賭け
「わかった。賭けよう」
わたしは、妻の後姿に向かって言った。妻はキッチンでネギをきざんでいた。テレビでは『アッコにおまかせ』が始まっていた。出川の声がやかましい。妻は最近、耳が遠くなってきた。テレビがついているとわたしの声がとどかないことが多い。
もうすぐ娘が彼氏を連れてくる。妻は、会ったこともないのに、こんどの彼氏のことを、
「背が高くてハンサムで、頭も少しよくて」とか言う。娘から聞いている話を総合したらしい。ぼくはそれには賛同できない。なぜかと言えば、娘がこれまでに家に連れてきた彼氏といったら、「娘より年下で頼りない」「高学歴だが理屈っぽくて冗談が通じない」「トイレを使った後に小便のしずくを大量に放置した無頓着な奴」等々がっかりな彼氏たちだったからだ。娘もそのことはわかっているらしく、付き合って三、四か月でお別れした彼氏が多い。娘もだいぶ男を見る目ができてきたのか、こんどの彼氏ができるまでに一年のブランクがあった。娘は今年で三十歳になる。都心の会社で事務職をしているが、やはりまわりの同僚や大学時代の友人たちが次々と結婚を決めていくので、少しは焦っているらしい。友人主催の合コンに頻繁に顔を出し、こんどの彼氏とようやくめぐり合った。妻からの情報では、こんどの彼氏は、娘より二つ年上で、大手自動車会社に勤めていて、大学院を出ているそうだ。今時、大学院を出ている会社員はけっこういる。めずらしくもない。
あれこれ思いをめぐらせていたところ、玄関のチャイムがなった。娘が彼氏を連れてきたのだ。わたしは小走りで玄関のドアを開けた。動きの速い自分に驚いた。
「どうぞ、中に入って」わたしは気さくな父親になっていた。靴を脱ぐ彼氏を、見た。脱ぎ終わった靴をしゃがんで玄関ドアに向けてそろえていた。娘も靴を玄関ドアに向けてそろえていた。こんな娘を見たことがない。彼氏は、妻の話の通り、わたしより十センチは背が高かった。鼻筋が通って、たしかに少しハンサムでもある。
「出川がうるさいよね」私はリモコンで『開運!なんでも鑑定団』に切り替えた。
「パパ、消してよ」と娘。
「そうだね。今田耕司もうるさいよね」わたしはテレビを消した。三人で小さな食卓を囲んだ。うちは団地の3DKなので、部屋は狭い。ソファはない。
「おなかすいたでしょ。すぐにお昼にするからね」妻は、てきぱきとそうめんの小鉢を四人分並べた。
「このネギを使ってね」「ショウガはこのチューブをしぼって」けっきょく、わたしも彼氏も緊張しっぱなしで、大した会話もできずに、「そうめんの味どう?」とか、「はあ、おいしいです。うちの実家とつゆの味が違います。ぼくはこっちのほうが好みです」とか、おなかをこわしたときに正露丸を飲むか、太田胃酸を飲むかで議論した。たわいもないネタでこんなに盛り上がるということは、この男とわたしは相性がいいのかもしれない。その間、妻と娘は台所に立ってデザートのケーキを準備したり、ふりむいて、わたしと彼氏を見比べてころころと笑いころげたり、あっという間に四時間ほどが過ぎた。九月の終わりの日の入りは早い。夕陽が居間へ差し込んだ。窓際のテレビの影が長く尾を引いた。
「きょうはとても楽しかったです。またよろしくお願いします」
彼氏は帰った。娘が駅まで見送りに行った。
「またよろしく」とは、どうやらわたしは二人の交際を認めてしまったようだ。
帰ってきた娘が妻に、「ね。わたしの勝ちね」と言った。
「何のこと」とわたしはキョトンとなった。
「私は、パパが、ばたばたと玄関に迎えに出てくると賭けたの」
「私は、パパがそんなことしない、って言ったんだけどね」と妻。
「そういえば、お昼にパパが、『わかった。賭けよう』と言ったわね。何に賭けたの?」
「なんだ、聞こえてたのか」とわたし。「『背が高くてハンサムで、頭も少しよくて』に賭けるつもりだった」
「うそつき!」と妻。
「じゃ、その結果は?」娘がわたしの顔をのぞきこむ。大きなくりくりした目がわたしに似ている。「ママの勝ち、でいいよ」
賭けに負けたわたしは、その晩、ふたりに食事を作ることになった。自家製のお好み焼きだった。娘が小学生の時にわたしが日曜のお昼によくふるまっていたレシピだ。懐かしい香りが部屋に充満した。 了
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