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いきものがかり・水野良樹さんに、「自己表現不要論」をぶつけてみた


「人間に自己表現は必要なのか?」

ニッポン放送・吉田ルーム所属の田中嘉人です。

2020年8月22日発売の吉田アナ新刊「元コミュ障アナウンサーが考案した 会話がしんどい人のための話し方・聞き方の教科書」。吉田アナが全く別分野で活躍するコミュニケーションのプロと対談する出版記念企画の第3弾は「いきものがかり」の水野良樹さんが登場。

音楽活動と並行して、HIROBAというプロジェクトも主宰し、他のアーティストやクリエイターとも積極的に交流している水野さん。トップミュージシャンの水野さんは「自己表現」をどのように捉えているのでしょうか。

かねてから「会話は自己表現ではない」と言い続けてきた吉田アナが迫ります。そして、「本当はもうしゃべりたくない」とこぼす吉田アナ。一体どういうことなのでしょうか。

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ミュージシャンとアナウンサー。それぞれの価値基準

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水野良樹
いきものがかり水野良樹が主宰する
HIROBAの公式note『考えること、つながること、つくること』
その3つを豊かに楽しむための広場=HIROBAをつくっていく試みのプロジェクト https://note.hiroba.tokyo

水野さん:
吉田さんと話すときって、じつはちょっと緊張するんですよね。とたんに競技性が出て、“なにかを達成しなければいけない”というプレッシャーがのしかかっているというか。本のなかで紹介されている方法論を使えば、しゃべりやすくなるとは思うんですが……。

吉田:
会話はスポーツに近いと思っています。予定どおりにうまくいくことなんてないので。むしろ、話すつもりなかったことをいきなり話し出してしまうアドリブのようなやり取りこそが会話のおもしろさなのではないでしょうか。

水野さん:
そう言われると、ますます緊張しますね(笑)。

吉田:
いやいや、そんなかしこまらないでください。

水野さん:
まず、ぼくからも質問させてください。吉田さんのように人と話をする仕事って、どういうときに達成感を覚えるんですか? いい答えを引き出せたときとか?

吉田:
たとえばラジオであれば、リスナーの頭のなかをゲストについて理解・納得できるレベルにまで到達させられたときですね。それは決して単純な会話の量では測れない。

ぼくは御徒町凧くんの詩が好きで、何度か対談を申し込んだり、ポエトリーリーディングの会へ行ったりするんですね。彼の詩って、2〜3行のものもあれば、ものすごく長いものもある。だから「こんなに量が違うのはどうしてなの?」と聞いたんですよ。すると「終わったらわかるじゃん」と言われまして。

水野さん:
「終わったらわかる」というと?

吉田:
受け手が「伝えたいのは、こういうことだ」と思えたら、詩の役目は終わりということです。詩の量じゃない。お笑いもそう。「笑えるか、スベるか」のどちらか。「スベったけど意味があったね」みたいなことはない。アナウンサーの仕事も似ていて、「いい話が聞けた」と「これはアウト」の二択しかない。ほぼすべてのリスナーが「いい話が聞けた」と感じられるレベルまで引き出せたら、役割は果たせたと思います。

でも、曲づくりはちょっと違いますよね? 以前スガシカオさんが「曲づくりを漫画に例えると、すごく良い1コマを描くことだ。ストーリーを描くことではない」と言ってて。水野さんの曲も、コマになっている印象を受けるんですよね。

水野さん:
そうですか(笑)?

ただ、お笑いは価値基準がすごくはっきりしていますよね。音楽は聞き手の価値基準がすごく多様で、ひとつの楽曲に対してみんなが「いいね!」と言うようなことはない。受け手の理解や納得が「ある」と思うか、「ない」と思うかで、だいぶ異なる気がしています。

吉田:
そうですね。ぼくは「ほぼみんなが共通の感覚を持てる」を前提にしないと、仕事には臨めないかもしれません。

元「少年ジャンプ」の編集者の方から聞いたのですが、「才能がすべて」をテーマにした作品があってもいいし、「努力がすべて」がテーマの作品があってもいい。「作者と編集者がローコストでつくったおもしろいものがたくさんあること自体が漫画の価値」で、「ヒットはコントロールできないけど、おもしろいものはつくれる」と。

同じように「会話自体をバズらせることはできないかもしれないけど、リスナーにとって意味があるものにはできる」とは思っています。

水野さん:
一見さんリスナーとヘビーリスナーの反応に違いはないんですか? ほかにも吉田さん自身は手応えを感じられなかったとしても、周りの反応は好評とか。

吉田:
ズレてる可能性はあるかもしれないけど、何よりも自分のなかでの「これは良かった!」という感覚を優先しないと瞬時の判断ができないんですよね。正直なところ「ウケる」とかどうでもよくなってきちゃっているところもあります(笑)。そういう“欲”はありますか?

