【妄想小説 #6】アジアの社窓から - マーライオン・ブルース
僕がnoteを書き始めたのは、遠い異国の地で得た経験を書き留めておきたかったから、そして、頭の中で膨らむ空想を物語として形にしたかったからだ。そう、僕の物語はただの妄想なんかじゃない。現実と空想が織りなす、まるで本当にあったことのような、そんな物語なんだ。そして、このnoteに願いを綴れば、いつかその空想が現実になるような気がしてならない。
ー 本編 ー
シンガポールの高層マンション。窓の外には、熱帯の陽光が容赦なく降り注ぎ、ビル群が蜃気楼のように揺らめいていた。それは、まるでこの街全体が、巨大な水槽の中に沈んでいるかのような錯覚を僕に与えた。
休日の昼下がり、僕は愛用のベースギターを肩にかけ、マーライオンパークへと向かった。シンガポールに住んで幾年月、この国の象徴とも言えるマーライオンには、もはや見慣れたはずだった。しかし、その日、マーライオンはいつもと違っていた。口から勢いよく水を噴き出しながら、その目は僕のベースギターを、まるで獲物を狙うかのように、じっと見つめていたのだ。
その視線に気づいた瞬間、僕は思わず立ち止まった。マーライオンの目は、まるで深海から何かを訴えかけるかのように、静かに輝いていた。僕は、奇妙な胸騒ぎを覚えながらも、マーライオンの前を通り過ぎ、公園のベンチに腰を下ろした。
夕方、僕はアラブストリート近くのジャズバー「Blue Jaz」で、夜のライブに向けてリハーサルをしていた。すると、カウンターの片隅に、見慣れた獅子の頭と魚の体が鎮座していた。仕事終わりのマーライオンが、ウイスキーを傾けながら、くつろいでいるではないか。
昼間の出来事を思い出し、僕はマーライオンに話しかけた。「昼間、僕のベースを見てたよね? なんで?」 すると、マーライオンは、口からウイスキーを盛大に吹き出しながら、こう言った。「実は、マーライオンパークで水を吹くようになる前、僕もバンドマンで、ベーシストだったんだ」。
僕は俄然興味を持った。ライブが始まるまでの間、マーライオンと僕は、様々な話をした。彼がどんな音楽を奏でていたのか、なぜ音楽をやめてしまったのか、どうやってマーライオンパークで水を吹く仕事を見つけたのか、マーライオンにとってのシンガポールの忘れられない思い出とは。
彼は、まるで長年積もっていた澱を吐き出すかのように、自身の過去を語り始めた。中でも特に面白かったのは、マーライオンパークに現れた珍客の話だった。その珍客の珍妙な行動を見て、マーライオンは思わず吹き出してしまった。そして、それがきっかけで、彼は水を吹き続けることになったのだという。
その珍プレーとは一体何だったのか? 僕は固唾を飲んで、マーライオンの言葉を待った。
マーライオンは、ウイスキーをもう一口含み、遠い目をした。
「それは、ある晴れた日の午後だった。観光客でごった返すマーライオンパークに、一人の男が現れたんだ。彼は、見るからに場違いな、全身真っ白なスーツに身を包んでいた。まるで、灼熱の太陽の下に舞い降りた雪だるまのようだった。そして、その男は、マーライオンに向かって、おもむろに近づいてきたんだ」
マーライオンは、ここで一度言葉を切り、僕を見た。彼の目は、まるで遠い記憶を呼び起こすかのように、潤んでいた。
「男は、マーライオンの目の前に立つと、深々と頭を下げた。そして、おもむろにスーツのジャケットを脱ぎ捨て、Y.M.C.A.の音楽に合わせて、踊り始めたんだ。それも、完璧な振り付けで、だ。周囲の観光客は、あっけにとられていたよ。僕も、何が起こっているのか理解できず、ただ茫然と眺めていた」
マーライオンは、ここで再びウイスキーを呷った。
「しかし、Y.M.C.A.のサビの部分に差し掛かった時、事件は起こった。男は、Y.M.C.A.の「Y」のポーズを取ろうとした瞬間、バランスを崩し、マーライオンの吐水口に、頭から突っ込んでしまったんだ。白いスーツは、たちまち水浸しになり、男は、まるで溺れる子猫のように、慌てふためいていた」
マーライオンは、ここで堪えきれずに吹き出した。僕も、つられて笑ってしまった。
「その光景があまりにも滑稽で、僕も思わず水を吹き出してしまったんだ。それ以来、僕はマーライオンパークで水を吹き続けることになった。あの男がいなかったら、僕は今でもバンドマンとして、ベースを弾いていたかもしれない」
マーライオンは、少し寂しそうな表情を浮かべた。しかし、すぐにいつもの笑顔に戻り、こう言った。
「でも、後悔はしていないよ。あの珍客のおかげで、僕は世界中の人々を楽しませることができている。それに、こうして君のような面白い人間と出会うこともできた。だから、感謝しているんだ」
マーライオンの言葉に、僕は深く頷いた。そして、彼に最高のライブを届けようと、心に誓った。夜の帳が下り始め、ジャズバーの照明が落とされた。僕は、ベースギターを手に取り、ステージへと向かった。マーライオンの笑顔が、僕の背中を優しく押してくれた。
数日後、まだ夜が明けきらぬ早朝、僕は再びマーライオンパークを訪れた。あたりは静寂に包まれ、観光客の姿はまだ見当たらない。僕は、ギターケースとアンプを携え、マーライオンの前に立った。
「おはよう、マーライオン。今日は、君に特別なプレゼントを持ってきたんだ」
僕は、そう言ってギターケースを開けた。中には、使い込まれたヴィンテージのギターが眠っていた。
「実は、あの日、君が昔バンドマンだったって聞いて、あることを思いついたんだ。今日は、一緒にセッションしよう。僕はギターを弾くから、君はベースを弾いてくれないか?」
マーライオンは、目を丸くして驚いた。そして、しばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「まさか、こんな日が来るとは思わなかった。もちろん、喜んで!」
マーライオンは、水を噴き出すのを止め、慎重にベースギターを受け取った。偶然だが、それは、彼がバンドマンだった頃に愛用していたものと同じベースギターだった。
夜明け前のマーライオンパークに、ギターとベースの音色が響き渡った。僕は、マーライオンの奏でるベースラインに合わせて、コードを刻んだ。それは、まるで、長年眠っていた魂が、再び目覚めるかのような、感動的なセッションだった。
空が白み始め、太陽がゆっくりと顔をのぞかせた頃、僕たちは演奏を終えた。マーライオンは、ベースギターを優しく撫でながら、こう言った。
「ありがとう。最高の朝だった。まるで、あの頃に戻ったみたいだ」
僕も、マーライオンに深く頷いた。そして、彼に感謝の気持ちを込めて、こう言った。
「こちらこそ、ありがとう。また、一緒にセッションしよう」
僕たちは、朝日を浴びながら、固い握手を交わした。それは、人間とマーライオンの、友情の証だった。
その後、マーライオンは、再び水を吹き始めた。しかし、その水は、以前よりも輝いて見えた。それは、きっと、音楽の魔法が、彼に新たな命を吹き込んだのだろう。
僕は、ギターケースを肩にかけ、マーライオンパークを後にした。朝の光が、僕の心を満たし、新たな一日への希望を与えてくれた。そして、僕は、マーライオンとのセッションを胸に、また新たな音楽の旅へと出発した。
シンガポールの高層マンション。窓の外には、朝日を浴びて輝くマーライオンと、希望に満ちた新しい一日が広がっている。
この街での生活は、これからも続いていく。
みたいな面白い経験をしてみたい。