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「大きな物語の終焉」を朝ドラに見る
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
さて、大晦日の紅白歌合戦。
朝ドラ主演のお二人が司会をされていて、朝ドラ主題歌も盛り上がりましたね。
好評だった『虎に翼』に対し、『おむすび』はやや苦戦気味という評が多かったですが、次第に評価も高まりつつあるようです。
当初苦しかった理由は、ギャルになる必然性がよくわからなかったことや、主体性のなさと無力感にあるような気がします。
どうせ頑張っても失われてしまうという態度に、なぜ主体的に動けないんだ?と苛立った視聴者も多いのではないでしょうか。
しかし、それが阪神・淡路大震災による心の傷が原因だとわかり、少しずつ前を向くようになってきてから評価は変わりつつあると思います。
(問題は、そこに辿り着く前に離脱してしまった視聴者も多いということだと思いますが…)
主人公のスケールが小さいのは悪いのか?
さて、『虎に翼』や『らんまん』と比べて、『おむすび』の主人公はどう思われますか?
日本中の植物を分類したい、地獄の道の向こうに何かを見つけたい、という万太郎や寅子に対して、彼氏を支えたいという結。
スケールの小ささをもって批判する人も多いでしょう。
でも、ドラマの主人公はすべからく立身出世を目指していかなければならないのでしょうか?
万太郎にしても寅子にしても、それぞれの歩みがそのまま日本という国の発展と重なっていた部分があると思います。
しかし、結にはそれはない。
この背後には、「成長」という物語を描きにくくなった時代背景があるのだと思います。
一人ひとりの仕事が世界を作る。そう思って仕事をやれている人は今も多いとは思いますが、そこまでの熱量はなく、家族のため、自分の生活のため働くという人もまた多い。では、後者は志が低いと必ずしも非難されなければならないのでしょうか?
志が高いドラマの後には、そうでない生き方も肯定するドラマを観たい、そう思っている人も多いと踏んで、今回の朝ドラが制作されたような気もします。
よくよく観てみると、『おむすび』の心理描写は、とても繊細ではないでしょうか。
繊細すぎてイライラしてしまう人もいるでしょうが、ちょっと見方を変えてみてください。自分たちの生活の中で、こういう場面ってないでしょうか?家族のちょっとした行き違いであったり、頑張ろうとしてもやる気が出なかったり、誰かのワガママに振り回されたり…。
そういうリアルな日常から、身近なところを紡いで何かにつなげていくドラマなのかもしれないな、と思いながら、もう少し見守ってみたいな、と思うようになりました。
多分、偉人の周囲の人って、本当はすごく大変だったんだろうな、と思います。
そういう人たちがいるからこそ、今の我々の生活があるのだと思う一方で、自分が家族だったらどう思うだろうか…というところもあり。
しかし、成長を求めなければ世界に取り残される。そういう危機意識を持っている人も多いことは間違いない。そういう人たちが好むのが、昭和の時代までのモデルが存在する物語であったり、今の時代であれば中学受験を描いた『二月の勝者』だったりするのかもしれません。
個人の成長物語を、社会や国家などの発展という「大きな物語」に接続しなくてもいい、という寛容さ。とはいえ「大きな物語」に接続するストーリーも欲しい。
そうしたバランスの間で物語は、人々は揺れているのかもしれない。
そんなことをつらつら思いました。