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明・清の時代

明の成立と中央集権化

久しぶりに漢民族の国家が復活

洪武帝 (太祖・朱元璋)(位1368〜98)
都 : 南京
江南から発展して統一に成功。

洪武帝

●中書省の廃止、丞相の廃止
→唐の時代からあった皇帝の命令を作る省を廃止。自分で命令をする。
●六部 (行政担当)を皇帝直属
朱子学の官学化
●一世一元の制
→自分のもとへ権力が集まるようにした

●明律・明令の公布
海禁=倭寇への対策
民間の対外交易や海外渡航を全面的に禁止。
→朝貢貿易を促進。モンゴル人に支配されていた歴史を払拭し、中国人の権威を取り戻そうとした。

民衆を徹底して管理するシステム

魚鱗図冊
→土地台帳
賦役黄冊
→戸籍台帳 租税台帳
里甲制
→村落行政。農家110戸で1里を構成。租税徴収や治安維持。

衛所制
→軍戸に指定された家に対し、軍事訓練を施す
→軍戸に指定された場合は税金が免除された。
六諭の発布(1397)
→朱子学の六か条を簡単にまとめたもの。里老人を通じて民衆教化を徹底。

皇帝がクーデタで即位

建文帝(1398〜1402)
→彼は洪武帝の子供ではなく長男の孫。若くして即位したため、なめられないようにと側近の進言により, 一族の勢力削減をこころみる。
燕王 (洪武帝の子)の挙兵
靖難の役 (1399〜1402)

建文帝

永楽帝による明の全盛期

永楽帝(位1402〜24)

永楽帝

北京へ遷都 (1421)
紫禁城の造営
内閣大学士の設置
→皇帝の政務を補佐。戦争で忙しかったために補佐役を付けた。
宦官の重用
→内閣大学士を設置したが、実際は宦官に任せることが多く、明の宦官政治が始まることとなった。

紫禁城

ベトナム出兵
一時ベトナムを支配(1400〜28)
モンゴル遠征 (1410〜24)
→皇帝自らが率いた5回にわたる遠征

鄭和 (イスラーム教徒の宦官)
南海諸国遠征 (1405~33)
→東南アジア インド・西アジアへ
この大航海を可能にしたのは、宋・元時代の中国商人のジャンク船による外洋進出で培われた造船技術と羅針盤天体観測などの航海術であり、ムスリム商人とのネットワークであった。しかし、鄭和の南海遠征は民間の自由な貿易の拡大をねらったものではなく、そのねらいはあくまで明の国威発揚と、朝貢貿易の拡大にあった。鄭和の艦隊には多くの兵士が同乗しており、場合によっては現地勢力と交戦することもあった。

明を襲う外部勢力/北虜南倭

オイラト(民族)
→西北モンゴリア地域を支配。明の北西部。
土木の変 (1449)
→正統帝 (1435〜49) を捕縛。
モンゴルのオイラト部の部族長エセン=ハンは、明との通交を求めたが容れられなかったことを不満として、明領に侵攻を開始した。明の実権を握っていた宦官の王振が正統帝(英宗)に勧め、50万の大軍を率いて親征(皇帝自ら軍隊を指揮して遠征すること)が行われることとなった。
エセン=ハン (1453~54)の時、モンゴル勢力を統合

タタール
→東モンゴリア地域を支配。明の北東部。
アルタン=ハン (1507頃〜82)
→北京を包囲する
※正しくは「タタール」ではなく「タタルor韃靼」である。本来は唐末から北方民族全体を意味した「タタル」を音訳し、韃靼の漢字を当てたのであり、元を滅ぼした明が、その遺民をモンゴル(蒙古)の後継と認めないことを示すために使った。
よくある間違いで、1240年にバトゥの遠征でキエフ公国が滅ぼされキプチャク=ハン国が建設されたことでロシア人がモンゴル人の支配下に入った「タタールの軛」の「タタール」はロシア語で遊牧民を意味し、ジュチ及びバトゥのキプチャク=ハン国のモンゴル人を指す。従ってタタルとタタールは意味が違うのだが、混用されている。

