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何故僕たちは何者かになれないのか

ご無沙汰しております。凄いライトに思いついたことを書きたいなあ、と思ったので筆を執りました。今日のテーマは何故僕たちは何者かになれないのか、というテーマです。突然重いな!って感じもありますがお付き合いくださいまし。

※本稿の想定読者は「」です。自分の読みたいことを自分で書く。いい循環ですね。時間の無駄かもしれない。ついでに言うと多分言い尽くされているテーマな気がするし、なんなら書いてることの何割かは昔書いたことのような気もしてきた。でもいいんだ。想定読者が僕なので。


そもそも「何者かになる」ってどういうことか

ここでいう「何者かになる」の用法は、いったんは「自分がなりたい自分になる」あるいは「ひとかどの人物となる」というような意味合いだと思っていただけるとありがたいです。

思うに多くの人が幼いころから色々な形で模索していると思うのですが、

  • 有名になりたい

  • お金持ちになりたい

  • 愛する人と幸せな家庭を築きたい

  • 卓球でこの星の一等賞になりたい

  • 湖畔のロッジに大きな犬と暮らし、昼は釣りをして夜は暖炉の傍で読書をしたい

など、いろいろな形でなりたい姿やなるべきとされる姿を描き、それに向けて努力したりしなかったりしています。

この姿は人によっても異なるし、時代や所属している集団によっても異なるので一概にこれができていると何者かになっている、という絶対的な定義は特にありません。

例えば原始時代であれば独力で狩りをして集団に大きな獲物を持ち帰ることが何者かになることだったかもしれませんし、現代社会においても外資系コンサル会社とかにいたら年収1000万円で一般的な感覚ではお金持ちでも特別な存在ではないかもしれません。

兎にも角にもいったんはこういうことが「何者かになる」ということだとしてみて本稿は進みます。

なぜ何者かになれないのか

①「何者か」ってのがそもそもよくわからないものだから

第一の難しさは、「何者かである」という定義が不定形であり、たとえそこに近づいても常に変化する可能性がある点にあると思います。

例えば「お金持ちになりたい」と思っている人がいたとして、仕事を頑張って貯金を1億円貯めたとしましょう。凄い頑張ってますよね。凄い。僕も1億円欲しい。

ただ、世の人々の動きを見るに例え一定の金額が溜まったとしてもそれに満足し切れる人は多くないように見受けられます。これは何者かになる過程で今までの自分の視野では見えなかった存在が見えてきたり、付き合う人のレベルが上がったりすることなどでも起きるでしょう。

また、「スポーツで一番になりたい」の類は勝てば勝つほど困難さを増していきます。県大会を優勝したい、と思っていた人が県大会を優勝すれば全国大会行くこととなり、全国大会を優勝したい、と思っていた人が全国大会を優勝すればオリンピックに、と目標は常々拡大し続けます。どこかの点で満足できるならもちろん良いですが、これも結構難しいものです。

②実際問題なることが難しいから

そして先ほど挙げたような例にはそれぞれ難易度もありますし、努力だけではどうしようもないこともあるでしょう。例えば何かで一番になる、とかは相対的な優秀さが求められますので、頑張ってもどうにもならないこと、というのもあります。勝敗が分かれる系のもので一番になりたいということであれば、ほかの全員はその立場になることはできないのです。厳しい話だ。

それに、たとえ適切な努力をしていたとしてもその人の適正が薄かったりしてなかなか実を結ばない、ということもあるでしょう。例えば小説家になりたかったり声優になりたかったりする人は無限に存在していますが、実際にそうなっている人はほんの一握りでしょう。そもそも「なりたい」という気持ちがあったとして、「なるために努力している」という時点で結構レアケースな場合もありますよね。人間そんなストイックにもなれない人が多いんじゃないかな、と小市民たる僕はそう思うのです。

③自分にとっての「何者か」になるという像を描けていないから

これがもしかすると一番大きく、一番問題かもしれないなあ、と思うのですが、漠然と「何者かになりたい」と思っていたとして、それが自分にとって具体的に何で、何を以って達成と感じられるのか、という点を正しく理解できていることが本来必要です。国民的パン人間も昔から僕らにそう問いかけてきてますもんね。