水野さん:
“欲”…………うーん、それはないかもしれないですね。自分の感覚で良し悪しの基軸を持たないと、現場での判断ができないので。

曲づくりも「自分の感覚が正しい」と思えなければできないんですよね。「他のひとがどう思おうが、自分はこれでいいんだ」と。

あ、自分の感覚を受け入れられたい欲というより、「ぼくの価値基準を世の中のスタンダードにしたい」という“強欲”はあるかもしれません。

吉田:
というと?

水野さん:
ぼくらのようなドラゴンボール世代と、ひとつ下のワンピース世代のかっこよさや強さへの憧れは、カラーが違うと思うんですよね。それは大人になっても心に宿り続け、仕事に対する姿勢やひとに対する優しさを構成して、生きるうえでの価値観になっていくんですよね。誰かに価値観をインストールしていって、世の中にどんどん波及させていく音楽などの作品の力には、ロマンを感じていますね。

歌によって言葉が生まれ、文明が栄えた

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吉田:
今の話を聞いていて思い出したのが、社会学者・宮台真司さんの話です。

「元来、人間は倫理観があるような生き物ではない」「でも、社会を成り立たせるために、倫理観をインストールしている」みたいな表現をしていて。やはり、倫理観がないと社会が大きくならないんですよね。

水野さん:
「これはしてはいけない」「こういうルールで生きていこう」みたいなものをつくって、近代になっていくと法律のようになっていった。ぼくは人間が秩序をつくったってすごいことだと思うんですよね。そして、秩序をベースに、泣いたり、笑ったりといった感情表現の延長線上に音楽はあるような気がしています。

吉田:
ものすごく関連した話で、世界中の文明がどう発展していったのかをビッグデータにしている慶應義塾大学SFCのパトリック・サベジさんという方の仮説を私の理解で紹介させてください。サベジさんがいうには「文明がある程度以上のサイズになるためには、神様が必要」だそうです。“神様”がいない世界は、大きくならない。

神様よりもさらに原始的で、「このポイントを超えないと神様という存在を考えられない」というもののひとつが歌らしいです。逆の言い方をすると、歌のない文明はない。どうやら、歌のない文明は滅びているそうなんです。

水野さん:
そうなんですか!?歌によって人間が得られるものはなんなんですか?

吉田さん:
あえて挙げるとしたら、歌によって得られるものは「言葉」かもしれません。というのも、「歌のほうが言葉より先に存在したのではないか」という説があるからです。

東京大学で「人間はなぜしゃべるのか」を研究している岡ノ谷一夫先生の説を、また、わたしの理解で紹介させてもらいます。どうも古の昔より人間は、好意を抱いている相手とうまくいったときに嬉しくて鼻歌のようなものを口ずさんでいたらしいんです。また、狩に行っていい獲物が捕まえられたときも歌のようなものが出るらしい。このふたつの歌を比べると、違うものなのに似た感情を表現しているという共通点がある。「『違う歌なのに、同じようなフレーズがあるぞ』という話になって、『嬉しい』という言葉が生まれたのではないか」という仮説です。

水野さん:
すごく納得できる仮説ですね。そして、現代の音楽はいまだに引きずっているような気がします。

たとえば「ありがとう」という曲をボーカルの吉岡聖恵が歌っても、彼女の人間性に縛られて物語が伝わるのではなく、聞いてくれるひとが自分を主体とした両親や恋人への感情として受け止めてくれる。音楽では厳密な個別性を表現できないことが、むしろ相互理解においてはプラスに作用しているような気がしている気がしました。

