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北国からきて南の島へ

個人ブログより転載


エッセイストの伊藤七日さんの沖縄移住記である『果報をさがして』を読んだ。果報には「かふー」とルビが振ってある。ウチナーグチでは幸せを意味するのだそうだ。

浮島通りにあるブンコノブンコに立ち寄ったとき、その青い表紙が気になって手に取った。
それにしても、何年も書架に置かれて褪せたような味の写真だ。スタッフが「昨日入荷したばっかりなんですよ」と言っていたので、これは多分、狙ってこういう現像にしているのだろう。あるいは、沖縄の青い海を撮ると自然とこんな風合いになるのかもしれない。
写真の構図も気になる。服を着たまま、カバンを背負ったまま、そのまま海の方に歩いていくところを写している。そのまま対岸に見える島の方まで歩いて行ってしまいそうな感じだし、もしかしたら気が変わって、ふらふらと右手の開けた海に引き寄せられて、跡形もなく吸い込まれてしまいそうにも見える。もし私が撮影者だったら、心配だけど、でもこの後どうなるか気になってただ見守ってしまうだろう。
被写体は著者本人だろうか、あるいは例えば撮影のために呼んだ友人だろうか。いずれにしても、この写真自体が著者のことをよく表しているのかもしれない…… などと、中身を読み始める前にあることないことについてなぜか想いを馳せた。そんな風に、妙に気になる表紙の本だ。
この「引っ掛かり」を狙ってやっているとしたら、担当のデザイナーは相当な手練だ。

タイトルの間に小さく「沖縄移住記」と書いてあるのにも、同じ境遇を感じた。パラパラとめくってみると、同じく旭川から来た人のようで驚く。あまり立ち読みしすぎないよう、すぐに会計を済ませた。
心穏やかな休日に読みたいと思って、そのまま1週間寝かせることにした。そうしてから、さきほど読み終えた。

沖縄に移住してきたという境遇だけでなく、なんだか色んな部分において、感性が似ているように思われた。
気ままな感じ、ひとところに居続けられない感じ、好きなことが次々と押し寄せては去っていき、その合間を漂っている感じ。
読み終えてすぐ、なぜだか分からないけれど、子供の頃からずっと仲の良い友人がたった今できたような、そんな不思議な気分にさせられてしまった。

2021年5月の記録のタイトルには「人生をそのまま夏休みにしたい」とつけてある。「あぁ、分かる」とつい口に出てしまった。カフェで目を瞑り、人生が全部まるごと夏休みになった世界のことを考え込んでしまう。

仕事さえも鮮やかな日々を楽しむための遊びの一つだ。

私もそう思って今の仕事を選んだつもりだったが、責任が増えるにつれ、いちばん大切な遊び心というやつを失いつつある。プロジェクトやミーティングを効率よく進めることについて考えている自分の脳を爆破してやりたくなる。
なんだか少しだけ、自分が本来持っていた心のコアを取り戻せた感じがしている。

あるいは、物事が長続きしない性分について次のように綴っている。

一方、世間的には、「継続」は力であり、美であり、評価されるべきことのように扱われる。転職のために改めて自分の経歴をふりかえってみたら、あまりにも不規則でぶつぶつと細切れになっているこれまでの働き方に、自分でもあきれ返った。

こんな風に悩みつつ、でもそのようにしか生きられない、器用なのか不器用なのかよく分からない感じの人がここにも居る事実に、なぜか酷く安堵させられた。

似てないな、と思うところもある。
私が書く文はついくどくどと説明的になってしまうけれど、彼女は日々の行為や感情、目に映る自然をそのままに書き綴っているように感じる。
こういう雰囲気の文章を修飾する語は、おそらく「みずみずしい」とか「等身大の」となるのだろうか。良いものを人に紹介するためにはそうした語彙をつけてあげる必要があるものだが、そういうラベル付けはあまりしたくない。
そんなエッセイを読んでいると、もっと自由に書けるようになりたい憧れと、でもそうはなれないよなという諦めとが入り混じった気持ちになる。

最後まで読んだら、彼女のnoteやInstagramのQRコードが載っていた。noteには毎日投稿がある。
そういえばこの個人ブログに日々を書き連ねるようになって、早いものでひと月以上が経つ。"Indie Web Movement"の精神に乗っかって世界のかなり端っこの方で文章を書いてきたが、私もみんなが通る表広場に複製を投稿してみようか。そうしたら何が起きるだろうか。
何も起きないかもしれない。けれど、少なくとも悪いことは起こりようがないだろう。

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