成田あより『mirror#2』聴了レポート

本文は 成田あより の『mirror# 2』を一足先に聴いた上での個人的解釈や様々な気持ちを織り交ぜたものになっております。私としましては基本的に全ての内容に対して製作者へのリスペクトやプラスの意味でのニュアンスとして作成しておりますが、必ずしも万人が好ましいと感じる文章であると断言出来ませんので、懸念される方がおられましたらブラウザバックをお願い致します。


以下本文

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『それでいいんだ』

普遍的な意味で言えば、この曲の歌詞はより多くの人にとって身近に感じられる内容であろう。恋愛というステージを目指していく以上、成功以外のルートに入ってしまいさえすればこういった感覚に陥るからである。

比較的前から存在しているこの曲を、どのようにして新しく作り上げるかという点でやはり期待していた節がある。敢えて挙げるとするならば『ライブハウスで待ってるね』収録のライブバージョンからの経過といったところだろう。アコギ一本だからこそできる表現があるのと同様に、アコギ以外の音が加わることで醸し出せる小さじ・大さじが存在している。

端的に言ってしまうならば、かつて歌っていた「感情」をこうして数年後に俯瞰して懐かしく思う、ノスタルジーに浸らせてくれるような楽曲になったと感じる。まさにイントロはその世界観を伝えるようなサウンドをしている。

個人的にはこの曲はアコギで切り詰めるような始まりが印象的であったので、そこが違った形で残されていたのがかつてを振り返る様にも見えて嬉しい。サビに向かうまでの間に散りばめられているリードも「そんなこともあったな」と呟いて、思い返しているのかもしれない。

その中でも特筆すべきはやはりサビであり、ある種の物悲しさや悲壮感が絶妙に表されていて情景の想像も容易い。

この曲といえば、歌詞の流動性についても着目して見ていくべきであるだろう。「ただそばにいるだけで」という心境、「そこに甘んじていいわけがない」と気づく、否、気づいてしまってからの気持ちの入り方はまさに気持ちのリアリティを反映している。

「Water is running now.」という英文は直訳すると「水が流れています」となるが、そういう語学的比喩にも似たようなものにも思える。水は走る訳では無い、同様に気持ちも走りはしないが、時間とともに大きくなり溢れていく、それが激情になる。

その骨頂は2番終わりの箇所だろうし、ここの音数の多さこそ心の中での葛藤や動揺、ごちゃごちゃ感を生み出すのだろう。それ故にその後に一気に静かになり、気持ちの整理を無理に行った結果が切なさを増幅させる。

音源が音源である所以は、ある程度の安定感、クオリティの均衡をとるためでもあると思う。そういう意味では是非、この曲をライブでも聴いて頂きたく思う。直近のライブではあまり披露されていないかもしれないが、リリース後しばらくはそのチャンスになる可能性が高くなるのではないだろうか。

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『私が我慢すればいい話』

雨、感情で言えば沈むような、ネガティブなイメージを与えることが出来る気象の一種である。「恵みの雨」という言葉もあるが、人の気持ちにおいては基本的にはマイナスになるものであろう。

さて、曲の入りからまさにその雨を匂わせる描写があるわけだが、この曲の描く日の天気は雨なのであろうか。私が思うにその命題は否定される。確かに、雨粒や水たまりを思わせるサウンドに包まれているが、それらは必ずしも雨が降っていることを指し示す訳では無い。これは雨があがったあとの話、晴れ間が見えるか見えないか、まだ小雨が残っているかいないかの瀬戸際で居る瞬間。現によくよく歌詞を読むと虹というワードの匂わせもある。

しかしながら美しいサウンド。楽器同士の親和性が高すぎて、気づけばもう2分が経っているなど恐ろしい曲である。

気持ちまで汲み取ろうとすれば多分、またこんがらがってしまうのでそれは出来ないのだろうが、やまない雨はないとも言う。この曲に限っての話で言えば、止む止まないではなく、止むように整理するだったり止ませておかないといけない、だが。

病む、病まないなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

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『knife』

前2曲とは一気に雰囲気を変える三曲目。独特のベースラインが嫌に不気味でまさにナイフというタイトルに合った様相をとっているが、サビでの高音低音のワイド具合もまたそこに乗っかって煽ってくる。

長さで言えばかなり短い曲であるが、重々しさ故にそこまでの短さを感じない。それこそ『私が我慢すればいい話』と比較してもそれほど変わらないのではないかと思うばかりである。

先程、止むだの病むだのお口を叩いたが、こちらは普遍的に言う「闇」を明るく照らしながら痛みを唱えている。敢えて言うならばリスカの概念であり、これをどう解釈するかは個々人によって大きく左右されるだろう。大人がよく言う「体に傷をつけて」云々みたいな嫌事を言うような人間ではないが、かといってそれらしい言葉を付けられるかと言われればやはり難しい。

ただ、間違いなく言えるのは指を刺されるべくはその行為ではなく、その要因なのである。と言いたいものの、その発言自体が被行為者の否定にも繋がりかねないので堂々巡りは今日も続く。負の連鎖は続く。私も、他の誰かも。



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『つづき』

トレーラー発表時にも耳が痛いほど、もとい目を蜂に刺されるくらいTwitterに述べさせてもらったが、『それでいいんだ』にはじまり『つづき』で終わる儚さがちょうど心地よく美しいのである。これからもつづいていく、つづいてきたから『それでいいんだ』は改めて音源になったし、間違いなくこれまでとこれからの軌跡を作っているのである。

情勢で何があったとしても、突然予想外の出来事に襲われたとしても明日という概念がつづくことは決まっている。それは私自身、つい昨日痛く感じたことであった。

まるで劇的な展開も見せないように1時間後が、明日が、1ヶ月後がくる。さであるかのように自然とサビに入るしサビが終わる。

色んなことに対して言えるからこそ、それぞれのストーリーを描いて曲を聴くことができる。それこそこの文章もそのひとつであり、誰のためでもなく、ただそこに居た1人の人間の心の中を可視化させただけの、単なる脆弱性にすぎない。そうだとしても私は、他の誰かのこんな文章が読みたい。曲の解像度を高めるために。

この日々を彩るために音楽鑑賞を辞めることはないし、行きたいライブに行く。そんな信念を持っまだまだつづく時間をどうにか生きていく。


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