吉田:
人間が「音楽だ」と思える音の並びは、すごく限定的だと聞いたことがあります。

水野さん:
ぼくらは生まれたときからある程度規格化された音楽が流れる世界に生きているので、「音楽とはこういうものだ」という概念が勝手にインストールされているんですよね。本当は「音楽として認識できない」「ノイズに感じてしまう」という捉え方は、時代に応じて変わっていくはずなのに。本当はもっと音楽を楽しめる枠があるのに、自ら狭めてしまっているのかもしれませんね。

吉田:
ASMRは、まさにそうですよね。

水野さん:
おっしゃるとおり。咀嚼音に快感を覚えるのは、ある意味枠が拡張している証拠かもしれませんね。

先日、長谷川白紙さんというアーティストと対談をしたんですが、彼はぼくよりも遥かに音感が訓練されていて。“音楽とされてきたもの”と“音楽じゃないとされてきたもの”の境目が曖昧になっているそうです。新型コロナウイルスによって緊急事態宣言が発令されて町から音がどんどん消えて、解除されたら公園から子どもたちの声が聞こえてきて……という生活音の変化がとても興味深かったそうで。

彼は“音楽”と表現していたけど、彼の作品は混沌をどう成立させるかにすごくフォーカスしていて。調和が取れているようで、取れていないような。世の中は混沌に満ちていて、本来は区切りがない。それを新たな枠組みでごっちゃにして“音楽”として認識されるものをつくろうとしている。要は価値変容を起こそうとしているわけです。「新たな軸をつくれたら、すごく楽しいですよね」みたいなことをいってて、彼のように今後パラダイムシフトのきっかけをつくるひとが出てくるかもしれないですよね。

吉田:
長谷川さんは、歌詞はどうしているんですか?

水野さん:
歌詞も自分で書いてるんですよ。ただ、「『こういうものを書こう』と思って書くことはない」って言ってましたね。ぼくには難しい話でした(苦笑)。

吉田:
UNISON SQUARE GARDENの田淵智也さんも同じようなことを言ってましたね。

吉田尚記が明かす、前説の極意

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吉田:
ぼくが好きな落語の世界は、意味のない音の羅列がよく使われています。

水野さん:
なるほど。確かに落語はほぼ音楽ですよね。それにしても、落語ってすごいですよね。噺自体は同じで、何度も聞いたことがあるはずなのに、何度も新鮮な気持ちで聞ける。価値を持ち続けるヒントがあるような気がしますね。

吉田:
ぼくは落研出身で、自分で落語をつくったり、イベントもやったりするくらい好きなんだけど、名人上手でリズムやメロディが悪いひとってひとりもいないんですよね。演技力よりもとにかくリズムとメロディだそうです。

落語のように複数回再生する芸術は珍しいですよね。ジャズのスタンダードが、どこかのジャズバーで演奏されているのとほぼ同じ。実際、ジャズ好きの落語家さん多いですよ。

しかも、スタンダードを崩すことに自分なりの解釈があるんですよね。でも、あまり崩しすぎるとよくない。ちょうどいい塩梅があるんです。落語も同じで、時代ごとにうまいと言われるひとはいるけど、軸は通じている。だから、何度も楽しめるし、新しいものに感じられるのかもしれませんね。

水野さん:
ぼくは初めて神田伯山さんの講談をテレビで目にしたとき、全く知識のないなかで一発で心を掴まれてしまいました。でも、講談自体は長い歴史があっていろんな方がずっとやられているわけじゃないですか。ほとんどのひとはそのことに気づいていない。いままでとの違いがわかったら、もっといろいろなモノやコトの価値を広められるのかもしれません。吉田さんは神田伯山さんはどうですか?

吉田:
一度、生で見たんですが圧倒的。「神田伯山をいい」と思わない理由がわからない(笑)。

水野さん:
ですよね(笑)。

吉田:
ただ、前説が下手だと、神田伯山の良さすら伝わらない可能性があると思っています。ぼくは前説にはすごい自信があるんですね。

前説に必要なのが、このあとに出てくるひとやモノの価値にどっぷりハマっていること。演者さん自身が伝えたいと思っている価値である必要はない。とにかく作品に“打たれて”、自分なりに価値を信じていなければ、お客さんの心に訴えかけて、言葉を選ばずにいうと感染させていくことはできない。

