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(読み切り短編)無音が描く幽玄美(前)

 スケッチブックにふと影がさした。
 顔を上げると、目の前には今まさにスケッチしていた女性が立っていた。
 顔にかかる長い黒髪を耳にかけながら、彼女は優しい眼差しで僕に言う。

「絵、見せてもらえる?」

 僕は驚きと、いたずらを見つかった子供のような面映い気持ちを抱きながら、恐る恐る彼女にスケッチブックを渡す。
 ありがと、と彼女は言って、僕の前に膝を折ってしゃがみ込み、スケッチブックをめくり始めた。

 心臓がバクバクいっている。
 どうしよう。今すぐ適当な理由をつけてスケッチブックを奪って逃げ出したい。
 けれど彼女の表情は真剣で、逃げることを許さない。
 絵を全部見終わった彼女は、それを僕に返してはくれず、

「これ全部君が描いたの?」

 質問をしてきた。
 僕はただうなずく。

「上手いね。すごく上手い。私、こんなに上手く描いてもらったのって初めて」
「それは、どうも、ありがとうございます」

 かろうじて絞り出したのは何でもない返礼の言葉だったが、それでも少しつっかえた。

「私がピアノ弾いてると、君、いつも絵を描いてるよね」
「……はい」

 気付かれていたらしい。
 そりゃそうか。いつも描いていたら、気付かない方がおかしい。
 彼女は微笑みを浮かべて僕にスケッチブックを返しながら提案をする。

「ねえ。今から時間ある? 良かったら少し話さない?」

 僕は差し出されたそれを黙って受け取る。

「君に興味あるの。どうかな?」

 どこか追い詰められた気持ちながら、舞い上がりたいような衝動を抑えつつ、僕はうなずいた。

   ◆

 声をかけられた駅の近くにある、小さなショッピングモール。
 そこに入っている一軒のカフェに僕たちは来ている。
 時刻は夕刻から夜へ差し掛かる頃合い。店内には抑えたボリュームでクラシックが流れている。

 僕たちは二人掛けのテーブル席に向かい合って座っている。
 彼女がもう一度絵を見せて欲しいとせがんだから、僕はスケッチブックを彼女に渡した。
 とりあえずそれぞれコーヒーを頼んだが、口に運んでいるのは僕だけだ。落ち着かないのと間が持たないのとで、減りが早い。

 彼女は一枚一枚の絵をじっくりと時間をかけて見ている。
 時々顔を左右に傾けたり、絵に顔を近付けたり、離したり。

 彼女との間に会話は一切ない。
 いい加減何か話しかけるべきかと思いながらも勇気が出ず、またカップに手を伸ばそうとしたとき、彼女がようやく口を開いた。

「絵から音が聞こえてくるみたいね」

 彼女の言っている意味がわからず、僕は何度も目を瞬く。

「一枚一枚の絵を見て、この時の私が何を弾いていたのかまではわからないわ。けれど、まるで映画の一場面を切り取ったような絵ね」

 どうも、と口にするのがやっとだ。
 僕はカップを手に取り、口に運ぶ。

「私を描いてる人がいることは前から知ってたの。けれど私が帰り支度を始めたら、君も帰り支度を始めるしさ。帰る方向も逆だし、追いかけるのも何だかなって思って。だから今日は曲の途中で弾くのを止めて、声をかけてみたのよ」

 そうだっただろうか。気付かなかった。

「ねえ。どうしてこんなに私ばかり描いてくれてるの?」

 スケッチブックを返しながら彼女が尋ねる。
 僕は照れと、やや後ろめたい気持ちがないまぜになりながらも答える。

「あんな綺麗な音楽は聞いたことがないんです。どうしてもその光景を絵にしたい。そう思ったからです」
「そうなんだ。……あ、ところで君、名前は?」
「あ……古谷昌登ふるやまさとです」

