会の議長職で報われた……名前はもちろん知られており、これ以上明かす必要はあるまい。

大統領夫人の修士論文は、エジプトの大学史上、もっとも悲しい出来事となった。その論文発表討論会の模様はすべてエジプトのテレビで放送され、大統領が出席したこともあって再放送された。委員の一人は(自作の賛美詩を朗読した後)、この論文は修士号ではなく博士号に値すると述べ、この点に関する法の不備を嘆いた」

まさに腐敗の極みである。

大統領夫人は学士号だけでなく、修士号も権力に媚びる教授陣から”不正“授与されていたのだ。この告発本が出た際、ジハーン夫人は著者を一切訴えなかったことからもその真実性が伺えるだろう。

夫人はカイロ大学での”不正“学位を足がかりに、生涯を通じて、世界の20以上の大学から名誉博士号を受けた。

そんなサダト夫人は娘の不正学位のためにも、奔走している。

「アッバース教授は、『サダト一族の召使』を命じられる屈辱を受けたこともある。カイロ大学の文学部長から呼び出しがかかり、ジハーン夫人があなたに会いたがっていると告げられた。『自分の研究に関連する歴史的な問題について君に相談したいようで、彼女が信頼する数人が君を推薦しているので、火曜日に夫人に会いに来てほしい』。アッバース教授は『自分は火曜日は大学への出校日ではなく、自分は助教授であって、夫人の相談の乗る立場ではないこと、どうしても夫人が助言を必要とするなら、出勤日になら会える』と告げ、学部長に背を向け立ち去った。

アッバースは学部長は呼び戻され、話を聞くと、ジハーン夫人の要件は彼女の娘に関係していることが判明した。翌土曜日、サダトの娘がアッバースのオフィスに現れた。

彼女はこう告げられた。『修士号に向けて勉強していて、ワフド党についての研究論文を準備している』

アッバースは『それならA博士、B博士あるいはその両方を頼るように勧め、2人の教授の著書や研究内容を列挙した』

サダトの娘はしばらく黙っていたが、父から助けてくれる最もふさわしい専門家はアッバース先生で間違いないと聞いた、と言い出した。アッバースは詫びた上で、エジプトでワフド党の本当の真実を知っているのはお父上だけだから、とサダトの助けを借りるよう勧めた。

その後、学部長から電話があり、論文を書くのはアッバースしかいないこと、研究論文を書いてくれる人がどうしても必要だと告げられた。

アッバースは学部長に対し、怒号を浴びせた。
『お前はどこの席に座っているか知っているのか。ターハ・フセインの椅子に座りながら、奴隷商人として働き、大学教授の職を奴隷市場で売っているんだ』」

ターハ・フセインといえば、名門カイロ大学文学部の象徴である。カイロ大学第1期生にして博士号第1号で、歴史学(古代ギリシャ・ローマ史)の教授となった。さらに、その業績から文学部長に選ばれ、文部大臣にまで上りつめた人物だ。

彼の自叙伝『日々』は「アラブ文学の金字塔」との評価を得ている。幼少期の事故で盲目になったターハがハンディキャップを乗り越え、近代エリート大学の教授になるまでの成功物語(ノーベル文学賞候補にもノミネートされた)である。一生懸命勉強すれば、困難を克服して社会に貢献できるというカイロ大の建学精神を体現したのがターハ・フセインなのだ。

その系譜を継ぐべき文学部長が権力者に媚び、論文を書かせようとしたことにアッバース氏はがまんならなかった。

アッバース氏の回想録にはジハーン夫人、二女ノーハ以外に、サダト一族から末娘のジハーンも登場する。

「教授会で、カイロ大学教育学部ファユーム分校・英語学科の講師であったジハーンから、『自宅が近い』という理由でカイロ大学本部に異動させてほしいという要請があった。

文学部評議会のメンバーであった私の友人は激怒した。学部長に対し、こんな議題を持ち出すのは評議会や教授陣に対する侮辱であり、この審議は無期限延期すべきと述べた。 学部長はすでに英語学科評議会はこの要求を承認しており、我々は”日常的なケース”に直面しているだけであって、決定に誰も責任を負わないと答え、評決に進めた。賛成票が過半数を超えたことに、私は驚いた。(中略)

