最後のかき氷のおいしい食べ方
車の後部座席で、妻が娘に話している。
「これ、今年最後のかき氷じゃない?」
おかしな日本語だ、と思う。
だって、また次の週末にお出かけをして食べられるかもしれないし、
明日食べようと思えば、食べられないわけじゃない。
あとで振り返らないと、「最後」かどうかはわからない。
娘は「最後なら味わって食べなきゃね」と言った。
それからぼくは、車を走らせながら、
これまで「最後」になってきたいくつかの出来事を思い返す。
高3の時、夏の甲子園・県予選の負けていた試合で9回に回ってきた打席。
あれは間違いなく、やる前から「最後」の打席だった。
先日の、中3の息子のサッカーの引退試合。
サッカーを始めて以来、ずっと週末の楽しみになっていたのだけれど、
あれも観る前から、「最後」の試合だと覚悟をして応援した。
どちらも“もしかしたらワンチャン”など絶対にあり得ない
「最後」だとわかっていた。
先に「これで最後」だとわかってしまうことも、
いくらかはあるんだなあ、と思う。
そして、いつも「最後」になる何かと向き合う時には、
必ず悔いの残らないように、やり尽くさなければならないと思ってしまう。
今、会社で所属している部署の任期が、あと3か月ほど。
自分が携われるプロジェクトは、あと1つか2つだと思う。
悔いの残らないように、全速力で走ろう、やり尽くそうと思ったところで、
「平常心で臨まなければ、ベストなパフォーマンスなんてできないよ」
ともう1人の自分が諭す。
娘は、かき氷を、味わって食べたのか、
それとも、いつもと変わらない感じで食べたのか。
どっちがいいんだろう。
ぼくは、1日1日、一瞬一瞬を、悔いの残らないよう、
噛み締めながら過ごすのがよいのか、
深く考え過ぎず、自然体のまま平常心で過ごすのがよいのか。
でもとにかく、また明日から、いろいろあるだろうけど、
前を向いて生きていたいと思った。