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(読み切り短編)あめのしずく

 三秒だった。
 私がそれを告げると、隣の竹内祐介はゆっくりと顔をこちらに向ける。

「何が?」

 あからさまに落ち込んでいる声音で質問される。私はにっこりと笑って答えた。

「ため息の長さ」
「今の?」
「うん」
「計ってたの?」
「うん」
「どうして?」

 私はふと考える。なぜ彼のため息の時間など計ろうと思ったのだろう?
 胸がちくりと痛む。
 答えなんかわかりきっているだろう? という主張。
 うるさい、黙って、と胸の中の私に言い聞かせる。

「今日、ため息ばかりついてるから。最初は気にしてなかったけど、あんまり多いから。次は計ってやろうって思ってた」

 心にもない言葉がすらすらと口から滑り出していく。私はいつからこんな嘘つきになったんだろう?

「……変わってるなあ、天野は」

 祐介はどんよりした目で私に失礼なことを言う。

「そう思うなら、ため息つくのやめてよ。こっちまで憂うつになっちゃう」
「気を付ける」

 言ったそばからため息をつく彼を見て、私もため息をつきたくなった。
 そっと腕時計を見る。午後二時半前。大学内にあるこのカフェには講義のない学生がちらほらいて、それなりに活気がある。
 その中で私と祐介のいるところだけがぽっかりと浮いている。世界から切り離されているようにさえ感じる。

「それで? 今度の喧嘩はどうしたの? ていうか、どっちから?」
「どっちだろうな。きっかけはどうでもいいようなことだったはずだよ。けど俺ら、最近上手くいってないからさ。お互いにストレスたまってたんだと思う。気が付いたら口喧嘩してた」
「……祐介。私に何の情報も入ってこないんだけど」
「それくらいお互いに苛ついてるってこと」

 ふうんと素っ気ない返事をして、私はプラチックの容器に入ったカフェオレに口をつける。
 自分を落ち着けたかった。色んな気持ちがぐるぐる回っていて、私を苦しめる。

 この話をもっと深く掘り下げて、喧嘩の原因を突き止めたい気持ち。そうではなく、彼女ともっと仲が悪くなって別れてほしいと思う気持ち。それから、祐介に片思いしている私にそんな話を聞かせて、彼はどう思っているんだろうという気持ち。さらに言えば、私の気持ちに気付いてほしいような、気付いてほしくないような、複雑な思いまである。
 祐介がまたため息をつく。ため息をつきたいのはこっちなのに。

「あんなに苛つかなくてもいいと思うんだよな。……あれかな。生理だったのかな」
「祐介。それ、私へのセクハラ」
「ごめん」
「悪いと思うなら追加でケーキおごって」

 祐介から悩み相談を受けるとき、最初はお互いに飲み物など買っていたけれど、いつか私が冗談で「相談料」としてカフェオレをおごってと言ったら、本当におごってくれた。それがきっかけで、私が祐介の相談に乗るときは私の分はおごりになっている。
 私にしてみれば、自分の片思いを隠し続けたまま、彼の彼女さんに対するあらゆる気持ちを聞かされ続ける。あとで自分がどうなるかわかっているのに、やめられない。
 一緒にいられるのが嬉しいし、私と話してくれるのも楽しい。でも内容は祐介の恋愛相談。

 悲しいなんてものじゃない。傷つくなんて程度じゃない。心は張り裂けそうなんだ。いつも。今も。
 だから相談料と称して、それくらいおごってもらってもいいんじゃない? と思ってしまう。本当に欲しいものはそんなものじゃないってわかっているのに。
 私が胸の痛みを必死になだめている間に、祐介はまたため息をついて言葉をこぼす。

「給料日前で、金ねえんだ。悪いな。ケーキ、今度でいい?」
「覚えとくからね」

 こんな軽口をよく叩くな、と我ながら呆れる。本当は、彼女さんと別れて私と付き合おうよと言いたいのに。
 けれど言えない。だって私は祐介の彼女さんと比べて、ちっともかわいくないから。
 会ったことならある。祐介が紹介してくれた。
 私と彼女は友だちではない。学部も違うし、部活も違う。講義だって一緒になったことがない。言ってみれば私が彼女を「祐介と付き合っている人」と知っているだけの関係。