これがないと、今の自分と本当はありたかった自分のギャップをぼんやりとずっと感じ続けるが、そのギャップを埋めるための努力の方向性もわからず、何となく日々を鬱々と過ごしてしまったりもします。

ここは本当に難しくて、自分にとってのイメージがないと、何となく周囲が言っている正しそうなことや、誰か権威がありそうな人が言ってそうなことを信じたりしちゃうんじゃないでしょうか。

「結婚して子どもがいるというのが一人前だ」
「大企業で出世して人よりもお金をもらっていることが大事だ」
「テレビに出るくらい有名になることが人生の成果だ」

※これは強調を表すために「出典」の機能を使っています。

みたいに、色んな形の「何者か」のなり方を世間は提示してきます。
別にこれに従う必要は本来はないのですが、自分にとっての像がないと、これらすべてが牙を剥いてきます。例え結婚して子どもがいる幸せな家庭にいたとしても、会社でなかなか出世していなければそれが不安となり、仕事で成果を上げて認められていても、世間に名が知れていないことによって不安になったりします。

自分にとって、「何者か」であることのラインを引く必要がありますが、これは誰かが引いてくれるものでもなければ、いつの間にか引かれているものでもありません。どこかで自分で引く必要があるのです。

どうしたらいいのか

どうしたらいいんでしょうね。(突然の論述組み立て放棄。小論文ならゼロ点です。)

ここは隙あらば自分語りゾーンなのですが、僕はよくわかってなくて、今も全然これに巻き込まれている気がします。
もっとお金も欲しくて働かずに生きていきたいし、昔なりたかった職業や業界に対するあこがれはいつまでたってもあるし、湖畔のロッジに犬と一緒に釣りや読書をしながら暮らしたい気持ちは常にあります。

でも、今書いたこれらが自分が満足できる「何者か」の姿なのか、と言われるとそれもまたわかんないんですよね。多分、なったらなったで姿は変わっている気がします。なぜなら今の僕も数年前の僕がなりたい姿に一定なっているからです。

僕は数年前に転職をしました。ぼんやり働いている自分が嫌で不安で、
「別の会社でもやっていける」
「自分の力で自分の進路を決められる」

ということを証明したかったのです。

結果、今僕は別の会社でもやっていけてるし、自分の力で進路を決められるということは一定証明されました。めでたしめでたし。

……というわけにはもちろんいかず、上述の通り今でもなりたい姿ってのは常に手を変え品を変え提示され続け、自分の中でも像を結ばず抽象的に自分を苛んでいるわけなんですよね。いやあこれは難しい。

今時点で僕みたいな人がたくさん悩んでいたり悩んでいなかったりするかもしれないので本当は何かしらかの結論めいたことであったり、凄く役に立つような格言を残してみんなから感謝されてめちゃくちゃにバズったりしたいのですが、悲しいかな現実はそんなに簡単にもいかず、本稿はこのあたりで収束に向かっていきます。

敢えてなんとか前向きなことを書こうとしてみます。
これらとは全然別のアプローチとして、「自分がこうありたい自分であるかどうか」というモデルもあるような気がしており、僕にとってはそれが「誠実ないい奴であり、周囲の人と楽しく過ごすこと」です。

例え大金持ちになって毎日豪勢な暮らしをできていたとしても、誰しもが自分を知っているような有名人になったとしても、自分が「誠実ないい奴」でなくなってしまっていたとすると、少なくとも今の自分としてはそれは凄い嫌だなあ、と感じるんですよね。この「こうありたい」については、よっぽどのことがない限りブレがない気がするので、ここは外さずやっていきたい気持ちがあります。

※とはいえ人間は変わるので数年後の僕が地面師になって老人をだまして50億稼いでたらすいません。その時はこのnote読んだんだけど、って言ってくれれば飲み代くらいは奢るので是非声かけてください。

今日はこんなところで。またいつかどこかでお会いしましょう。

(了)

「何者」って話をするんだったらそらこれを貼るわな。

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ヨシダ@インターネット物書きマン
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