◎万里の長城修築
→彼らに対応するために防備を固めた。

前期倭寇 (14世紀)
→日本人中心
朝鮮半島~遼東半島にかけて略奪
後期倭寇 (16世紀)
→中国人中心
海禁に反発し武装した民間商人の略奪行為

晩年の明と清の侵入

皇帝の弱体化と明の趨勢

◎明の財政改革
●貿易活動の活発化
→日本銀やメキシコ銀の流入
一条鞭法の普及 (16世紀後半)
土地税丁税 (人頭税)を銀で納める。以前の税制では税額は一定せず、戸の等級の分け方も不明確で、不正が横行しやすく、確固たる税収入を得るためには何らかの改革が必要となってきた。また、賦役黄冊や魚鱗図冊と言った当初の明の税制のための台帳も、農村の中の貧富の差が拡大し、里甲制が崩れて来たため、作成されなくなっていた。そこで新しい税制として登場したのが一条鞭法である。まとめると「あらゆる賦税と徭役を一本化し、徴収を簡素化し、銀納にしたこと」と言える。
 一条鞭法は、銀の流通の浸透、大土地所有の進行、商品作物の発展に伴う地主と佃戸(小作農)の関係の変化、などに対応した税制改革で、唐の両税法の施行と並ぶ中国税制の大改革とされている。なお、このとき賦税(土地税)と徭役(人頭税)の区別がなくなったわけではなく、いずれも銀納となったのであり、次の清の18世紀の新税制である地丁銀制度によって、徭役(丁銀)が土地税(地銀)に組み込まれて消滅し、近代的な税制へと移行する。一条鞭法は地丁銀制度の先駆的な形態であった。

万暦帝(位1572~1620)
張居正 (任1572~82) の改革
→政務を担当した内閣大学士。万暦帝は十歳で即位したので、張居正が実権を揮い、1567年から内閣大学士として諸改革にあたった。当時の明は、北虜南倭に対する莫大な軍事費の出費で財政が困窮していたので、張居正はまず行政改革を実行して役人の数を減らし、また土地調査(検地)を実施して課税対象の土地を増やし、新しい税制である一条鞭法を普及させた。張居正の財政再建計画は成功し、明の国庫は安定した。また、長く明朝の基本だった海禁を停止し、民間の海外貿易と中国人の海外渡航を認めた。その背景にはポルトガル商人の来航という新たな情勢があった。またモンゴルのアルタン=ハンが求めていた交易も認め、北方での戦闘はやみ、大同などの馬市でのモンゴルと明の交易が始まった。
●明末の政治争い(張居正の死後)
東林派→東林書院(再建者: 顧憲成)出身の官
VS
非東林派→宦官と結託

◎明の滅亡
●豊臣秀吉の朝鮮侵略 (1592〜93,97〜98)
→ここで朝鮮を助けるためにお金を使いすぎた。
李自成の乱
→農民の支持を受け勢力を拡大。北京の攻略 (1644) 明の滅亡。

後金の誕生(1616〜36)

ヌルハチ (位1616〜26)
女真を率いて建国
→ 後に満州と改称

ヌルハチ

八旗の編成
→軍事行政組織
満州文字の制作
→モンゴル文字を応用

ホンタイジ (位1626〜43)
→チャハルを征服(1635)
(内モンゴル)
→国号をと改称 (1636)
→朝鮮を属国化 (1637)

満州人による中国支配

(1616〜1912)
順治帝 (位1643〜61)
呉三桂 (もとは明の武将) が清に協力。北京へ誘導し、清は李自成を倒した。北京を新しい都とする。

鄭成功 (1624〜62)
「反清復明」
→オランダ人を駆逐して台湾を占拠
鄭氏台湾 (1661〜83) の拠点
→国姓爺とも呼ばれる

鄭成功

清の全盛期

康熙帝の時代(1661〜1722)

康熙帝

藩王の勢力削減
→清に協力した漢人武将。内政をしていく上でこいつらを平定する必要があった。
三藩の乱(1673〜81)を鎮圧
●鄭氏台湾を征服(1683)