「いきものがかり」の話だと、武道館の公演を見に行ったとき、まず家族連れが多いことにすごく驚いた。そして何より驚いたのが、客席をチェックしている警備スタッフの女性が、楽曲を口ずさんでいるんですよ。こんなミュージシャンは他に見たことない。

水野さん:
すごく嬉しい話です。

吉田:
ですよね。この話を番組か何かで話したとき、「いきものがかり」のファンのひとからも、あまり興味がなかったひとからもリアクションがあって。みんなが漠然とわかっていたことをうまく言語化できたような気がしました。

石崎ひゅーいさんが番組に来たときには、「第三惑星交響曲」という曲に出てくる「真夏の聖なる夜」という歌詞のすごさを伝えました。「普通“聖なる夜”といえばクリスマスなのに、あえて夏なんて!」と。すると本人はなんとも思っていないようなリアクションだったんですが、リスナーは「めちゃめちゃ好きになった」とか言ってくれて。意図して導き出した結果ではないけれど、作品に“打たれている”ことだけは確かです。

水野さん:
“打たれる”ってどういう感覚ですかね?

吉田:
なにに近いんだろう……。

すごく抽象的なんですが「パァ〜ッ」となる瞬間があるんですよね。先日、横浜の能楽堂へ行ったのですが、入った途端に目の前に能舞台があって、美しくて、「パァ〜ッ」となりました。あとは……子どもの頃初めて後楽園球場へ行ったときの感覚ですね。

水野さん:
あ、いま、同じことを想像しました。ぼくの場合は、東京ドームでしたけど(笑)。

吉田:
そうそう。野球場に入った瞬間の、えも言われぬ「パァ〜ッ」ですよ。「東京にこんな開けた場所があるのか」と。

水野さん:
なんとなくわかります。それが、“打たれる”なんですね。確かに前説が“打たれ”ていなければ、そのあとお客さんを作品にフォーカスさせるのはすごく難しいかもしれませんね。

吉田:
少なくともぼくはそう思います。放って置いたら、混沌としてなにも感じられないんですよ。一番最初に「すごい!」と感動するから、周りがついてくる。要はファーストフォロワーですよね。表現者と同じくらいファーストフォロワーには価値があると思います。

ぼく、昔は評論家の価値がわからなかったんですが、結局ファーストフォロワーなんですよね。誰よりも「これはこうやって見たら、すごくないですか?」と見方を含めて発信する。情報性の高いものには、評論家が必要になんだと思います。

評論家・宇野常寛という存在

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水野さん:
個人的に、音楽系の評論家は苦手なひとが多いんです(苦笑)。ただ、音楽の評論家ではありませんが宇野常寛さんは自分のなかで違う存在です。いつも怒っているけど(笑)。すごいシンパシーを感じているんです。

理由を考えてみたんですが、彼はいつも当事者なんですよね。ぼくもつくり手という意味では当事者。つくり手は舞台のうえだと客観視できないんですよね。評論家は客観視して、つくり手が気づけないことを指摘していく。それもただ粗探しするのではなく、つくり手が前に進むための意見だったり、つくり手が当事者であるがゆえに見えない視点を提示したりということを当事者としてやっているのが宇野さんなんです。

ぼくが苦手な評論家は、すごく脇役的なんですよね。当事者、つまり主役ありきだから、指摘がなくとも成立しちゃう。後出しジャンケンでいい思いをしているだけというか、考えているように見えるだけで当事者として責任を感じられないというか。

たとえば、石崎ひゅーいくんが「真夏の聖なる夜」という歌詞の社会における価値を理解しているかはわからない。当事者だから見えないというか。でも、違う場所から違う価値観の吉田さんがスポットを当てることで前に進めることができる。ひゅーいくんが「価値があるのかもしれない」と気づくこともそう、「俺は嫌いだ」と思うこともそう。前に進んでいるという意味では、他者である吉田さんの存在がすごく大事になる。

吉田:
え、自分がつくったものが嫌いになることってあるんですか?

水野さん:
「全部好き」はありえないですよ。語弊のある言い方になるけど、完全に好きな曲はないような気がします。

吉田:
そうなのか……またUNISON SQUARE GARDENの田淵さんの話になるけど、彼は「自分が聴きたい曲がこの世にないから自分でつくる」と言ってました。好き嫌いとは別か。

それにしても、評論家の話すごくおもしろいですね。評論家は、たぶん自分のことは評論できないですよね。

水野さん:
そうですかね?