10月6日の式典(訳注:1973年第4次中東戦争の戦勝記念の軍事パレード。その閲兵中に、式に参加していた兵士から銃撃を受け、サダト大統領は死亡)の後も、(訳注:権力に従わない者は)大学から排除される決定が出されるとの強い噂があり、友人は落ち込んでうつ状態になった。大学の雰囲気は汚職と権力者へのひれ伏しによって毒されており、自分が大学に残ろうが追放されようが、昇進しようがしまいが、この苦い真実に変わりはないと信じていた。(中略)」

しかし、現実は少し違っていた。

「10月6日の後、(サダトに)追放されていた同僚たちは大学に戻り、ジハーン・サダトとその娘は学部を辞め、日和見主義者たちは新しい支配者の羅針盤の上で、自分の大学での立場を再調整し始めた」

父の威光を失い、夫人と娘はカイロ大学から去ったのだ。アッバース教授の回想録を読むと、小池氏が在学したサダト時代のカイロ大学がもっとも腐敗していた時代であるといえる。

回想録には、大学を腐敗させ、その腐敗から利益を得た者たちに多くのページが割かれている。サダト一族の話以外にも、大学資金の横領から昇進委員会や試験委員会のまつわる汚職、成績の水増しから講義ノートの高額販売、「個人レッスン」マフィアからお金と引き換えに産油国アラブ人に教授職を用意した収賄について……

しかし、大統領が何人交代しようとも、カイロ大学の真の支配者は変わらない。それは、「カイロ大学声明の本質②ーカイロ大学の権力と腐敗の構造」でも触れたが、エジプト軍の情報部や国家安全保障局に代表される治安当局である。スルタンの召使――権力者に媚びを売るカイロ大学人はどう立ち振る舞っているのか。

回想録から実態を紹介しておこう。

「大学長は治安当局の命令に異議を唱えない者から選ばれる。学長は、学問的・管理的・財政的な問題で大学評議会の決定に応じる必要はない。一義的な任務は治安当局への『忠誠心』である。当局からの『拘束力のある助言』に耳を傾けなければ、将来を危うくする。学長にとって最大の望みは『より高い椅子』、つまり省庁の高官や大臣への栄転である。学長はその椅子を前にしたとき、『広報キャンペーン』として諜報機関に自らをアピールできる機会を自ら作り出す」

といっても、キャンペーン期間中、学長の意に反する教授もでていくる。たとえば、当局が監視する学生や職員に対して、無実の罪をでっちあげるよう指示を受けた場合などだ。

「『私は大学教授であり、教え子相手にそんなことをするのは良心が許さない』と告げると、学長は『われわれは”政府職員”であり、”政府の命令”に従わなければならない』と警告した」

それでも言うことを聞かなければ、教授は不当な処分を受けることなる。学籍を抹消され、論文や研究成果もなかったことにされたり、その先には停職か追放が待っている。

学長の出世にとっては、権力に従わない教授を絶えず監視し、問題を起こす前に懲らしめられる学部長がいるのが望ましい。当局にとっても同じだ。そんな学部長になるためにはどうすればいいのか。

「学部長の地位は大学の指導的地位(学長・副学長)への登竜門であり、当局から反対されない者だけが獲得できる。だから、学部長を目指す教授たちは、当局の支援者に対して、自分をよく見せようと躍起になっていることは言うまでもない。当局から信頼を得るには、特定の学生の”学生会選挙”出馬阻止から始まる。そこから”温かい関係”が築ける。手腕を発揮するには”学制を乱した”など、あらゆる理由で学生の容疑をでっちあげること」