地丁銀制 (18世紀前半)
→地銀 (地税) の中に丁税(人頭税)を繰り込み、一括して銀納。
 産業の発展とともに人口(丁数)が増加したため、人頭税課税が煩雑となり困難になってきていた。そこで1711年、前年の壮丁男子の人口を定数とし、それ以後の増加人丁は丁銀(人頭税)を課税しないという盛世慈世人丁とした。それが広東省で実施された1715年から、丁銀は地銀に組み込まれて納税することとなり、それを地丁銀制という。この制度は、次の雍正帝時代に全中国に広まり、乾隆帝時代までに全国に広がった。盛世滋生人丁と地丁銀によって人頭税が廃止された結果、中国では急激に人口が増大する。人が増えても税金がかからないため。

ネルチンスク条約 (1689)
→ロシア皇帝ピョートル1世
国境:アルグン川〜スタノヴォイ山脈(外興安嶺)

◎外モンゴルを併合 (1696)

典礼問題
→典礼は中国の伝統的な文化。イエズス会は典礼を承認、他のキリスト宗派は反発
●イエズス会以外の布教を禁止(1711)

雍正帝の時代(1722〜1735)

◎キリスト教布教の禁止 (1724)

◎チベットを併合 (1724)

キャフタ条約 (1727)
→ロシアとの外モンゴルの国を画定

軍機処の設置 (1729)
軍事行政上の最高機関。清でははじめ明代以来の内閣制度がとられたが、清朝の朝廷では満州語が用いられており、中国各省から送られてくる漢文の報告書は満州文に翻訳しなければならず、時間がかかり事務が渋滞したり機密が漏れたりすることがあった。雍正帝が設けた軍機処は大臣の下に満州人と漢人の書記官をおき、漢文の報告書は漢人事務官が処理し、満州文の報告書は満州人事務官が処理することて迅速化を図った。それがうまくいったので、初めは軍事だけを取り扱う機関であったものが、国内政治をも処理する中枢機関になった。

乾隆帝の時代(位1735~95)

最大領土を形成
制限貿易の開始 (1757)
→貿易港を広州1港に限定。銀の流出を防止。
公行の設置
→ 貿易業務の独占を認められた特権商人

ジュンガルの併合 (1758)
→新疆の設置(東トルキスタン一帯の地域)

清の中国統治と社会経済

清の支配領域と軍事制度

◎清の領土
直轄地
→満州 (中国東北地方)、台湾、中国本土 (旧明領)
藩部
→非漢人が優勢な地域
理藩院
→藩部に大幅な自治を与えて監督する

◎清の軍事制度
八旗 (軍事・行政組織)
→ヌルハチが編成。満州・モンゴル・漢の3軍
緑営
→漢人のみの正規軍。治安維持など警察業務を担当

 八旗と緑営は、清朝の統治下において武力を占有する機構であったが、18世紀を通じて人口が急増し、清朝の統治がすべてに及ばなくなると、社会的矛盾を背景として各地に権力にて移行する秘密結社が現れ、独自に武装するようになった。その代表的な例が1796年から約10年にわたって蜂起した白蓮教徒の反乱であった。
 白蓮教徒の反乱を鎮圧する役目であった八旗・緑営は、1世紀に及ぶ清朝の繁栄のもとでの平和に慣れ、武力としては使い物にならず、反乱を鎮圧できなかった。そのような情況の中から、民衆の中に自衛のために武装する集団が現れた。それが団練である。団練は一種の中間団体として社会的に存在するようになり、後には政治的有力者が半ば公的に組織する郷勇を組織するようになる。その代表的な例が曾国藩が組織し、太平天国の乱を平定した湘軍であり、継承した李鴻章淮軍であった。

統治の飴と鞭

◎「アメ」
六部
→皇帝直属の行政上の最高機関
科挙
→官吏登用試験。漢人の制度をそのまま継承。
満漢併用制
→重要な官職の定員を偶数名。満州人・漢人を同数任命

◎「ムチ」
辮髪の強制
→満州人の風習。頭髪を剃りあげ、後頭部の一部をおさげに結ぶ。
文字の獄
→言論思想弾圧反清・反満的な書物の弾圧
禁書
→思想統制のために特定の書籍を禁ずること

