僕の祖父は五十の頃に死んだ
3月も終わりを迎え、岩手でもようやく梅の花が咲きはじめた。
子供は来月で生後3ヶ月を迎える。まだ首は座らないが、笑うことが増え、こちらの問いかけに反応を示したりと日に日に発達している。
まあ可愛くて、毎日写真を撮ってしまうのはおそらくどこの親も一緒だろう。
先日、実家から昔のアルバムが出てきた。当時は当然フィルム写真だ。自分の幼少期は自分の子供に似ていて、自分と子供がリンクしているような不思議な感覚になった。
さらに、親の若い頃も今の自分と似ていて、さらに親の赤ちゃんの頃の写真もどこか子供に似ていて、輪廻転生、というわけではないけれど、自分が死んでも子供がその先、生きていくということは、自分が生きていくということでもあるのかな、と感じた。写真を残すという行為は、このためにあるのかもしれない
母親の赤ちゃんの写真を撮った僕の祖父は、母が高校生の頃に癌で亡くなった。カメラが趣味で自分で現像までやっていたらしい。実際に会ったことがないけど、僕の中に祖父が生きているという気がした。
僕は「まだ30」だと思っていたけれど、仮に祖父と同じ歳で癌が発症したら?とか、そうでなくとも明日交通事故にあったりしたら?と考えるともう「残り時間」を意識して生きなければならないと焦燥感に駆られる。
なので、今できることはできるだけ今の暮らしを写真に残していくことだと思う。
写真家の濱田英明さんは「シャッターは愛(それゆえに残酷、とも)」と言っている。単純なハナシ、自分の昔の写真を見ると愛されていたんだなと思った。子を愛する方法は様々だけど、自分がこの世からいなくなっても、愛していたということを写真に残すという形で伝えていければと思う。