「古谷君ね。私は高家結美たかやゆみ。ピアニストの高家研吾たかやけんごって、聞いたことない?」

 残念ながら僕の音楽に関する知識は壊滅的だ。興味が余りないというのが大きい。
 僕が首を振ると、彼女、高家さんは驚いたように少し目を見開いて、「そう」とつぶやいた。

「じゃあ君、古谷君か。駅の中にどうしてピアノが置いてあるのか、知らないの?」
「考えたこともないです。都会ではそういうことがあるんだなって思ったくらいで、それ以上のことは何も」
「あら。君、どこかからこっちへ来たの?」

 高家さんはテーブルに両腕を乗せて前のめりになる。
 胸元が強調されて、僕は目のやり場に困る。
 一瞬で目をそらしたから許して欲しい。

「大学がこっちに決まって、今年から下宿し始めたんです」
「どこ大学? あれだけ絵が上手かったら美大?」

 大学の名前を告げる。

「そうなんだ。私、その近くの音大に通ってるのよ」

 それを聞いて納得した。音大生ならあの音色も不思議ではない。

「私の父、高家研吾がその音大の出身でね。大学にはもちろん、色んなところにピアノを寄贈してるのよ。駅にあるピアノもそう。ピアノに触れてもらうことで未来のピアニストを生み出すきっかけを作ったり、音楽に触れる機会を作ったりしたいって言ってたわ。まあ娘の私からすると、何だか恩着せがましくてちょっと微妙な気持ちなんだけどね」

 そこで高家さんがやっとコーヒーカップを手にとって口に運ぶ。
 僕はその指の細さと美しさに、思わず見とれてしまった。

「そんなわけで私も父と同じ音大に通ってるの。父は私をピアニストにしたいらしいわ。けれど私はピアニストになりたいと強くは思っていないの。でも小さい頃からずっとピアノしかやって来なかったから、今更他のことなんてできないし。仕方ないから目指してるのよ」
「そうなんですね」
「古谷君は今年からこっちなのね。じゃあ私のが一個先輩なんだ」

 僕はまだ十八歳だが、高家さんは十九か二十歳らしい。

「古谷君は美大で何を学んでるの?」
「えっと、日本画です」
「あら、そうなの? でもこの絵は全部鉛筆画よね?」
「いつも筆を持ち歩いてるわけじゃないですから。最初に高家さんを見かけたとき、とっさに鞄をあさったらスケッチブックと鉛筆があったんで」

 何かを納得するように高家さんは何度もうなずいている。

「それにしても上手だよね。私、周りに絵を描く人がいなくて。ちょっと新鮮」
「それはどうも」
「ねえ、良かったらまた絵を描いて見せてよ。気が向いたら私、駅でピアノを弾いてるから」

 高家さんはまっすぐに僕の顔を見つめ、にこにこ笑っている。
 頼まれた僕は、嬉しい反面、疑問もあって、「はあ」と曖昧な返事をする。

「ん? あんまり気が進まない?」

 高家さんが首を傾げると、長い黒髪も一緒に揺れる。
 僕は髪の美しさと彼女の可憐さに見とれそうになりながら、必死に言葉を探す。

「いえ、嫌なわけでは、全然ないんですけど。……どうして俺の絵をそこまで気に入って貰えたのかなって。そこがどうしてもわからないです」

 高家さんは姿勢を元に戻し、どこか呆れたような、仕方のない奴を見るような顔と目をして、さも当然のことのように言う。

「あら。美しいものは音楽だけじゃないわ。絵だってそうよ。描かれてるのが私だから言ってるわけじゃないのよ。君の絵は美しい。だからもっと見たい。そう思うのは不自然かしら?」