明・清の経済発展

◎農業の発達
●商品作物の栽培
茶・綿・桑などの商品作物が長江下流域を中心に栽培
●「湖広熟すれば天下足る」(明代中頃)
→長江中流域の米の生産が下流域の生産をしのぐ

◎商業活動の活性化
徽州 (新安) 商人
専売塩で大きな利益をあげ、 次第に業務を拡大
山西商人
→北辺の軍糧補給と専売塩を扱う 金融業の中心勢力
会館・公所
→同業同郷の商人や職人が建設、親睦互助

◎貿易活動
●主な輸出産品
生糸
→絹織物を生産するための重要材料
陶磁器
染付 (元代後期) 赤絵 (明代)
●貿易港
蘇州(江蘇省) 杭州 (浙江省) 広州 (広東省) など

明・清の文化(1)

国家編纂事業

◎明の時代
●『四書大全
→四書の注釈書、儒教解釈を固定化。科挙試験はこの解釈以外認めない
●『五経大全
→五経の注釈書

●『性理大全
→宋学の全集、代表的な著述と学説
●『永楽大典
→類書(百科事典) 中国最大の編修事業

◎清の時代
●『康熙字典
→康熙帝が編纂させた字書。4万2000をこえる漢字を部首・画数で配列。
●『古今図書集成
→康熙帝~雍正帝の時代に編纂。1万巻にわたる中国最大の類書 (百科事典)

●『四庫全書
→乾隆帝の時代に編纂。中国最大の叢書。中国に存在する本を全て分類したもの。禁書の捜索という側面もあり。

儒学の発達

陽明学
●心即理
→本来持っている心そのものが人間の本質。
「理」 に合致するとした
●知行合一
→良知と行動との自然な一体化を説く
●王守仁(王陽明、1472〜1528)

考証学
→儒教の古典を実証的にきわめていく。広く確実な文献の収集と厳密な考証の実施。

●明末から清初にかけて活躍
黄宗義 (こう そうぎ)(1610〜95) 顧炎武 (1613〜82)
●清の半ばに活躍
銭大昕(せん たいきん)(1728〜1804)
→考証学的な史学を確立

明・清の文化(2)

小説

◎明の時代
●『三国志演義
→三国時代の英雄の活躍を描く
●『水滸伝
→北宋末期の豪傑たちの武勇を描く
●『西遊記
→荒唐無稽な妖怪説話を混入
●『金瓶梅
→明末の新興商人階層の色と欲に満ちた生活

◎清の時代
●『紅楼夢
→ 長編小説。上流社会の栄華没落を題材とする。
●『儒林外史
→ 長編小説。官僚の腐敗や堕落を描く。
●『聊斎志異
→短編小説。怪異妖変の世界と人間の交錯を
いきいきと描く。

実学の発達

李時珍 (1523頃〜96頃)
●『本草綱目
→薬物・医学解説書

徐光啓(1562〜1633)
●『農政全書
→農業技術 ・ 農業政策の総合書

宋応星 (1590頃~1650頃)
●『天工開物
→産業技術書

イエズス会の宣教師

フランシスコ=ザビエル (1506頃~52)
→スペイン出身
マテオ=リッチ (1552~1610)
→イタリア出身
●「坤輿万国全図
→中国最初の漢訳世界地図
●『幾何原本
→徐光啓と共訳。ユーグリッドの本。

アダム=シャール (1591~1666)
→ドイツ出身
●『崇禎暦書』 (暦法)
→徐光啓と共同作業

フェルビースト ( 1623~88)
→ベルギー出身。多くの大砲を鋳造
ブーヴェ (1656~1730)
→フランス出身。
●「皇輿全覧図
→中国初の実測による国内地図

カスティリオーネ (1688~1766)
→イタリア出身
円明園 (北京の北西郊外)
→清の離宮庭園

円明園

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