ぼくのおじいさん
ぼくのおじいさんは、密林の王者「ターザン」のことを「ターサン」と呼んでいた。
ぼくは、「ターサン」と聞くと、いつも吹き出しそうになったが、おじいさんはまじめにそう言っていた。「ターザン」だよ、と教えてあげたこともあったが、おじいさんはすぐに忘れて、次に言うときは、やっぱり「ターサン」になっていた。
「ターザン」はとても人気のあるアメリカ製のテレビドラマだった。画面は白黒だった。
昭和三十年代は、テレビではアメリカ製のドラマやアニメばかりをやっていたので、テレビっ子だったぼくは、日本人なのに、ひょっとしたらアメリカ人になってしまったかもしれない、そのくらいにアメリカ漬けだった。
ぼくの家は、ガソリンスタンドをやっていた。ぼくの両親が店をきりもりしていたが、もとはおじいさんが始めた店だった。
おじいさんは、店の事務所の真ん中で、一人用のソファにどっかと座り、いつも新聞を読んでいた。毎日、朝刊と夕刊をすみずみまで読むので、とても物知りだった。政治のことから芸能界のことまでよく知っていた。テレビで丁稚姿の大村崑ちゃんが、店の先輩たちからばかにされるところで「ほんとの馬鹿にこんな面白い芝居はできんわ」が口ぐせだった。そして「人間、学問だけできてもあかん」「おまんは学校の勉強はできるらしいが、それだけじゃあかん」とよく言っていた。
毎晩、七時くらいに晩御飯になるけれど、両親は店が忙しく、店の裏にある家で、ぼくと弟と妹は、おじいさんとおばあさんと食卓をかこんだ。
お酒の入ったおじいさんは、手塚治虫みたいな人だった。よく夢のような未来の話をしてくれた。
「将来は、どの家でも自動車を二台は持つ時代がくるぞ。もっと先になったら、それこそ飛行機も持つかもしれん」
この話をぼくは、おじいさんが酔うたびに何度も聞かされた。ぼくと弟は顔を見合わせて、また始まるぞ、とそんな顔をした。
飛行機はともかく、このおじいさんの予測はだいたい当たった。おじいさんがガソリンスタンドを始めたのも、どうやらこの予測に基づいていたみたいだ。
うちのガソリンスタンドは、当時、村にできた二軒目のガソリンスタンドだった。田園地帯の真ん中に立っていた。父親が、ドラム缶を器用に転がして、馬のようなかたちの給油機に手動のポンプでゴボゴボとガソリンを移す姿をよくおぼえている。力仕事で筋肉隆々の父親は、ぼくに力こぶを見せて自慢した。父親は、若いころに村の青年団で野球をやっていたらしく、野球が大好きで、オート三輪でぼくを連れて名古屋の中日球場に巨人×中日戦を見に行ったことがあった。ナイターだった。ぼくはテレビでしか見たことのない王選手を生で見て興奮した。
一本足打法の王選手は、やっぱりこの日も一本足打法だった。テレビの中だけではなかった。尾張名古屋の人は中日ファンかもしれないけれど、ぼくは三河の人間なので、同じ三河出身の徳川家康が築いた江戸の巨人軍が大好きだった。
ある晩、おじいさんが、晩酌の後、顔を真っ赤にして「ふうう」と息がえらそうにしているので、おばあさんが「あんまり飲まん方がいいよ」と注意した。おじいさんの健康を心配してそう言ったのに「飲めんくらいなら、死んだ方がいい」おじいさんはそう言って、おばあさんをしかりつけた。
翌日、いつもは流し台の下にある日本酒の一升瓶が見当たらなかった。
「今晩は我慢しときん」おばあさんが言うと、おじいさんは怒り出した。
実は、酒の一升瓶を隠したのはぼくだった。ぼくは、家族の言うことがきけないおじいさんのことを「いかん人だ」と思うようになり、おじいさんに反抗的になっていた。ぼくはどうやら嘘をつくと顔に出るらしく、酒を隠したのがすぐにおじいさんにばれた。ぼくの態度も気にいらなかったらしく、なぜかそばにいた弟もとばっちりをくらって、二人ともひもで縛られて、おじいさんに「川に捨てる」と鬼の形相で言われて、近くを流れる境川のほとりまでかつがれていった。ぼくと弟は泣き叫んだが、そのあたりで記憶が消えている。
ぼくは酒がなくて怒るおじいさんより、酒を飲んで真っ赤な顔で楽しそうに未来を語るおじいさんの方が好きだったので、その日以来、酒瓶をかくすことはしなかった。
三年ほどして、おじいさんは死んだ。
あれから六十年。ぼくはゆうべ夢の中でおじいさんに会った。
「自動車が空を飛んでな……」おじいさんは真っ赤な顔で夢のような未来を語っていた。
了