 僕は慌てて手と首を横に振る。

「いいえ。そんなことはない、です」
「良かった。あ、別に私の絵だけじゃなくていいからね。君が描いた絵なら何でも見たいな」

 僕はまた曖昧に「はあ」と答える。

「そうだ。連絡先交換しない? 私がピアノ弾きに来るとき、前もって連絡入れるわよ」
「あ、はい。ありがとうございます」

 そうして僕らはお互いの連絡先を交換した。メッセージアプリでの連絡先と、電話番号とを。

「ありがとう。また連絡するわね。じゃあ、今日は帰るわ。素敵な絵を見せてくれて、ありがとう」

 そう言うと高家さんは荷物をまとめて立ち上がった。

「またね。バイバイ」
 軽やかに手を振って去っていく彼女の後ろ姿を、僕はぼんやりと見送るしか出来なかった。

 何だか嵐か台風が突然やって来て、あっという間に去って行ったような、そんな慌ただしい時間だった。
 会計伝票も一緒になくなっていることに気付いたのは、僕が席を立とうとしたときだった。

   ◆

 出会いが慌ただしければ、その後の展開も慌ただしかった。
 高家さんは何気ないことでも自分が何か思ったり感じたりしたら僕にメッセージや写真を送ってくる。
 僕が返事をするとまたメッセージが来て、何度かやり取りするうちに文字を打つのが面倒になった高家さんが通話を仕掛けてくる。
 他愛ない話をすることもあれば、お互いの専門分野について語り合うこともある。
 お互いの趣味や普段の生活、高校時代の話、見た映画の感想や好きな動物の話なんかもした。

 彼女はピアノ以外の楽器も好きで、特にドラムが好きと言っていた。
 余りにもイメージとかけ離れているので、ドラムを叩く理由を尋ねると、好きなロックミュージシャンに影響を受けたからだとか。
 実際にかなり長いことドラムも練習してきたそうで、音大仲間でバンドを組んでいるとも言っていた。
 ライブをやるときは見に来て欲しいと言われている。

 対して僕は絵を描く以外には特にこれと言って趣味がないが、こちらへ来てから自炊を始めた。
 これが楽しい。今では新たな趣味になりそうだとさえ思っている。
 その話をしたら、高家さんもまた「意外ね」と言っていた。
 心底意外そうな口調だったから、僕はよほど料理をしないように見えるのだろうか。

「古谷君は彼女いるの?」

 今も僕と高家さんは通話している。
 僕は帰宅して料理を作っているところだ。難しいものはできないから、料理本を買ってきて食べたいものを選んで作っている。
 今日は鶏肉にトマトを加えて軽く炒めるという料理を選んだ。
 だが高家さんの唐突な質問に、鶏肉を一口サイズにカットしていた包丁の動きが止まる。

「……えらく突っ込んだことをさらっと聞きますね」
「そう? 女子は誰だって恋バナは好きよ?」

 高家さんの声の後ろからは微かに音楽が聞こえている。クラシックだろうか。

「いません」
「あらそうなの? でも高校時代はいたでしょ?」
「いたことがありません」
「えっ? じゃあ彼女いない歴イコール年齢なの?」

 僕は再開しようとした包丁の動きを止める。
 心に大ダメージを受けたからだ。

「……高家さん、わかってても言わないでほしかったです」
「えー? 本当? 嘘ついてない? 本当に女の子と付き合ったことないの?」

 なぜそんなに楽しそうな口調で自分でつけた僕の傷をえぐるのか。

「……ないですよ。悪いですか」
「悪くはないけど。でも何か、かわいい」

 言って楽しそうに笑っている。僕の傷はどんどん深くなっているのに。

「笑わないでくださいよ。結構気にしてるんですから」
「そうなの? ごめんねえ、でもほんとにかわいいなあ」

 謝ってくれたもののまた笑っている。
 だんだん気分が沈んできた。

「高校時代も美術部で、絵ばっかり描いてましたから。部員には女の子もいましたけど、その子には付き合ってる奴いましたし。そもそも俺、奥手だから自分からどんどん行けないんです」
「可愛いわあ。初々しいのね」
「僕のことはいいんですよ。高家さんこそ彼氏いるんですか」

