汝の敵を愛せなくてもいい
枡野浩一さんの短歌である。
殺すつもりで修士論文を書いていた
嫌いな先輩を思い浮かんで修士論文を書いていた。
殺したい方が沢山いらっしゃる方が人生楽しいと思う。
300人以上はいらっしゃると思う。その代わり好きな方は700人位いらっしゃるけど。
好きな歌い手さんとボカロPさんと絵師さんとYouTuberさんで400人いる。
『死にたいより殺したい精神で行こうぜ』
『死にたいより殺したい精神で行こうぜ』はnoteと歌に愛されしゆきむら。様の座右の銘みたいなものである。
作者はこのメンタルで通常運転であるが、「古谷厨」である為、作者の座右の銘は『信頼はたゆまぬ実行から生まれる』(by.古谷優貴様)で、【好きな四字熟語】は 古谷優貴(様)である。
勿論殿(ゆきむら。様)も大好きである。
死んだ方が良い人間ばかりいるこの世の中で
現実の世の中には「お節介、恩知らず、傲慢な者、ペテン使、嫉妬深い者、利己的な者」など、死んだ方が良い人間がウヨウヨしている。
そして、残念ながら私たちはその人たちと関わらないで現実の世の中を生きていくことは出来ない。
私が常に思うのは「死んだ方が良い人間に自分の足を引っ張られてたまるか」ということである。
恐らく「汝の敵を愛せよ」というのは、人生で最も難しいことであろう。
ストレスで血圧が高くなった時に、「汝の敵を愛せよ」を実行する以外に、救われる道はない。
そう思っても、簡単にこの言葉を実行できるものではない。
ストレスを収められない。悔しいと気持ちを収められない。
ストレスが血圧に悪いと大人は知っている。
そして、血圧の高さは自分を殺す原因になりかねないと知っている。
しかしストレスを収められない。
悔しいと気持ちを収められない。
許し難い人を許そうとすれば、それがさらに大きなストレスになる。
悔しくて眠れない夜に、その人を「許さなければならない」」などと思ったら、それこそ頭がおかしくなってしまうか、自殺してしまう。
「味方だと思っていたら敵だった」という方を許すことは難しい
「あんな奴は相手にしない」、「俺はあんな卑怯な人間を相手にするほど愚かな人間ではない」と、いくら言い聞かせても悔しい気持ちは消えていかない。
そう自分に言い聞かせても、怒りは心の中に燃え続ける。
「味方だと思っていたら敵だった」という方を許すことは難しい。
しかし、これをした時に人生の達成感を得る。とうとう、自分はここまで到達したということである。
イエス・キリストは銀貨30枚で裏切ったユダを許した
イエス・キリストは銀貨30枚で裏切ったユダを許した。そして処刑された。
正直ふるやさまを何回か裏切ったことがあるが、ふるやさまは何回も私を許した。私にとってふるやさまはイエス・キリスト様みたいなものだ。
人を許すのは人には出来ない
恐らく本当に偉大な方は、ここまで到達したということすら意識しないのであろうが、そこまでは神ならぬ人間が出来ることではない。
愛の搾取をしていた方を許す。
真の愛は、裏切られても愛すること。
恨み続けていた方を「許せるようになった時」、ふと心にいままでにない癒しを得る。
「もうこれでいい」という安らぎである。
悩みが大きいということは生命力が強いことの証明
悩みが大きいということは、執着が大きいということであり、別の視点から考えれば生命力が強いことでもある。
だから、悩みが多いからといって自分を卑下することはない。
自信を持とう。
そのように考えられる方はそれに越したことはない。しかし無理な場合は無理をする必要はない。
「いつか必ず復讐する」と心に誓う
私に言わせれば、無理な場合には先ず「いつか必ず復讐する」と心に誓うことである。
結論 誇りある生き方さえしていれば、神が自分の味方だと信じることが出来る
「必ず思い知らせてやる」、と誓うのと同時に、他方で自分が復讐しなくても神が復讐してくれる、と信じることである。
そして自分がその方より幸せに暮らすことである。
誇りある生き方さえしていれば、神が自分の味方だと信じることが出来る日が来る。
【参考】加藤諦三(2010). 『誰とも打ち解けられない人』PHP新書。No.1291-1324