小池百合子の同級生・後輩の学歴詐称問題ーその入念な手口とカイロ大学腐敗の構造
小池氏と近しい関係だった、サダト大統領のジハーン夫人と3人娘が、不正な形でカイロ大学に入学した経緯は「小池百合子のカイロ大学“入学詐称”問題ー非合法入学のこれだけの証拠」で記した。
その夫人は小池氏の1学年後輩で、長女は同学年だった。
彼女たちも正規の”カイロ大卒“という学歴になっていたが、1980年代に入り、次々と学歴詐称疑惑が表沙汰になっていく。ジハーン夫人・二女ノーハ、長男ガマルの3人が不当な学位授与の容疑で訴えられた(詳細は後述)。
そして、優秀な学位が授与されたはずの三女ジハーン(夫人と同名)は「落第生」であったとカイロ大学教授が暴露している。
ジハーンの卒業危機は急展開を迎える。
新聞に
という見出しが躍ったのだ。
“誰か”の話に酷似しているではないか。
「首席卒業」を長年アピールしていながら、実際には落第していた小池氏、それをカバーするカイロ大学の対応だ。
2020年の都知事選挙ではフシュト学長から直々に「卒業を認定」するカイロ大学声明が出され、24年同選挙の告示直前に行われた「虚偽学位」告発会見では元文学部副学部長のハムザ氏が登場し、「卒業証明書は本物」と熱弁。ハムザ氏は小池氏の学業実態や成績についても、擁護していった。
“追試で首席”という苦しい言い訳
“追試で首席”とは苦しい言い訳だが、エジプト権力中枢に近い落第生に救いの手を差し伸べる、こうしたカイロ大学幹部は「スルタンの召使い」と呼ばれる。「スルタン」とは、イスラム王朝の君主の称号だが、この文脈では、「権力者に媚びへつらい、(訳注:カイロ大学を支配する軍の)諜報機関に協力することで、報酬を得ていく」(『我が足跡を辿る』2004年 カイロ大学歴史学部教授ラウフ・アッバース著・未邦訳)人物のことだ。
サダト大統領ファミリーにはどんな「スルタンの召使い」が仕えていたのだろうか。本記事で彼らの学歴詐称の手口とその背後にあるカイロ大学の腐敗の構造に迫っていく。
その前にサダト家と小池氏との関係、サダト家の面々について触れておこう。
*産経新聞の取材では社会学科の同級生に長女がいたというが、長女ルブナは英語学科で学科が違う。同学年であることは、ルブナのテレビインタビュー(エジプトの番組名「最後の言葉」2023年9月30日)での発言から確認した。朝日新聞の記事ではノーハさんと同級ともいうが、彼女は長女ではなく、二女である。彼女も英語学科で別の学科に在籍で同級ではない。
小池氏が大統領官邸を訪問したのは一度や二度ではないようだ。大統領夫妻を「親戚のおじさん、おばさん」と呼ぶぐらいの関係を築いたのだ。
次に大統領一家のプロフィールを公式記録から紹介しておこう(出典「サダト家の公式経歴特設サイト及び政府系エジプト報道」)。
ジハーン大統領夫人(1933年-2021年)は母がイギリス人、父がエジプト人医師の上流階級に生まれ。英語で授業が受けられるミッション・スクールに通った。
大統領夫人がカイロ大学文学部アラビア語学科に入学したのは1973年、子供を育てあげた後の41歳のときだ。優秀な成績で学士号、修士号を得た後、カイロ大学に勤務しながら、博士号も取得している。
3人の娘はいずれもカイロ大学文学部英語学科を卒業。次女は大学院に進み、三女は”優秀な“成績で卒業し、英文学科の助手に抜擢された。長男の卒業成績は化学科トップ3だった。
一族の統領サダトはといえば、エジプト北部ミヌーフィーヤ県の貧村の生まれだ。母親はスーダン人で、14人もの兄弟がいた。苦学の末、陸軍士官学校を卒業。”アラブの英雄”ナセルが結成した陸軍の秘密組織・自由将校団の一員となり、1952年エジプト革命を率いた。
1970年9月28日、ナセルが死去した際、サダトは副大統領の職にあり、後任として共和国大統領に就任した。 貧しい家系の出身から軍事政権トップにのし上がった彼は、3人娘を名門カイロ大学に入れ箔をつけさせ、エジプトの名家に嫁がせていく。
長女ルブナは1972年入学後、在学中の1974年に文部大臣の息子と結婚。同年、二女ノーハは人民議会議長の息子と婚約、翌年結婚。3女ジハーンは1975年入学、81年卒業後、住宅大臣の息子と結婚している。
しかし、我が世の春は続かない。
サダト暗殺後に学歴問題が露呈
1980年にサダトが暗殺される。残された遺族はその数年後、立て続けに学歴詐称の訴訟を受ける。
学長が問題提起したことになっているが、深読みすれば、権力交代の時代背景もありそうだ。エジプトの軍事政権はサダト大統領からムバラク大統領に移行した時期で、ムバラクの正統性を確立するため、サダト時代の汚職、腐敗を一掃するキャンペーンをしていた時期に重なる。正当に学位を取得したのに、キャンペーンの一環として、サダトの権力基盤を失墜されるために長男がやり玉に挙げられたとのさらなる深読みもできなくはない。