 いい加減この話題を断ち切らないとと思って、少し声を荒げて尋ねる。ついでに抗議の意味も込めて包丁でまな板を叩く。

「私? どっちだと思う?」
「知りませんよ。知らないから聞いてるんです」
「適当でも良いから答えてよ。当たるかもしれないわよ? 確率は二分の一なんだから」
「じゃあ、居るってことで」
「どうしてそう思う?」
「高家さんくらい綺麗な人なら男は放っておかないでしょう」

 高家さんが黙る。向こうで流れている音楽だけがこちらに届く。

「何で急に黙るんですか」

 僕は鶏肉を切り終え、フライパンを取り出してセットする。そのまま鶏肉を放り込み、炒め始める。トマトは後で潰すので今はまだ横に置いておく。

「……君、案外さらっとすごいこと言うよね」

 さっきの発言を思い返すものの、特に変なことを言ったとは思わない。

「思ったことを言っただけですけど。そんなに変なこと言いましたか?」
「いや、うーん。自覚ないならいいわ」
「何か納得いかないんですけど」
「というか何かいい音が聞こえてくるんだけど。何してるの?」
「ご飯作ってるんですよ。鶏肉を炒めてます」

 言いながらトマトを潰して軽く炒め、塩胡椒で味付けをする。

「わあ、凄いねえ。私、料理は全然できないのよ。ピアニストって指が命だから。包丁で傷つけたら大変でしょ? だからしたことないの」
「そうなんですね」

 その後も他愛ない話を続けた。
 高家さんは僕が食事を始めても話を続けたがり、僕もものを食べながら喋るという行儀の悪いことをしながら応じる。
 結局高家さんがお風呂へ行くと言い出すまで話し続け、その日の会話は終わった。

 出会いの一件から思うに、彼女は非常にマイペースな性格のようだ。僕は自己主張をしないタイプだから、いつまでも付き合っていられるのだと思う。
 食器を片付けて洗い物をしながら、僕はぼんやりと高家さんのことを考え続けていた。

   ◆

 高家さんは言った通り、ピアノを弾くときには事前に僕に連絡をくれるようになった。
 大学やバイトの都合で行けないことが時々あるものの、行けるときには行くようにしている。

 高家さんがピアノを弾いていると、僕は不思議な気持ちになる。
 普段はとてもマイペースで、僕をからかったり、自分の話を止めどなく続けたり、機嫌が悪いと僕が連絡をしても返答がなかったりするのに、ピアノに向かうと様子が一変する。
 あくまで僕の感覚だが、音の一つ一つが意味を持っているように思う。

 例えば明るい曲で大人しく弾いたかと思えば、目立たせるところではきちんと目立たせる。
 物悲しい雰囲気の曲ならその種類を使い分けているようだ。
 つまりは感情表現なのだろうけれど、それを鍵盤を押さえるだけでどうやって表現するのか、僕にはわからない。
 わからないから、絵で表現ができない。
 彼女が奏でる音を線で表現したいと思うものの、僕の場合はただの線だ。
 そこには何の感情もない。

 違う。そうじゃない。この線ではもっと明るさ、楽しさを表現したいんだ。

 そう思って彼女をじっと見つめる。すると鉛筆を走らせるのも忘れて、ただただ彼女に釘付けになる。
 そんな瞬間が何回もあり、はっと我に返って描き始めるのだけれど、筆は進まない。
 ついに僕はスケッチブックを横に置いて、彼女の奏でる音をただ聞き始めた。

 どれだけの時間が経っただろう。彼女がふと僕を見た。首を傾げている。
 立ち上がって僕のところへやってくる。
 横に置かれたスケッチブックに視線を落として、ご機嫌斜めになる。