吉田:
評論という舞台における当事者だから客観視できないと思います。結果的にぼくがやっていることは評論に近い可能性がすごく高いんですが、最近「アナウンサーって何なのか?」にようやく結論が出たんです。

水野さん:
結論?

吉田:
伝わる日本語で時間通りにしゃべれたらアナウンサーです。以上。

水野さん:
すごい大事じゃないですか。相当な苦労や工夫がないとできない。

吉田さん:
結局スキルなんですよ。スタジオミュージシャンの方たちと同じように、ぼくよりアナウンサーのスキルが圧倒的に優れていて、それだけで生きているひとは確かに存在します。だから、結果的にぼくはアナウンサーというスキルに何かを乗せていくスタイルになっている。

そこで先ほどの評論家の話ですが、たとえば「『いきものがかり』を取材してください」と言われて、水野さんに会いに来るのはもう違うと思います。「どんな切り口で『いきものがかり』を取材するか」を考えるところが評論家にとっての命綱で、たぶん宇野さんは自分で選んでいる。だから、前に進むんだと思います。でも、本来そうあるべきですよね。評論のための評論だと、食い扶持のために変にこねくり回すこともあるんでしょうね。

水野さん:
容易に想像ができますね。

吉田:
信じてもらえないかもしれないけれど、ぼくはもうしゃべりたくないんです。

水野さん:
え(笑)!?

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吉田:
世の中のほとんどのひとが自分の話を聞いてもらいたいと思っています。だから、ネットに悪口を書き込んでしまうんですよね。「お父さん、みてみて!」という子どもと同じです。

SNSが普及して10年あまり。みんな他人に話を聞いてもらいたいと思って、SNSを使っていると思うんですよ。ただ、それだけで人気が出ることはないし、「誰の役にも立っていない」ってことが多い。

ひとに自分の話を聞いてもらうって、すごく怖い行為なんですよ。不用意な発言をしようものなら「あいつヤバイ」「あいつはおもしろくないよね」と一発で思われてしまう。だから、しゃべることで神経をすり減らしたくないし、そもそも面倒くさい。でも、仕事として求められるからしゃべっているわけです。

水野さん:
そういう意味で「しゃべりたくない」と。

吉田:
そうです。ただ、「アナウンサー」という肩書きはすごく役立つんです。ぼくの場合は評論的な役割を担うことも多いけど、アナウンサーだと評論家とは思われない。「純粋に吉田はそう思っているんだな」と認識してもらえる。もちろん、実際にそのとおりです。

水野さん:
それにフラットな印象も受けますよね。

吉田:
そう。なんなら公正な印象すらしますよね(笑)。

水野さん:
ずるい(笑)。

吉田さん:
めちゃめちゃ悪用しています(笑)。

一緒にイベントをやっている芸人で学者のサンキュータツオさんからは「吉田さんはアナウンサーをフリにして生きている」と言われて、「あ、そのとおりだ」と思いました(笑)。

会話は自己表現ではない。では、音楽は?

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吉田:
ずっと水野さんに聞きたかったんですが、音楽って「自己表現」なんですか? 「価値観をインストールしたい欲はある」というお話でしたが、「いきものがかり」で「善良な社会がいいよ」って曲はつくらないですよね。

水野さん:
そうですね。

吉田:
ぼくは「言ったことは伝わらなくて、言わなかったことが伝わる」と思っています。でも、すべての曲を聞いたときに善良な社会を求めていないような歌詞も雰囲気もない。ということは「ミュージシャンとしての核はそこなんじゃないか」と。

水野さん:
そもそも音楽は、構造上の問題として聴いてもらえないと成立しないんですよね。聴き手を必要としている。他者が関わることで、価値基準や物語が投影されていくわけです。

歌のなかで書けることはすごく短いから、書いていないところは聴き手に委ねられて、脳内で膨らんでいく。もしぼくらの曲を聴いて善良な社会を感じるのであれば、聞いたひとが見たい世界を頭のなかに描いているからだと思います。

