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「ここでは、あなたの人格を表現する必要はありません」という表現の不自由

少し前になるけど、「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の問題に関連して、「あいち宣言」の原案が示されたというニュースがあった。

このなかに、「カルチュラル・ワーカーの権利を守る」というのが入ったのはよいことだと思うんだけど、今回のような場合ではなく、通常の状況でも、ここでカルチュラル・ワーカーといわれている人が、かなりひどい扱いを受けていると思っている。それも、むしろ美術関係者に。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/aichitriennale_jp_5d9812dee4b03b475f998541
 
『ミュージアムの女』とか見ると、少し救われるのだけど、多くの場合、そこにいる人に人格を要求していないと感じるんですよね。ただ、役割だけが与えられている。あなたの人格は持ち出すなと。

http://www.artlogue.org/node/4087
 
アートの現場で、そういうことが、どこでも普通に行われていることに、ぼくはとても気持ち悪く思っている。コンビニとかでもそうだけど、ましてアートを体験する場で、それでいいのかと。
 
でも、これ、裏面もあるんだよね。
 
湘南ベルマーレの監督がパワハラで問題になり、調査で事実が明らかになり、謹慎5試合となったのだけど、結局辞任した。これ、辞任する前の段階でサッカー解説者の戸田和幸さんが、この問題を指摘していたのは、すばらしいと思った。

https://ameblo.jp/todakazuyuki/entry-12533640801.html
 
曺監督は、人気があった。サッカーのスタイルも面白かったけど、熱血で、喜怒哀楽が激しく、人間味があるというのもポイントだったと思う。たぶん、魅力的な人なんだろう。それ自体は悪いことではない。
 
でも、よく考えてみると、喜怒哀楽を激しく表現できるのって、特に日本の社会の場合、そうできる立場にいるからなんだよね。そういう人は好き嫌いも激しいことが多いから、好かれていた人は「いい人だ」と言うけど、嫌われると地獄。まさに独裁者になってしまう。
 
この二つは表裏でもあり、同じ根を共有してもいる。人格を求められないのも、人間味を売りにして感情を撒き散らすのも、相互に補完してしまっていて、どちらも変でしょう。
 
経済格差だけじゃなく(リンクしているけど)、人格を表現することにも格差が生じていて、それが大きくなっている。あらゆるところで。
 
まったく関係のないニュースだけど、ぼくのなかでは、この二つはむすびついてしまったんだよね。
 
表現の自由って、芸術家が表現するような場合だけに必要とされるものではなく、芸術家とか東大の教授が宣言することでもなく(してもいいけど)、日常において誰でも普通に、(マニュアルだけに縛られるのではなく)自分の言葉で語れること、これ変だなと思ったときには「それ、変だと思う」って、その場で言えることなんじゃないかな。
 
今回のような大きな部分ではなく、日常的な小さな部分にこそ、問題の本質があるような気がする。「仕事」という名目で、簡単に「ここでは、あなたの人格を表現する必要はありません」と暗黙的に強制してしまうこと、それを「仕事ってそういうものでしょ」と誰もが疑問に持たないこと、それは単純に「変だ」と思うのだ。

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