しかし、教授として良心があり、そんなひどいことを学生にできない場合、誰が学部長になるのか。
「当局が候補リストに名前がない人物を任命する」だけだ。

教授はただ真面目に教えたり、当局の指示に従っていただけではその地位はキープできない。

「諜報機関の息子か娘の一人が試験に落ちたから……」という理由で解雇されることもある。

どの教え子の父親や親類が諜報機関務めか、アンテナを張り、合格させないと大学人生を棒に振ることになる。

能力が高く、やる気があるだけでもダメだ。

「治安機関や政権の取り巻きの圧力を顧みず、大学改革を果たそうと努力した場合、解任される可能性がある」

カイロ大学で生き残るのはかなり難易度が高そうだ。では、「スルタンの召使」たちはどうやって現実と折り合いをつけ、出世していくのか。

アッバース教授の回想録に収録された書評『尊敬する大学教授の伝記』にその答えが書いてあった。

エジプト革命以降、軍情報部の傘下に下ったカイロ大学では3つの価値変化が起こった。

1. 権力への忠誠を何よりも高い認識論的価値として肯定すること
2. 忠誠を誓う者こそが真の学者であり、批判的な学者は知識が欠けていると疑われる(この現象によって、学者は科学的浅薄さと道徳的浪費の両方を助長されることになる)
「諜報帝国」の統制により、大学の神聖さが破壊されたことで、2番目の現象は表面化した。
3. 先2つの現象の結果として、大学教授間、すなわち学者間の競争の舞台は「科学研究の領域」から「忠誠心の地下墓地」へと移動せざるをえなくなった。

以上の価値変化の後、自由な科学研究は維持できるのだろうか。

権威主義的な命令の中に、体系的な知のルールを見出すハイブリッドな学問的メンタリティへの道を開くしかない。

どういう意味か。

その学問とは忠誠と真実、批判と妄想を同一視する致命的な二分法によって成立する。そして、学者のメンタリティは「イデオロギー的恐怖」とでも呼ぶべきものにもとづくことになる

従来、「自由な精神の機関」であった大学はその主役を権力者と「スルタンの召使い」に引き渡し、それ以外の教員は能力とは関係なく、観客という立場となり、大学は不条理な劇場と化した。

言い換えれば、大学は「権威の個人化」の場となった。「スルタンの親族」は必然的に著名な学者となり、学問の中心に座し、高い称号を惜しみなく与えられ、正直であろうとする者は罰せられる。

カイロ大学にとって、どの学者を「スルタン=最高権力者」である大統領に面会させるかも重要事項である。それを決めるのは、諜報将校だ。

彼らの視点から「エリート学者」を選抜し、権力者の前でひとりひとり権威の序列に従って座らせる。こうして、「諜報員」は象徴的な意味で大学人の一員となり、「教職員」は諜報機関の一員となる。

その結果、大学は牢獄に近い存在となり、軍のヒエラルキーに従う教授は助手*に家を買ってもらうことができる。

*教授は権力者の子息の成績を改ざんし、優秀学位を授与することで学則に添って、優先的に助手として採用する。

そんな教授に教わる学生たちはどうなるのか。

コネ社会に絶望し、極度の疎外感を味わい、偽科学に染まり、犯罪に走り、逮捕される。

すべては大学の独立性が損なわれことに端を発する。自由を制限する代わりに、教員たちに権力への憧れを植付けさせた。諜報機関に最も献身的に仕え、軍事政権への忠誠を誓う者のみが出世していく。

アッバース教授は回想録の最後にこう言葉を残した。

「若者たちよ、この本から有益なものを見出すことができますように。また、若者の目の前にある井戸に毒を盛る者たちよ、この本から学ぶことができますように」

2021年、アッバース教授が学歴詐称を告発したジハーン夫人がなくなった。

そのときのカイロ大学の発表を掲げる。

「カイロ大学学長、ジハーン・サダト夫人を悼む
カイロ大学学長は故アンワル・サダト大統領未亡人のジハーン・サダト女史の逝去を悼む。ジハーン女史は、1977年にアラビア語学科で文学士号を取得した後、カラマウィ教授の指導の下、文学修士号および比較文学博士号を取得し、カイロ大学だけでなく、多くのアメリカやヨーロッパの大学で客員教授を務めた」

カイロ大学ニュース 2021年7月10日

十月戦争後、彼女は社会的・文化的貢献を果たし、多くの女性・学生・青少年活動を支援した。

カイロ大学の歴史において、ジハーン夫人はまさに「井戸に毒を盛る者」であり、「カイロ大学から摘み取ったもの(訳注:偽学位)には犠牲が伴った」。彼女の死後も、現在に至るまで、カイロ大学は偽学位という真実を封印したままだ。

小池氏の学歴詐称の方はどうか。
カイロ大学に代わって、その証跡を明示する。


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