ときどき「この曲に助けられました」「こんな名曲をつくれてすごい」と言ってくださるファンの方がいらっしゃるんですね。言葉自体はすごく嬉しいんですが、ぼくはいつも「名曲にしたのはあなたですよ」と思っている。名曲になったのは聴いてくれた方の特別な物語をデータベースがあってこそ。人生そのものを再生装置にしているようなものなので、ぼくらだけではどうしようもないんです。だから、単純な「自己表現」というくくりにはおさまらないと思います。

ただ、ぼくらが再生装置のスイッチを押していることは重大な事実なんですよね。スイッチがないと物語は再生されないし、スイッチ自体は他者の刺激がないと押されない。ある種、ぼくらがコントロールしている、ぼくの思ったとおりに感動してもらえるように誘導しているとも言えますよね。ある意味暴力的なところがポップミュージックの怖さであり、ロマンでもあるとぼくは思います。

吉田:
以前、映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督に話を聞いたとき「すごくよかったです」と伝えたら「そう思えるのは、見ているあなたがすごいんです」と言われたんですが、全く同じですね。

ということは、ミュージシャンやクリエイターは人間というシステムのパスワードを知っている存在ですよね。すごいミュージシャンは聞いたことのない音楽で気持ちよくさせてしまうことができる。

水野さん:
うーん、難しいですね(笑)。

吉田:
知り合いのデータサイエンティストが、人間が「美味しい」と感じる味の組み合わせをビッグデータで解析しようとしていて。

水野さん:
味をビッグデータで?

吉田:
そう。ここ数十年で、人類の食べ物に対する可能性はすごく広がりを見せているそうです。いまなら、日本にいながら中国の食材と南米の食材を両方手に入れられるじゃないですか。でも、歴史をさかのぼると一緒に存在したことはないんですよね。料理は土地に左右されるので。しかも、味は記憶に左右されるからいままで可能性を語られることはなかったんですが、人間が「美味しい」と感じる味の組み合わせはまだ相当数あるそうです。

水野さん:
へえ。

吉田さん:
たとえば、コーヒーと牛乳は合いますよね。ビッグデータによると、コーヒーとビールにも香りの共通性があるそうです。だとすると、ビールと牛乳も……?

水野さん:
どうだったんですか?

吉田さん:
これが、ちゃんと美味しいんですよ。他にはコーヒーと牛肉、カレーと日本酒とか。なんなら、冷蔵庫で隣に並んでるのに人類が組み合わせたことのなかった食材はまだまだ存在するそうです。

でも、逆にいくら「この組み合わせで食べてほしい」と言われて出されても、まずいものはまずい。仮説の提示とかするのは自由だけど、命令形で押し付けるのは全部ダメだと思います。

水野さん:
同意です。料理と音楽には通ずる部分があるとすれば、違う価値基準が混じり合う接点を用意することだと思います。

ぼくが音楽をつくり続ける理由は、違う価値基準のひととの踊り場のような場所をつくりたいからかもしれません。料理も音楽もつくり手の価値基準にもとづいてつくられます。食べてもらったり、聴いてもらったりする行為は、他の価値基準にさらすこと。

自己表現を強く打ち出した作品に抱く嫌悪感は、他者の価値を取り入れようとしていないことに起因していると思うんですよね。混ざり合えないから、新しいものを生み出さない。

ぼくらがアルバムをつくるのは、選曲や曲順含めて「いきものがかり」の物語として聴いてほしいから。他人の物語を聴くことで、自分を変えるきっかけにしてほしいからです。いま自分がほしい情報しか手に入らないので、自分の物語でしか生きていないんですよ。他人の物語が入れば、自分のなかに価値の変容が起こることがある。そのあたりが、「自己表現」という言葉を紐解く手がかりになるのではないでしょうか。

吉田:
そもそも、創作物は自分が気持ちいいと思うもの、この世にないと思うものをつくっていくと現れるものなので、「自己表現」とは別物ですよね。

水野さん:
その文脈だと「自己表現」ではないですね。すべての創作物は、作家という“筒”のなかにある価値観という“フィルター”を通して出てきたもの。ぼくの音楽は、水野良樹という“筒”のなかにある“フィルター”を通して出てきたものであって、決して絶対的な価値観ではないと思います。

