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【世界史】キリスト教の歴史

古代

キリスト教の誕生

西暦はイエス・キリストの誕生からはじまるが、実際にイエスが生まれたのは紀元前4年くらいといわれている。ローマ帝国の支配下にあったユダヤに生まれたイエスは、ユダヤ教徒として生まれ、育ち、ユダヤ教の宣教をしたが、異端視されて十字架刑に処せられてしまう。ユダヤ教は厳格な教えを守れば(律法主義)ユダヤ人だけが救われる(選民思想)という排他的な教えだが、イエスは隣人愛を説き、その教えを広めようとしたのだ。死んでから3日後、イエスは復活する。この復活したイエスを救世主(メシア、ギリシア語ではキリスト)とするキリスト教が誕生した。

ユダヤ教は民族宗教でキリスト教は世界宗教といわれるが、それは結果的にそうなったのではなく、ユダヤ教は内輪の教えで、キリスト教は啓蒙する教えというそもそもの方向性のちがいがあった。

映画『パッション』はイエスの処刑を描いた昨品だが、エグい描写で話題になった。

キリスト教の国教化

キリスト教はローマで信者の数を増やしていったが、皇帝よりも神を崇拝するキリスト教を危険視したローマ皇帝は、かれらを弾圧するようになっていった。皇帝ネロや皇帝ディオクレティアヌスのときには迫害が激しく、信者たちはカタコンベと呼ばれる地下墓地で、ひっそりと信仰を守り続けた。ローマ帝国によるキリスト教徒への迫害は約300年間続いた。

コンスタンティヌス帝は313年にミラノ勅令でキリスト教を公認、テオドシウス帝は380年に国教化、392年にはアタナシウス派(イエスの神性を重んじる)キリスト教以外の異教の祭礼と供犠を法的に禁止したことで、アタナシウス派キリスト教はローマの唯一の国教となった。このときアリウス派(イエスの人間性を重んじる)は異端とされた。

中世

教会の分裂

ローマ帝国の国教となったキリスト教だが、この頃、五本山と呼ばれる有力な教会があった。ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドロスの5つのうち、とくに力が強かったのがローマ教会とコンスタンティノープル教会で、ライバル関係にあった

ゲルマン人の流入や内政不安で弱体化していたローマ帝国は、キリスト教国教化のわずか3年後の395年に東西に分裂し、476年の西ローマ帝国滅亡を経て、ローマ教会と東のコンスタンティノープル教会との対立関係は明確となった。一般的にこの西ローマ帝国の滅亡が古代と中世との境とされている。

このなかで聖像禁止令を巡る聖像崇拝問題があり、1054年、相互破門という形で分裂し、西方教会はローマ=カトリック教会、東方教会はギリシア正教(正教会)としてキリスト教世界を二分することとなった。

叙任権闘争

国のトップである皇帝と教会のトップである教皇とどちらがえらいのか。当時、教会の聖職者の叙任権(人事権)は皇帝がもっており、神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世は、教会をコントロールするために、自分に都合のいい聖職者を重要ポストに登用していった。それに怒ったローマ教皇グレゴリウス7世は、叙任権は自分にあると通達したが、皇帝ハインリヒ4世が聞き入れられなかったために破門を言い渡した。

破門を言い渡された皇帝ハインリヒ4世は驚いて教皇グレゴリウス7世の城に出向いて謝ろうとしたが門は閉ざされたまま。教皇グレゴリウス7世は雪が降るなか3日間、裸足のまま食事もとらずに許しを請い、ようやく破門を解かれた。1077年、カノッサの屈辱という。この事件により叙任権は教皇のものとなり、皇帝より教皇のほうがえらいことが示されたが、教皇と皇帝の争いはこのあとも続くことになる。

十字軍

権威をほしいままにしたローマ=カトリック教会だったが、11世紀末から13世紀にかけて聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するために起こした十字軍によって、失墜してしまう。

11世紀後半にトルコ系のイスラム王朝セルジューク朝がビザンツ帝国を脅かしてきたことで、ビザンツ帝国の皇帝がローマ教皇に援軍を要請、これを受けたローマ教皇ウルバヌス2世が「聖地回復」の旗を掲げて十字軍を編成した。ローマ教皇としては、これを成功させることで、コンスタンティノープル教会にたいしても、神聖ローマ帝国にたいしても優位に立とうとする目論見があったのだ。しかし約200年(1095〜1270年)、7回におよぶ十字軍遠征は、一時的な成功はあったものの結局失敗に終わり、教皇権は失墜することとなった。

また、たび重なる遠征により封建領主であった騎士階級の力が失われ、遠征を指揮した国王の力が高まることとなった。これによってそれまでの封建社会が崩壊し、絶対王政への時代へと発展していく。また十字軍が経由したイタリア、フィレンツェなどの都市を中心に商業が発展、東方貿易が活発化し、貨幣経済の発展の一因ともなった

フランスやイングランドなど近世国家がしだいに台頭するなか、フランスは教皇庁をコントロールするにいたり、フランス王フィリップ4世の意向によりローマ教皇に選出されたフランス人の教皇クレメンス5世は、1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移した。ここから1377年までのおよそ70年間、教皇庁がローマではなくアヴィニョンに置かれた。教皇はフランス王に監禁されたわけではないが、ローマから遠く離れた場所に留め置かれたということで、バビロン捕囚になぞらえ「アヴィニョン捕囚」と呼ばれる。

ウンベルト・エーコの代表作で世界的なベストセラーとなったミステリー小説『薔薇の名前』はアヴィニョン教皇庁の時代のカトリック修道院が舞台になっている。

教皇庁がローマに戻ってからも教皇が並立して争うなどのゴタゴタがあり、教皇の権威は地に落ちた。これまで民衆は神の教えを教会を通じてしか知ることができなかったが、イギリスのウィクリフ、そしてベーメンのフスは、聖書を信仰の根本とするべきとして教皇の権威を否定、ローマ教会を批判した。

近世

宗教改革

16世紀、ローマ教会にたいする批判は教会が発行する免罪符にも向けられた。免罪符とは購入することで犯した罪にたいする償いをしなくてもいいとする証明書のことで、ローマ教会はサン・ピエトロ大聖堂を建築するための資金をまかなうためにドイツで大量の免罪符を販売したが、1517年にマルティン・ルターが異議を唱えた。ルターは信仰によってのみ神に救われると主張、教皇の権威を否定したことで教皇から破門される。

ルターは信仰のよりどころとなるドイツ語訳の聖書を完成させ、印刷術が普及しはじめたヨーロッパで聖書を出版、支持者を増やしていく。こうして生まれたのがプロテスタントである。

また同じ頃、フランスのカルヴァンは人が神によって救われるか否かは神によって予定されているという「予定説」を唱え、禁欲と労働を推奨したことで商人など市民層に支持され、近代資本主義の形成にも大きく貢献したといわれている。

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