だが、記事はカイロ大学に蔓延る不正な制度自体の問題を追及している。これは、サダト時代にカイロ大学が腐敗した経緯と実態を詳述した、同歴史学教授アッバースの著作『カイロ大学の過去と現在』『エジプトの大学と社会 100年の大学闘争1908年-2008年』『我が足跡を辿る』の内容と重なる。
一連の著作は母にあたるジハーン夫人、姉のノーハをはじめ大統領ファミリーへの不正学位授与問題にも触れており、ガマルだけが例外ということはありそうもない。
長男ガマルの裁判はどうなったのか。
少ない記事情報から読み取ると、担当教授はガマルが落第していた科目について試験自体がなかったことにして、彼を落第から救済した不正の実態が浮かび上がる。
しかし、この裁判は延期される。
行政訴訟裁判所は昨日、カイロ大学を相手取って提起された、ジハーン・サダト氏への学士号および修士号授与ならびにガマル氏の工学学士号授与の決定保留を求める2件の訴訟の審理を延期することを決定した。
本訴訟についてその後の政府系新聞記事が見あたらない。権力者ファミリーの醜聞を防ぐために、うやむやにされたのだろうか。
ネット検索したところ、個人の投稿記事をみつけた。
素直に読めば、大統領の息子だから学位に値すると、“コネ卒業”を認めたような内容だが、真偽は不明だ。
いえるのは、一連の訴訟の裁判長が国家評議会副議長だったことだ。国家評議会副議長とは、エジプトの国家機関の中で、司法権を持つ組織のトップ2である。
たかがカイロ大学の学位と思われるかもしれないが、カイロ大学は由緒ある国家機関である。一連の訴訟は学位を授与したカイロ大学に対して起こされたもので、カイロ大学も国家評議会も同じく、国家を代表する機関である。
どれだけ不正の証拠があろうが、国家機関の名誉をこれ以上損ねないよう司法的な配慮がなされた可能性もある。
サダト家の次女ノーハに授与された学位を巡る裁判については最終結果が出ている。
関連箇所の大意を紹介しよう(原文は文学的・隠喩的な表現を含み、ただ訳出しても分かりづらいため、該当箇所の解説・補足をした書評をいくつか参考にした)。
まさに腐敗の極みである。
大統領夫人は学士号だけでなく、修士号も権力に媚びる教授陣から”不正“授与されていたのだ。この告発本が出た際、ジハーン夫人は著者を一切訴えなかったことからもその真実性が伺えるだろう。
夫人はカイロ大学での”不正“学位を足がかりに、生涯を通じて、世界の20以上の大学から名誉博士号を受けた。
そんなサダト夫人は娘の不正学位のためにも、奔走している。
ターハ・フセインといえば、名門カイロ大学文学部の象徴である。カイロ大学第1期生にして博士号第1号で、歴史学(古代ギリシャ・ローマ史)の教授となった。さらに、その業績から文学部長に選ばれ、文部大臣にまで上りつめた人物だ。
彼の自叙伝『日々』は「アラブ文学の金字塔」との評価を得ている。幼少期の事故で盲目になったターハがハンディキャップを乗り越え、近代エリート大学の教授になるまでの成功物語(ノーベル文学賞候補にもノミネートされた)である。一生懸命勉強すれば、困難を克服して社会に貢献できるというカイロ大の建学精神を体現したのがターハ・フセインなのだ。
その系譜を継ぐべき文学部長が権力者に媚び、論文を書かせようとしたことにアッバース氏はがまんならなかった。
アッバース氏の回想録にはジハーン夫人、二女ノーハ以外に、サダト一族から末娘のジハーンも登場する。
しかし、現実は少し違っていた。
父の威光を失い、夫人と娘はカイロ大学から去ったのだ。アッバース教授の回想録を読むと、小池氏が在学したサダト時代のカイロ大学がもっとも腐敗していた時代であるといえる。
回想録には、大学を腐敗させ、その腐敗から利益を得た者たちに多くのページが割かれている。サダト一族の話以外にも、大学資金の横領から昇進委員会や試験委員会のまつわる汚職、成績の水増しから講義ノートの高額販売、「個人レッスン」マフィアからお金と引き換えに産油国アラブ人に教授職を用意した収賄について……
しかし、大統領が何人交代しようとも、カイロ大学の真の支配者は変わらない。それは、「カイロ大学声明の本質②ーカイロ大学の権力と腐敗の構造」でも触れたが、エジプト軍の情報部や国家安全保障局に代表される治安当局である。スルタンの召使――権力者に媚びを売るカイロ大学人はどう立ち振る舞っているのか。
回想録から実態を紹介しておこう。