「どうしたの? 今日の私の演奏じゃ描けない?」

 僕はまだ呆然としたい気持ちを無理やり叩き起こす。
 何か言おうと息を吸い込んだものの、すぐにため息として吐き出す。

「いえ。そうじゃないんです。僕の持ってる技術じゃ、高家さんの音を絵で表現できなかったんです」

 僕の前にしゃがみ込んで目線を合わされる。

「どういうこと?」
「えっと、何て言うのか……。高家さんの演奏が余りにも素晴らしくて、圧倒されちゃって。僕程度じゃ高家さんの音を絵にすることなんてできないって思ったら、描けなくなっちゃいました」

 高家さんは僕の顔をじっと見つめていたかと思うと、何も言わずに立ち上がってピアノの方へ歩いて行った。
 怒らせてしまったか。このまま帰るつもりだろう。荷物をまとめているし。
 僕も帰ろうと思って荷物をまとめ始める。
 すると高家さんが僕の方へやって来た。

「あれ? 帰るんじゃないんですか?」
「帰らないわ。これから君の部屋へ行くのよ」

 頭の中が真っ白になった。今、何て言った? この人は?

「えっと。よく聞こえなかったんですけど」
「だから、これから君の家へ行くって言ったの。お腹空いちゃったから、何か買って行こう」
「来るんですか? 僕の部屋に?」
「そうよ。早く行くわよ」

 急かされて荷物をまとめ、何だかよくわからないまま立ち上がる。
 それから僕たちは駅近くのスーパーで買い物をしてから部屋へ向かった。駅から徒歩五分以内のところに部屋を借りられたのはラッキーだったと思う。
 外はもうすっかり陽が暮れている。
 ドアを開けて明かりをつけ、高家さんを先に家にあげる。

「いきなり来るって言うから、掃除も何もしてない汚い部屋ですけど」
「そう? 男の子の一人暮らしにしては片付いてると思うわよ」

 高家さんは荷物を適当な所に置いて、部屋の中をキョロキョロと眺めている。
 僕の部屋は六畳のワンルームタイプだ。小さいキッチンがあり、風呂とトイレは分かれている。南向きにベランダ、西側に出窓がある。
 部屋の真ん中には長方形のテーブル。冬はコタツになる優れものだ。

「じゃあ早速何か作ってよ。私お腹空いてるの」

 いつも僕が座っている場所に高家さんは座り込み、指図する。どちらが家主だかわからない。

「はいはい。手早くできるものを作りますよ」
「お願いね」

 料理に取り掛かる。まず米を研いで炊飯器にセットする。
 おかずは、今日は生野菜をいくつか買ってきたからそれを千切ってドレッシングをかけた簡単サラダと、実家から送ってもらったインスタント味噌汁。それから高家さんのリクエストだった焼き魚をレンジで温める。これは出来合いのものを買ってきた。
 米が炊きあがるには時間がかかる。炊きあがったら、これも実家から送ってもらった焼海苔を出そう。

「さすが手際いいわね」
「そりゃどうも」

 米以外の食事が揃ったところでテーブルへ持っていく。

「ご飯も買ってきたら良かったですね」
「気にしないわ。ねえ、私もう我慢出来ないから、頂いていい?」
「どうぞ」
「ありがと。頂きます」

 高家さんは手を合わせて箸を取り、食べ始めた。
 僕も向かいに座って食べ始める。
 大学生活のことや普段僕がこの部屋で何をして過ごしているのかなど、質問攻めにあいながら食事は進む。
 おかずだけを平らげてしまったころ、ようやく米が炊きあがった。
 僕は立ち上がって焼海苔を用意する。小皿に醤油を落としてテーブルに運ぶ。
 海苔でご飯をかきこむ。
 高家さんはどれも美味しそうに食べてくれた。

「ご馳走様。美味しかったわ。それにしても本当にすぐに作ってくれたわね」
「まあ、高家さんが空腹でご機嫌ななめでしたからね」
「私のせいなの?」

 むくれているが、実際その通りなので僕は何も言い返さずにおく。
 苦笑いを浮かべながら小さくため息をつき、「お茶淹れます」と言って立ち上がる。
 二人分のお茶を湯呑に入れて持って行くと、高家さんはすぐに一口すする。
 さっきまであれほど饒舌に喋っていたのに、なぜか無言が続く。

