きらきらした感性を見つけたとき
昨日、小説ゼミの先生に「文章力よりも、面白いことを書けるかどうかが重要」と言われたことを書いた。
先生は芥川賞作家だ。現場の人がそう言うなら、そうなんだろう。
先生は「文章が下手でも圧倒的に面白ければデビューできる」と言う。
それを聞いて「イエーィ! 俺(私)にもデビューのチャンスあるぜー!」とポジティブに喜んだゼミ生は、とても少なかった。
だって、そうだろう。
先生の発言は、裏を返せば
「いくら文章が上手くても、圧倒的な面白さがなければデビューできない」
と言っているようなものだ。
(先生は生徒の意欲を削がないようネガティブな発言はあまりしなかったが、ゼミ生のほとんどは「言葉の裏を返す」ことができる)。
だから、私を含むほとんどのゼミ生は、
じゃあ、面白いことを書けない(思いつけない)人間はどうしたらいいんだよ!?
と途方に暮れた。
自分には創作の才能はないと見切りをつけ、早々に取材記事を書くライターに転向した人もいた。
ここでいう「面白い」は、人の心を揺さぶり、掴むことを意味する。
その面白さを形作る要素は何かと考えたら、おそらくは、作者の感性だろう。
残念なことに、平凡な感性によって書かれた作品は、「フツーw」「どこかで読んだことある」「なんか刺さらないよね」などと言われてしまう。
文章力はテクニックだから磨きようがあるけど、感性は一朝一夕で磨けるものではない。
その人の経験や感情、思考の蓄積によって形作られるものだと思う。
「面白い感性」についてはこの記事に書いた。
面白いことを書く人は、面白いことを「思って」いる。日常の中で何かを感じるときの感じ方が、すでに面白いのだ。
そういう人を見ると、いいなぁ、と思う。
同じ場面に遭遇しても、それについて「思う」ことは人それぞれ違う。
誰もが思いつくような平凡なことしか思えない人間と、「その発想はなかった……!」と驚かされるようなことを思う人間がいる。
私は前者だ。
◇◇◇
20代の頃、私はすばる文学賞に投稿していた。
1作だけ一次選考を通過したものの、二次選考で落選。あとはすべて、一次選考すら通過していない。
今思うと、私の小説は中途半端だったのだと思う。
純文学にしてはケレン味がなく、エンターテイメントにしては展開が弱い。
一方、昨日の記事にも書いた、文章力はイマイチだけど圧倒的に感性が面白い友人・みびるはというと、一度だけ文藝賞の二次に残り、あとはすべて一次で落選していた。
私もみびるも、学内のコンクールでは金賞・銀賞を獲っているけど、結局はその程度だったのだ。
ただ、感性が平凡な私と、突出した感性を持つみびるでは、伸びしろがあるのはみびるのほうだと思う。
結局、私は作家になることを諦めた。
だけどやっぱり文筆業への憧れは捨てきれず、今は小説家ではなくライターを目指している。
(だけど先日、林伸次さんに「私小説とか書いてみてください」とコメントしていただいたので、単純な私は「よーし、書くぞー!」と思っている。だけど、それが仕事になるとは思っていない)
◇◇◇
話は変わるが、このnoteが好きだ。
前半は、子どものときから実家で飼っていた犬との思い出が綴られる。
時は流れ、作者は大人になり、犬は老犬となる。
ある日、身体が不自由になった犬がはじめて粗相をしてしまう。
かの犬は我々の視線を感じ、か細い息を吐きながら、まるで謝るかの如くこちらにその眼差しを向けるのでした。
「そんな目で訴えかけなくても良いよ。分かっているから」
私から発せられたのは静かな慟哭でした。
その後、しばらくして犬は息を引き取り、時は流れて作者は家庭を持つ。
そんなある日、幼い娘がお手伝いをしようとして引き出しを落下させてしまう。自責の涙を流す娘を見て、作者は粗相をした犬に抱いた感情を呼び戻される。
そして、こう思う。
生きていれば 過去の温かさだけでなく、過去の切なさだって何度でも抱くことになると私は気付かされました。
ただただ 時とその姿形を変え、何度でも私の目の前に広がるいつか見た光景は、私の記憶の奥へと静かに積もり やがて見えなくなっては また浮かび上がるを繰り返し、私と過去(記憶)の境目が ぼやけ、滲み(にじみ)、
私という人格に重みを増すかと思いきや、不思議な事に個人的な感覚で言えば なぜか軽く薄っぺらになっていきます。
いつか見た光景はどれだけの幸せであっても、どれだけの不幸であっても、世界中に転がっています。
(中略)ただ一つだと思い込んでいたその光景は、実は私一人が見た光景ではないことをいつか知ります。全て何気ない普通だったのです。
この部分を読んで、ハッとした。
時を越えて、まったく別の場面で同じ感情を抱くこと。そしてそれが、「自分だけのものじゃない」と実感すること。
それは、誰かが書いた文章で読むと、一瞬「わかるー、そういうのってよくあるよね」と思ってしまう。
だけど、じゃあ私が34年の人生の中で、その「実感」をくっきりと得たことがあるかというと、一度もない。
ここに書かれているのは、私が感じたことのない手触りのものだ。
失敗して泣く子どもを目にするというのは、きっと、多くの親御さんが経験していることだろう。
だけど、この作者はそこで、「過去に同じような思いをした」と感じる。
そこから、感情が繰り返すこと、だけどそれが人格に重みを与えていない不思議を実感し、感情の普遍性にまで思いを馳せる。
それはきっと、思索というよりは、実感として胸に去来したものだと思う。
頭で考えたことではなく、心が感じたものなのだ。
それを感じられるのは、稀有な感性じゃないだろうか。
少なくとも、私だったら同じ場面で「それ」を「思えない」だろう。
◇◇◇
感性はひとりひとり違うオリジナルなものだから、良いとか悪いとか、そういう評価はナンセンスだろう。
だから、今の私は誰かの感性を羨むことは、あまりしない。
だけど、素敵な感性に触れたとき、即座に「素敵!」と思える瞬発力だけは、持ち合わせていたい。
サポートしていただけるとめちゃくちゃ嬉しいです。いただいたお金は生活費の口座に入れます(夢のないこと言ってすみません)。家計に余裕があるときは困ってる人にまわします。サポートじゃなくても、フォローやシェアもめちゃくちゃ嬉しいです。