 彼女だって私のことなんか何とも思っていないだろう。もしかしたら覚えていないかもしれない。それでいいと思う。恋をしているだけでこんなに辛いのに、友だちを憎く思う感情まで上乗せされたらたまらない。知り合いでなくて良かったと心底思う。
 私の彼女への印象は、気の強そうな人だ。自分が人からどう見られるかわかった上で、自分の魅力をちゃんと表現できる人。私にないものをたくさん持っている人。
 どうしてあんな人が、祐介みたいな普通の人と付き合っているんだろうと思う。何が良かったのかまるでわからない。彼女ならもっとイケメンと付き合うことだってできたと思う。
 結局のところ、私から見てもアンバランスに見える関係が今になって二人の間で隠しきれないくらい大きくなってきたのかもしれない。だから祐介も悩んでいるんだろう。
 そんなに辛いなら別れたら?
 そう言えたらいいのだけれど、言えないのが私だ。それを言える性格なら、とっくの昔にこの気持ちを告げている。

「……なのかなあ」

 自分のことを考えてぼんやりしていたら、祐介がぼそりとつぶやいた。

「……え? ごめん。聞いてなかった」

 慌てて聞き返すと、祐介はテーブルに片肘を突いて手のひらに顔を乗せた姿勢で私を見る。

「もう終わりなのかなあ、って言った」

 胸がドキドキしている。何を期待しているのだろう、私は。

「あ、ああ……そういうこと……。祐介は終わりにしたいの?」

 必死に頭を働かせて、私は質問を投げ返す。焦る気持ちを静める時間が欲しかった。

「終わりたくねえよ。けど、何をどうやっても上手くいかねえんだ。原因が何で、どうすれば関係が良くなるかがわかんねえから苛立ってる。でも終わりにしたくないんだろうと思う。少なくとも俺は」
「うん……そっか」
「天野から見て、どう思う?」

 何が、とは聞けなかった。もう終わりなのか、まだ何とかなるのかを聞かれていることくらいわかる。
 ここで「終わりだよ」と答えるのは簡単だ。続けて「だから私と付き合おう」と言えたら、どれだけ楽になるか。

 でも言えない。勇気がない。それに言ってしまったら、今の関係まで壊れてしまいそうだ。私は祐介の一番でなくても、二番目くらいのポジションにいると思っている。
 このポジションだけは誰にも譲りたくない。
 だから、また心にもないことを言う。

「……仲が良かった頃のことを思い出して、何が原因かを考えてみたらいいんじゃない?」

 また胸が痛んだ。恋の成就が遠ざかることをわざわざ言うなんて、馬鹿じゃないの? ともう一人の私がせせら笑っている。

「考えたよ、そんなこと。何回も考えた。試しもしたよ。けれど、あいつを怒らせただけだった」

 試したんだ。やっぱり祐介は、まだ彼女さんのことが好きで、別れたくないんだ。
 私の入り込む隙間なんて、全然ないんだ。
 胸の奥底から突き上げてくるものをぐっと飲み込み、私は精一杯明るい顔と声を作る。

「じゃあ、月並みだけどさ。二人でデートしてみたら? それで美味しいものでも食べてみなよ。彼女さんをたくさん喜ばせてあげなよ。私なら、彼氏がそこまでしてくれるって嬉しいなって思う、と思うなあ」

 祐介はすぐに返事をしなかった。カウンターに両腕を乗せて窓ガラスの向こうを眺めている。
 その横顔を見て、せっかく押し返した気持ちが戻ってくる。
 お願いだから来ないで。今はまだダメ。
 祈るように膝の上で拳を握り締める。震えていないだろうか。大丈夫だろうか。

「そうだなあ……確かに最近は喧嘩ばっかりで、二人でいても楽しかったことがないなあ」
「それならなおさらだよ。一緒にいて楽しい時間を過ごそうよ」
「そうだな……。ありがとうな、天野。何かちょっと元気出てきた」
「そう? なら良かった」

 祐介が私に笑いかけてくれる。私は上手く笑えているだろうか? 胸の内を悟られていないだろうか?
 チャイムが鳴る。講義の終わりだ。

「もうこんな時間か。いつもありがとうな。助かるよ」
「ううん、いいの。私で良ければまた相談に乗るから」

 どうしてだろう。心にもないことに限ってするすると滑るように言葉が出てくる。なのに、本当に言いたいことは言えない。
 自分の勇気のなさが嫌になる。胸が痛む。膝の上の握り拳が微かに震えている。
 せめて声だけは震えないで。お願い。
 離れたところでドアが開く。講義室だ。中から学生が押し出されるように出てくる。
 その中の一人がこちらに気付き、手を振って近付いてきた。

「おう、美香」

 祐介が応える。美香さんは祐介と付き合っている人だ。
 かわいいな……と思わず見とれてしまう。決して目立つ服装ではないし、色だって派手じゃない。髪だって長くて綺麗だし、高めのヒールも似合っている。
 私とは何もかも大違い。