 これと言って話題を見つけられない僕は、高家さんがいつものように話し始めるのを待つ。だが、いつまで経っても高家さんは会話を始めない。
 自分の分のお茶を飲み干したとき、僕は沈黙に耐えきれなくなって、高家さんに尋ねた。

「どうして急に、ここに来るって言い出したんですか?」

 高家さんは視線を合わせない。どこか怒っているような、何か思いつめたような顔をして床を見つめている。
 もう一度聞き直そうかと思ったが、結局やめる。
 手持ち無沙汰なのでテレビでもつけようかと思ったが、これもやめた。

 なぜか、この無音の空間が居心地がいいと思ってしまったからだ。

 高家さんが話し始めやすいよう、僕は視線をあちこちにさまよわせながらそのときを待つ。
 結局、ずいぶん経ってから高家さんがつぶやいたのは、たった一言だった。

「私を知って欲しかったからよ」

 僕ははっとして高家さんを見る。
 彼女は相変わらずうつむき気味で、眉根をかすかに寄せている。
 顔には長い髪がかかり、さっきの言葉さえなければ怒っているとさえ思っただろう。

「どういう意味ですか?」

 何となく予想はつく。けれども、絶対に間違っていると思う。だから聞き返す。

「君、あんまり感情を表に出さないでしょ?」
「そうですね」
「私はこういう性格だから、感情ははっきりと表に出すのよ。まあ気をつけているつもりだけど」

 どうやら気を遣われていたらしい。
 僕は多少いたたまれない気持ちになる。

「それはどうも、ごめんなさい」
「謝るところじゃない。話の腰を折らないで」
「はい」

 語気強く注意されたので僕は姿勢を正してかしこまる。

「君が私を理解できないのは、感情を表に出さないことに慣れてるからじゃないかな。ううん、『慣れてしまっている』と言う方が正しいわね。だから私の表現する感情がわからないんじゃないかなって思ったの」

 考えてみる。その通りのような気もするが、今までこれで生きてきたのだから、感情の豊かな高家さんの内面については、推測することすら難しい。

「今日はね、私はずっと一つのテーマで曲を選んで弾いてたの。君は多分知らないと思うけど、恋愛について書かれた曲がクラシックにはあるの」
 恋愛。付き合っている人はいないと聞いているが、高家さんには今、好きな人でもいるのだろうか?

「それと俺がどう関係するんですか?」
「鈍いわね! 私が、ピアノで、恋愛の曲を弾いてたの! それで察しなさいよ!」

 とうとう怒り始めた。怒っているのだけれど、照れたような顔をして僕を見つめているのはどうしてだろう。

 ……いや、もうよそう。気付いているのに気付かない振りをするのはやめよう。
「高家さん……」

 僕が彼女の名を呼ぶと、高家さんはさっと目をそらしてしまう。

「確認ですけど。付き合ってる人、いないんですか?」
「居ないわよ!」
「……そういう意味だと、受け取っていいんですか?」
「どういう意味よ!」
「彼女のいない男を僕に紹介しろっていう……」

 そこまで言ったところで高家さんが立ち上がり、僕の前にやって来る。
 気が付けば僕が下に、高家さんが上になっていた。
 高家さんの長い髪が僕に向かって垂れて、まるで黒い滝の中にいるようだ。