「大学長は治安当局の命令に異議を唱えない者から選ばれる。学長は、学問的・管理的・財政的な問題で大学評議会の決定に応じる必要はない。一義的な任務は治安当局への『忠誠心』である。当局からの『拘束力のある助言』に耳を傾けなければ、将来を危うくする。学長にとって最大の望みは『より高い椅子』、つまり省庁の高官や大臣への栄転である。学長はその椅子を前にしたとき、『広報キャンペーン』として諜報機関に自らをアピールできる機会を自ら作り出す」
といっても、キャンペーン期間中、学長の意に反する教授もでていくる。たとえば、当局が監視する学生や職員に対して、無実の罪をでっちあげるよう指示を受けた場合などだ。
それでも言うことを聞かなければ、教授は不当な処分を受けることなる。学籍を抹消され、論文や研究成果もなかったことにされたり、その先には停職か追放が待っている。
学長の出世にとっては、権力に従わない教授を絶えず監視し、問題を起こす前に懲らしめられる学部長がいるのが望ましい。当局にとっても同じだ。そんな学部長になるためにはどうすればいいのか。
「学部長の地位は大学の指導的地位(学長・副学長)への登竜門であり、当局から反対されない者だけが獲得できる。だから、学部長を目指す教授たちは、当局の支援者に対して、自分をよく見せようと躍起になっていることは言うまでもない。当局から信頼を得るには、特定の学生の”学生会選挙”出馬阻止から始まる。そこから”温かい関係”が築ける。手腕を発揮するには”学制を乱した”など、あらゆる理由で学生の容疑をでっちあげること」
しかし、教授として良心があり、そんなひどいことを学生にできない場合、誰が学部長になるのか。
「当局が候補リストに名前がない人物を任命する」だけだ。
教授はただ真面目に教えたり、当局の指示に従っていただけではその地位はキープできない。
「諜報機関の息子か娘の一人が試験に落ちたから……」という理由で解雇されることもある。
どの教え子の父親や親類が諜報機関務めか、アンテナを張り、合格させないと大学人生を棒に振ることになる。
能力が高く、やる気があるだけでもダメだ。
カイロ大学で生き残るのはかなり難易度が高そうだ。では、「スルタンの召使」たちはどうやって現実と折り合いをつけ、出世していくのか。
アッバース教授の回想録に収録された書評『尊敬する大学教授の伝記』にその答えが書いてあった。
エジプト革命以降、軍情報部の傘下に下ったカイロ大学では3つの価値変化が起こった。
以上の価値変化の後、自由な科学研究は維持できるのだろうか。
権威主義的な命令の中に、体系的な知のルールを見出すハイブリッドな学問的メンタリティへの道を開くしかない。
どういう意味か。
その学問とは忠誠と真実、批判と妄想を同一視する致命的な二分法によって成立する。そして、学者のメンタリティは「イデオロギー的恐怖」とでも呼ぶべきものにもとづくことになる
従来、「自由な精神の機関」であった大学はその主役を権力者と「スルタンの召使い」に引き渡し、それ以外の教員は能力とは関係なく、観客という立場となり、大学は不条理な劇場と化した。
言い換えれば、大学は「権威の個人化」の場となった。「スルタンの親族」は必然的に著名な学者となり、学問の中心に座し、高い称号を惜しみなく与えられ、正直であろうとする者は罰せられる。
カイロ大学にとって、どの学者を「スルタン=最高権力者」である大統領に面会させるかも重要事項である。それを決めるのは、諜報将校だ。
彼らの視点から「エリート学者」を選抜し、権力者の前でひとりひとり権威の序列に従って座らせる。こうして、「諜報員」は象徴的な意味で大学人の一員となり、「教職員」は諜報機関の一員となる。
その結果、大学は牢獄に近い存在となり、軍のヒエラルキーに従う教授は助手*に家を買ってもらうことができる。
*教授は権力者の子息の成績を改ざんし、優秀学位を授与することで学則に添って、優先的に助手として採用する。
そんな教授に教わる学生たちはどうなるのか。
コネ社会に絶望し、極度の疎外感を味わい、偽科学に染まり、犯罪に走り、逮捕される。
すべては大学の独立性が損なわれことに端を発する。自由を制限する代わりに、教員たちに権力への憧れを植付けさせた。諜報機関に最も献身的に仕え、軍事政権への忠誠を誓う者のみが出世していく。
アッバース教授は回想録の最後にこう言葉を残した。
2021年、アッバース教授が学歴詐称を告発したジハーン夫人がなくなった。
そのときのカイロ大学の発表を掲げる。
十月戦争後、彼女は社会的・文化的貢献を果たし、多くの女性・学生・青少年活動を支援した。
カイロ大学の歴史において、ジハーン夫人はまさに「井戸に毒を盛る者」であり、「カイロ大学から摘み取ったもの(訳注:偽学位)には犠牲が伴った」。彼女の死後も、現在に至るまで、カイロ大学は偽学位という真実を封印したままだ。
小池氏の学歴詐称の方はどうか。
カイロ大学に代わって、その証跡を明示する。