「こんなとこにいたの? サボリ?」

 美香さんの呆れたような口調に、祐介は気だるそうに応える。

「違うよ。たまたまこいつと会ったから話してただけ」

 それでようやく彼女さんは、祐介の隣に私がいることに気付いたようだ。
 一瞬、顔から表情が消えたのを私は見逃さなかった。でもすぐにとびきりの笑顔の仮面をかぶって見せる。早技だ。

「そうなんだ。ごめんね、祐介の相手してもらって」
「いえ、いいんです」
「祐介。次の講義、一緒でしょ? 行こう」
「そうだな。……天野、お前は?」
「私も講義あるけど、この校舎だから」
「そっか。じゃあ、俺たち行くわ」

 椅子から立ち上がった祐介に彼女さんが腕を絡ませる。そのまま、二人とも私を振り返らずに行ってしまう。
 ああしていると仲良さそうなのに、実は仲が悪いなんて……。
 抑えていた気持ちが押し寄せてくる。今度こそ我慢できる気がしない。私は急いで立ち上がり、近くのトイレへ小走りで向かう。
 いつもだ。いつものことなんだ、こんなことは。
 個室に入って扉の鍵をかけ、バッグから小さいタオルを取り出し、口に当てる。

 絶対に声が漏れないように。

 手を濡らす涙が止まらないのは仕方がない。さっきからずっと我慢していたから。
 わかっている。悪いのは全部、私。自分の気持ちに素直になれない私が全部悪いんだ。
 好きなら好きって言えばいいのに、と人は簡単に言う。けれど私はそれができる人間じゃない。

 恋がこんなに辛いなんて知らなかった。中学、高校と地味で目立たない私は友だちが少なかったし、たまに誰かを好きになりかけても「きっと私じゃダメだ」と諦めてきた。相手は私とは真逆の、眩しいほどに輝いている男の子ばかりだったから。

 だから本当の恋をしたことがなかった。本気になる前に諦めたから。傷つくのが怖かったから、その前に自分の気持ちを捨てた。そうして自分を守ってきた。

 祐介は眩しいほど輝いている人ではない。どこにでもいる普通の大学生だと思う。けれど私にとっては眩しい人。
 大学に入ってすぐの頃、友だちもいなかった私に、たまたま近くに座っていた祐介が声を掛けてくれた。それがきっかけで仲良くなった。
 部活もサークルも入らずにアルバイトに明け暮れる私とは違って、祐介はサークルに入っているし、アルバイトもしている。それに素敵な彼女さんだっている。
 私とは大違い。私が持っていないものをたくさん持っている人。

 散々押し殺した感情がまるで津波のように襲ってくる。私はそれを止める術を持たない。
 憧れを抱くのはいけないこと? ああいう人の隣に自分がいられたら、私だって少しは輝けるかもしれない。そんな夢を見ることも許されないの?
 溢れる涙に問いかけるものの、答えはない。

 どうして出会ったの? どうして私に優しくしたの? どうして美香さんと付き合っているの? どうして私に恋の相談をするの?
 ねえ祐介、気付いていないでしょう? あなたといるとき、私の胸はいつもドキドキしているんだよ。一緒にいられるのが嬉しくて。

 でも同時に、物凄く痛いんだよ。だってあなたの話題は、常に彼女のこと。私じゃない。
 彼女が一番で、私は二番? もっと下? 聞きたいけれど、知りたくない。怖い。

 恋がこんなに辛いなら、苦しいなら、好きになんてならなければ良かった。知り合わなければ、こんな気持ちも知らずに済んだのに。
 外から楽しそうな話し声が聞こえてくる。こちらにやって来たようだ。

「あれ? 誰か泣いてる?」
「うっそ、マジ? ……ここかな?」

 扉がノックされる。より強くタオルを口に押し当てる。

「ちょっと、やめなよ。本当に泣いてる人だったらどうするのさ」
「どうしよっかなあ。……まあいいや。講義始まるよね」

 別々の個室が閉まる音がして、やがて二人が出て行く。新しい話題で笑い合いながら。
 わかっている。こんなところで泣いている私が悪い。彼女たちは悪くない。
 けれど、もし神様がいるなら、一つだけ言わせてほしい。

 安心して泣ける場所をください。
 こんな大学のトイレではなく、自分の部屋でもない、安心して泣ける場所を。

 壁に背を預けていたがずるずると滑り落ちていき、私はその場にしゃがみ込む。
 外から聞こえる喧噪が辛さをさらに募らせる。
 二度目のチャイムが鳴っても、私の涙は止まってくれなかった。

 今頃、祐介と彼女さんは仲良く講義を受けているのだろう。それを思うと、悲しみがさらに押し寄せてきたから。
 祐介を思う気持ちと一緒に膝を抱え、私は泣き続けた。

 誰も来ない場所で、一人で泣き続けた。

 完