迷わないのではなく『迷い方』
誰でも人生を歩んでいる最中に道に迷ってしまうことって…必ずあると思います。
人が迷うことは…自然の摂理ではないでしょうか。
摂理というのは…万物を支配して逆らったり、抗ったりしないという意味です。
自然の摂理の他に…自然の道理という言葉も存在します。
道理というのは…全てのもの通じる法則や在り方のこと。
例えば…物を取ったら置く…電気を点けたら消す…みたいな。
日常の中でもこういった当たり前なことは道理に叶っていて、そこに中途半端な理由って必要無いんです。
そういう生き方が流れに逆らわず身を任せることなんだと思います。
その生き方は生き物として、最も自然体でもあるんです。
只、人生では…選択する場面というのも繰り返し何度でも出てきます。
あくまでもこれは僕の自論ですが、基本的に人生で迷うタイミングってここのポイントだけで良いと思っています。
複数ある内…どの入口を選ぶのか?
なぜなら、その場面で迷うことは…自然の道理として正しいと思うからです。
一度選んだら必死に出口を目指す。
ただそれのみに専念して生きていけばいいんだと思います。
そして、その出口は、仮に同じ入り口から入ったとしても…人によって異なります。
それは人によって…目指すものが変化していくからです。
只、その際に注意点として只1つ言えることが…出口が見えてしまったら、もうそんなに迷う必要は無いってことです。
仮に出口から出たとして、そこで人生が終わりにはならないからです。
また新しい入口を探して入るだけ。
もしかすると人生というのは…ひたすらにそれを繰り返していくことなのかも知れません。
なぜこういう話しをしたのかと言うと…何年経っても迷い続けている人って実際にいると思ったからです。
そういう人が迷っている理由って…きっと迷い方を少し間違えているのかも知れません。
出口が見えているのにも関わらず、自らただ外に出るのを怖がっているだけ…そんな可能性が大いにあります。
僕はそういう出口から出ない人を卑下したいわけではなくて、何を伝えたいのか?と言うと…他人を理由にするのではなく、自分の意思のみで選択して欲しいって思っています。
僕は『note』という媒体を活用して、1人でも多くの人に自己主張が出来る人間が増えればいい。
そういう気持ちで記事を書いています。
迷い方を間違えしまうと…出たくても出口から出れない状況になってしまう。
その理由は…自然の摂理、道理に叶っていないのでは!?というお話しでした。
もしよければ、自分の『迷い方』少し考えてみてはどうでしょうか。