「クラッシャージョウ」「幻魔大戦」の登場。
イデオンの翌年1983年の3月は、松竹の洋画系で「クラッシャージョウ」の公開が待っていました。
私は、宣伝を担当していました。監督の安彦さん、原作者の高千穂遥さん、主役の声優の二人(竹村 拓、佐々木るん)と全国を2月にキャンペーンに回りました。
名古屋では、ゲストキャラを描いていただいた鳥山明ご夫妻にもお会いしました。
北海道の旭川では、司会をやとうお金がなかったのか、私が舞台あいさつの司会をやりました。
大雪の中、多くのファンが集まってくれました。
クラッシャージョウは確か前売券が50万枚売れたと思います。対抗馬は東映の「宇宙戦艦ヤマト完結編」、角川アニメの「幻魔大戦」でした。キャラクターデザインが、大友克洋だったと思います。かっこいいが、アニメのお客はこちらにはこないだろうと高をくくっていましたが、とんでもない、公開初日に大変な動員となりました。アニメファンだけでなく普段アニメを見ないサラリーマンも押し寄せたのです。アニメなのに、実写のような一般化をしたのです。
配収も10億とかいったのではないでしょうか。クラッシャージョウは初日など始めはかなりの集客がありましたが、アニメファン中心なので、配収7億ぐらいだったように思います。寅さんが配収10億円くらいの時代なので、それでも大したもんですが。
アニメをサラリーマンなど大人も見ることがここでわかりました。
実際、劇場版の宇宙戦艦ヤマトは、シリーズ終わりのほうは、大人の観客もかなりいました。
角川映画は、角川春樹社長の時代に実写の世界でも「犬神家の一族」「野生の証明」などで、革命的な映画宣伝で業績を上げていましたが、アニメにも進出してきて、今のKADOKAWAにつながっています。
1985年に「魔法のプリンセスミンキーモモ 夢の中の輪舞」「魔法の天使クリィミーマミ ロング・グッドバイ」「魔法の天使クリィミーマミVS魔法のプリンセスミンキーモモ 劇場の大決戦」の3本立てを、東銀座の松竹シネサロンという小さな映画館で上映しました。当時、OVAというものが出始めた時期で、たしかOVA第一弾は、スタジオぴえろ製作の「ダロス」(83年)だったと思いますが、この作品には押井守監督が参加しています。
当時のOVAは製作費も60分サイズに5000万円かけるとか、テレビとは破格な製作費をかけていました。テレビアニメと違って、16ミリフィルムではなく、35ミリの劇場用サイズのフィルムを使用していました。
しがって、そのまま映画館にかかることを知っていたので、私は、クリィミーマミの製作プロがスタジオぴえろで、ミンキーモモが葦プロと知っていましたが、たまたま代理店が読売広告社で同じなので、読売広告社にお願いして2本立てを実現しました。「魔法のプリンセスミンキーモモ 夢の中の輪舞」(85年)「魔法の天使クリィミーマミ ロング・グッドバイ」(85年)はすでにOVAが販売がされていましたが、ファンは映画館で見たいだろうと思ったので、企画しました。そして、読売広告社がおまけの「魔法の天使クリィミーマミVS魔法のプリンセスミンキーモモ 劇場の大決戦」を新作で作ってくれて、たしか3分くらいの短篇だったと思いますが、マミとモモが戦うのです。監督はマミの望月智充さん、内容はすっかり忘れました。1985年8月のことです。ファンは大変よろこびました。
シネサロンは100名キャパくらいの小さな名画座でしたが、夏休みに公開が始まると、超満員で劇場新記録でした。たしか、名古屋と大阪と博多と札幌あたりでも小さい劇場で同時に公開となったと思いますが、銀座の劇場はものすごく入りました。想像はしていましたが、お客さんは大学生が中心で、ナップサックをみんなしょって、その中に売店のグッズをたっぷり買い込んでいました。売店のおばさんが当時、私に、幼児が来ると思っていたらしく、いわゆる大きなお友達なので、びっくりして気持ちが悪いと言っていました。
少ないですが、一部、小さい子供を連れたお母さんもいて、まわりがオタクな感じのお兄さんたちがいっぱいで面くらった様子でした。まだオタクという言葉はなく、私たちは、アニメマニアのような呼び方をしていました。
オタク文化のはしりがここにあったように思います。
ナップサックにポスターを2本差して、ガンダムのビームサーベルのような真似をするのもはやりました。
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