小説【珈琲と人生】
最近、コンビニでホット珈琲を買って車の中で飲むことが多い。
しかし、僕は元来珈琲が好きで、よく珈琲専門店に行って珈琲を飲むことが多かった。
多かったと過去形で書いているが、今も時間とタイミングが合えば珈琲専門店で珈琲を飲みたいと思っている。
さて、ここで言う珈琲専門店とは珈琲だけを飲ます店のことである。
つまり、サンドウィッチやスパゲティー、定食やランチ等軽食をやっていない所謂、喫茶店とは一線を画しているお店のことである。
注文してから珈琲豆を挽いて、それからお湯を沸かしてドリップする店が、珈琲専門店には多い様に思う。
そして、神戸にはこの珈琲専門店が多い。
挽きたての珈琲豆を適度な温度に沸いたお湯を注いでドリップして入れる、その時のあの甘く広がる芳しい珈琲の香りが僕は大好きである。
一杯の珈琲が、その場の空気を芳醇で甘美な香りで豊かにする。
まさに、至福の瞬間である。
そして、パックにはJaz、あるいはクラシックの音楽がゆったりと贅沢な時間を演出する。
僕は、初めて行く珈琲専門店では、まずその店のオリジナルブレンドを飲む。
なぜなら、オリジナルブレンドは、その店の特徴を現しており、こだわりや自信作である場合が多いからである。
ブレンド珈琲は、その名の通り、色々な珈琲豆をブレンドし、トータルで味を調整していく珈琲だ。
例えば、酸味と甘さ、渋さのバランスを整えて行く。
その豆の配合により何種類、いや何百、何千もの種類の配合のブレンド珈琲が出来るだろう。
その辺りは、店主の腕の見せ所であり、こだわりだ。
また、焙煎の仕方によっても味が変わっていく。
そして、お湯の注ぎ方、お湯の温度によっても味が変わってくるだろう。
そう考えたら、珈琲一杯を作るのにいく通りもあり、奥深さを感じる。
たった一杯の珈琲、されど一杯の珈琲である。
この辺りは、お酒のブレンドやオーディオの組み合わせ、香水の調香等と通じるものがある。
今日も、マスターの入れてくれた珈琲を飲みながら、僕はフト僕の大学院時代を思い出した。
僕は、学生時代に経営学を専攻し大学院で研究していた。
大学院の授業は、少人数の場合教授の研究室で授業をすることがある。
僕は、大学院のM1(修士の1年目)の時に経営史の授業を取っていた。
M1のMとはMasterのMで修士課程のことを意味する。
ちなみに、博士課程はDoctorで1年目ならD1、2年目ならD2と言う、
話しをもとに戻そう。
その経営史の先生の研究室には焙煎付きの珈琲メーカーが置いてあった。
先生は、僕に毎回授業の途中で珈琲の生豆を冷蔵庫から取り出し、それを焙煎装置の中に入れ、焙煎させ、そのあとミルで珈琲を挽いてその珈琲の粉ををドリップして珈琲を入れてくれていた。
毎回、珈琲を焙煎する香ばしい香りが研究室の中に立ち込め、そして珈琲をドリップすると甘く、酸味のある豊潤な香りが広がっていった。
そして、先生は珈琲カップにサイホンから珈琲を注いでくれ僕の目の前に置いてくれる。
大学院の恩師が、
「さて、今日もチャンドラーの続きをしょうか」
「つづきから、読んで訳して。」と授業を始めた。
ここで言うチャンドラーとは、ハーバード・ビジネススクール等で教授をしていた経営史の世界的な権威であるアルフレッド・D(デュポン)・チャンドラーのことである。
ハードボイルドの小説家であるレイモンド・チャンドラーが、小説の世界では有名だか、今は、経営史の授業なのでアルフレッドの方である。
テキストは、『The Visible Hand』邦訳『経営者の時代』の原書を使っている。
実は、この原題には意味がある。
アダム・スミスが主著『国富論」の中で『神の見えざる手』によって市場経済は動いていると提唱し、市場経済はコントロール出来ないと述べた。
「神の見えざる手」を英語で言うと「Invisible Hand」になる。
チャンドラーは、市場経済は大企業によりコントロール出来ると論じた。
つまり、「Visible Hand」、「見える手」と言う言葉を「Invisible Hand」を意識してタイトルにした。
余談だが、イギリスのクリスチャンのプログレシッブバンドであるGenesis(ジェネシス)の1986年のメガヒットした曲の「Invisible Touch」は、「神の見えざる接触」と題している。
一つの言葉も関連性を知れば、奥深く面白いものである。
僕達は、人生を思い描き、この様になりたいと夢を持って生きている。
目標を持ち、その目標をビジョン化させて、その目標を達成させようとしている。
つまり、僕達は自分自身の人生を自らコントロールしょうとしている。
これは、まさにアルフレッド・D・チャンドラーが述べた“Visible Hand"、「見える手」と同じである。
しかし、人は環境と言う自らがコントロール出来ないものに影響される。
自分自身が、コントロール出来るのは自分自身のことである。