会話は、他人と価値をぶつけ合い、自分自身をアップデートさせる唯一の方法

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水野さん:
最後に、ぼくが冒頭に「会話の競技性」について触れた理由を説明させてください。単純に「会話が続くことに意味があるのか?」と思ったからなんです。たとえば、30分のラジオ番組だったら、お互い楽しく会話が続けば価値はあると思いますが、もう少し広い意味で。

約1時間半にわたって話してて思うのは、「価値を投げ合う」って会話でしかできないんですね。価値を混ぜ合わせていくことにおいて、会話はすごく有効な手段である。

その技術をみがいていくことで、吉田さんがいろんなひとから聞いた話を教えてくれたように価値観をインストールしていくことができる。吉田さんという存在が、会話の価値を証明してしまっているんですよね。会話がうまくなれば、情報量が増え、手数が増え、生きやすくなる。その場の会話をうまくやることは前提としてすごく大事なんだけど、吉田さんがやろうとしていることは人間の本質に問いかけ、自分自身をアップデートするための武器を与えているような気がしました。

吉田:
たぶん水野さんがいうところの「“筒”になる技術」だと思います。自己主張がなくなると筒になりますよね。逆に自己主張があると、筒が詰まってしまう。「才能がすべて」でも「努力がすべて」でも「両方」でもいい。なんでもありなんですよ。その価値観が、会話の流れを良くすることだけを考えている本になったのかもしれません。

“筒”って、結局メディアなんですよね。いろんなものが流れ込むから突然化学反応が起きておもしろいんだけど、「俺の話を聞け」という自己表現は一番違う。でも、「あいつの話、最高」って周りが感染していくのは自由。かといって、全部に同意する必要もない。価値を混ぜ合わせないと意味がないんですよね。なにも干渉しないで生きていくなんて、おもしろくない。

水野さん:
根源的な欲求だと思います。

吉田さん:
だけど、人間は意識しないとわざわざ他者に会いに行かない。人類はインターネットのほとんどを普段から会える周囲5mのひとたちとのやり取りに使っているくらいなので。そこは、人生のなかでも頑張らなきゃいけないところなんですよね。あとはダラダラしていてもいいけど、オープンにあり続けないと。HIROBAもそういう意味ですよね。

水野さん:
そのとおりです。人間が他者とつながりたい欲求と自分が心地いい状態でいたい欲求の矛盾したふたつの緊張関係を大事にしないといけないんですよね。ふたつを存在を認めていないと、テクノロジーの進歩が起きると偏ってしまう可能性がある。

吉田:
まさにHIROBAの位置付けですよね。

水野さん:
そうかもしれないですね。「水野良樹の〜」という名称だと、水野良樹を好きなひとしか来てくれないじゃないですか。フィールドを用意することで、ぼくを苦手と感じているひと、ぼくが苦手と感じているひとともつながれることは期待しています。

吉田:
やはりHIROBAは自己表現じゃない。むしろメディアですね。

水野さん:
自己表現じゃないですね。だからソロ活動と言わないようにしています。

吉田:
HIROBAの曲はつくらないんですか?

水野さん:
HIROBAのためにはつくらないですが、HIROBAを通じて出会ったひととはつくってみたいです。

吉田:
ぼく、映像作品に主題歌はいらないと思うんですよ。

水野さん:
ほう。

吉田:
だけど人間って、主題歌があったほうが受け取りやすいんですよね。そして、ぼくが見た狂言でもクライマックスにミュージカルのような演出があったんですよ。エンディング曲というか。狂言の時代から、人間は芸能に音楽を求めるんです。

水野さん:
狂言にエンディングがあるのは、現実の世界と虚構の世界の境界線を演出しているような気がするんですよね。

吉田:
そう。ハレとケの話ですよね。ハレに入るためには音楽が必要なんです。ハレは儀式のことで、儀式を成立させるためには音楽が必要。だから、音楽がない文明は滅びてしまう。

水野さん:
儀式って、自分たちの理解を超えた世界を一旦つくるってことだと思います。だから、自分たちを変容させるために。

吉田:
そして、ケに返ってきたときに何か違って世の中が見える。それこそが、創作物の価値なのかもしれませんね。いや〜長時間にわたって、ありがとうございました!

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文:田中嘉人


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