「ああまで言ってもわからないのね! 鈍いんじゃなくて君、馬鹿なんじゃないの!? 女の子にここまでさせなきゃわかんない!? それともまだわからない!?」

 黒髪の中にあってもわかるくらい、高家さんの顔は怒っている。同時に紅くなっている。
 そしてこの状況。どうやら僕は押し倒されているらしい。

「高家さん。言っていいですか?」
「何よ! これ以上変なこと言ったら怒るからね!」

 もう怒っている、というツッコミはなしにして。
 僕は今まで生きてきた中で、最大限の勇気を振り絞ってその一言を口にする。

「好きです」
「遅いわよ!」

 やっぱり怒られた。

「君の絵を見たときから気になってたのよ。私みたいな感情的な女をちゃんと受け止めてくれる男の子なんて今まで居なかったの。みんな私の気持ちが重いって離れて行ったのよ。逃げないでいてくれるのは君が初めてなの。好きになるなって言う方が無茶よ」

 怒られ続けている。

「高家さん」
「女の子と付き合ったことがない君に、乙女心なんてわかるはずないわよね! 今考えれば、音楽で悟ってほしいって考えてた私が馬鹿だったと思うけど、でもこうして好きな男の子の部屋へ押しかけてきて、ご飯までご馳走してもらって、はいさようならって帰れるわけないでしょう!」
「高家さん」
「それに何か私、君のこと押し倒しちゃってるし! 普通こういうのって男の子がやることだと思うし! 私痴女じゃない? って思っちゃってるけど、やっちゃったものはどうしようもないし! 引っ込みつかなくて恥ずかしくて死にそうだし! だからって怒鳴ってごまかしてる自分も恥ずかしいし! っていうかいつまで私に押し倒させておく気!?」
「結美さん」

 僕がその名で呼ぶと、彼女はふっと口を噤む。
 感情のまま怒って怒鳴っていたのに、今はただ照れて頬を赤らめている女の子にしか見えない。

「俺、今まで女の子と付き合ったことないから、色んなこと、全然わからないです。もどかしい思い、きっとたくさんさせると思います。たくさん怒らせちゃうと思います。けど、そんな結美さんも俺、受け止めます。受け止めきってみせます。好きだから、きっと大丈夫です」

 高家さん、いや結美さんは、それでもなお不満そうな顔をしている。

「……結美さん?」

 彼女は片手で髪を耳にかけ、もう片方の腕の肘を床に突いた。
 そのままゆっくりと下りてくる。

 触れた唇は柔らかく。
 絡まる舌からは、さっき食べたご飯の醤油の味がした。

 僕はされるがままだ。アクションを起こすことさえできない。完全に固まってしまっている。頭の中は真っ白で何も考えられない。
 ようやく唇を離した結美さんは、若干潤んだ瞳で僕をじっと見つめる。

「嫌」

 さっきまで触れ合っていた彼女の唇からぽつりと漏れたのは、そんな拒絶の言葉だった。
 何を拒絶されたのかわからないが、僕の胸がずきりと痛んだとき、

「さん付けは嫌。結美って呼んで」

 ようやく意図がわかった。
 その瞬間に僕に起こった変化は、まるでビッグバンのようだった。
 気付かないように胸の奥底に押し込めていた思い。
 彼女のことを好きだという気持ちが一気に膨れ上がり、爆発した。

「結美」

 その名を口にすると、もどかしくて仕方がなくなった。
 僕は押さえつけられていた腕を振り払い、彼女を抱きしめて上下を交代する。
 荒々しく唇を重ねる。
 貪るように舌を絡める。
 夢中でそうしていたら、いつの間にか結美も僕の首に両腕を回していた。
 あの美しい旋律を紡ぎ出す細い指が僕の髪を梳き、頬を撫でる。
 僕も結美の頬に触れたり、髪を撫でたりする。
 すっかり潤みきった瞳が切なげに僕を見つめる。
 震える手で彼女の服に手をかけたとき、結美が首を微かに横に振った。

「明るいから、電気消して」

 はっと我に返り、僕はいそいそと立ち上がって部屋の電気を消した。
 ついでにテーブルも片付け、押し入れから布団を出して敷くという何とも情けない時間を経た後、僕と結美は一つの布団の中で抱き合った。


(後編に続く)