例えば、努力、習慣付け、計画実行等は、自らの意思でコントロール出来る。
しかし、自分以外の環境、それは、外部環境と言われている。
外部環境とは、政治や経済、自然環境、法律、疫病等自らの意思でコントロール出来ないものである。
大きな流れに身を任し、大きな存在に委ねる。
まるで、「運命の定め」に従う生き方である。
それは、"Invisibe Hand"、『神の見えざる手』により霊として生きて行くことになる。
しかし、人は果たしてその二つの生き方しかないのであろうか。
"Visible Hand"と"Invisibe Hand"を融合させた統合的な生き方があるのではないだろうか。
僕は、珈琲を口にしながら、BGMにジェネシスのドラマーでヴォーカルであるフィル・コリンズの"One More Night"を聴きながら考えていた。
人は、天から与えられた使命、お役目と言う大きなものに従い、あるいは導かれながら生きて行く。
この様な生き方は、神の見えざる手、つまり“Invisibe Hand"的である。
これは、現世の利益を追うのではなく、魂の向上、神との契約に基づき生きて行くと言う軸に従っている。
そして、この神から与えられた使命、お役目をいかに達成させて行くのかと『見える形』とし、目標、計画、準備、実行、達成(成就)させるために具体化させるのが"Visible Hand"つまり『見える手』としての生き方となる。
また、仏の道として達観し、魂の修行も方法は違うが同じ事である。
大きな指針、ビジョンとして“Invisibe Hand"を自分自身の『あるべき姿』として目標にする。
そして、その目標を具体化させる手段、方法として"Visible Hand"で実践する。
実は、"Invisibe Hand"も"Visible Hand"も視点や役割が違うだけで、一つの大きなものを達成させるために統合し、融合により一体化されているのである。
根底にある軸は、魂の向上であり、自分自身の使命やお役目を果たすためにいかにして生きていくかである。
そこには、もはや私利私欲はなく、『利他の心』として生きて行く人間の様、お役目としての生き方があるのである。
僕は、いれたての珈琲を飲みながら、マスターと生き方について語り合っていた。
マスターが、自分の店の事を話し始めた。
「私がこの店を始めて40年は経つんだよ。」
「珈琲好きが高じてお店を始めたけど、初めから40年続けようとは思ってなかったんだよ。」
「と言うと?」僕はマスターに質問した。
「毎日、お客様に美味しい珈琲を飲んでもらいたい。あそこのお店に行くとホットして癒される。」
『そう言う居心地の良いお店を毎日目指してコツコツとしてたのだよ。」
「まさに、ホットコーヒーを飲んでホットするですね。」
と僕は駄洒落を込めて相槌した。
「中々、上手いこと言うね。その通りなんだよ。」
マスターは、僕の駄洒落を軽くあしらわずに話を続けてくれた。
「日々精進でコツコツと地道にしてきたら、気がついたら40年経っていたと言う訳だよ。」
僕は、マスターに
「梵字徹底ですね。基本を繰り返し励行する。どの道にも通じる王道ですよね。」と言った。
「難しいことは分からないが、格好良く言えば珈琲道だね。」とマスターは照れながら言った。
「珈琲道か。まさにマスターの生き様ですね。」
「道とはその道を極めて行くと答えを探し求める旅に出てしまいますね。」
「道を極めようとすると、自分の未熟さを己で知っていく。道とは永遠に辿り着けないものなのかもしれない。」
僕は、独り言の様にマスターに呟いた。
「珈琲とはその時の気候や温度、注ぎ込むお湯の温度や勢いなどその時、その時の状況によって変わって行くものなんだ。だから、毎回同じ味を出せるか、同じクォリティーを出せるのかと探求だよ。」
「だからこそ、この珈琲の道にハマっていったのかもしれないね。」
「そして、珈琲を飲んでくれるお客様のホットするひと時の笑顔を見ると嬉しくなってくるんだ。」
「お客様のその笑顔が見たくて、毎日、毎日、何杯も何杯も珈琲を入れてきたんだよ。結局は。』
とマスターは、自分自身に言い聞かせる様に納得して話した。
「お客様に喜んでもらえる。それが私のやりがいであり、モチベーションになっているんだろうね。」
「結局のところ、自分ではなく、お客様に喜んでもらえると言うことが長く続ける秘訣なんだろう。」
マスターは自分を振り返りそう語った。
「と言うとさっきの『Invisible Hand』と『Visible Hand』の話に戻りますが、やはり『利他の心』が軸になっていると言うことですね。」
僕は、納得する様に言った。
「きっと、そうなんだろうね。」
マスターも静かにうなずいた。
人は、人のお役に立ちたい。
それが、自分自身の存在意義であり、生き様、生きる意味になっていくのだろう。
自分自身の道を探求し、進んで行く。
僕達の果てしない魂の道、旅路はこらからも続いて行く。
完