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自分のやることは、自分で「許可する」ことに慣れよう

思えば、人間は小さな子供の頃から、誰か他人の「許可」を得ながら生きていく生き物なのですね。

「○○をしてもいい?」
「○○に行っていい?」

小さな子供なら、まずは親に対して行動の許可を求めて、「いいよ」「ダメだよ」という判断を仰ぎます。
※親とはいえ、自分ではない他の人という意味で「他人」です。

もう少し大きくなっても同じ。
クラブ活動を決める時、進学先の学校を決める時、遊びに行く時、あらゆる場面で、一応は希望を伝えますが、親や先生の許可が必要となります。

成績が良ければ進路は選び放題のはずなのに、なぜか「あなたはこのレベルのところに進みなさい」のようにまわりから決められます。
やりたいことがあっても、下のレベルに行くのを止められるのはなぜ?

就職する時も同様。
業種や職種や将来性で騒ぎ立てるのは、自分が入社するわけでもない外野のみなさん。
親、友人、学校などから、賛成されたり反対されたり。

自分自身の考えなのか、まわりから求められている役割なのか、分からなくなることもあるでしょう。

仕事を始めると、あらゆる場面で会社の許可、上司の許可が必要になります。
そりゃそうだ。
自分勝手に振る舞ってると、組織が円滑に回りません。

結婚する時には、自分の親と相手の親(家族)に許可を求めに行きます。
報告ではなく、許可。なぜか「許し」が必要。
親戚関係を円滑に保つために必要なことなのかな。

結婚すると、今度は妻や夫の許可が必要になりますね。
「○○を買ってもいい?」
「今度の休み、○○に行っていい?」

これは、子育て中もずっと続くことになります。

いずれは、誰かに「許可を出す」側にもなりますが、それでも自分のやることには、誰かの「許可を得る」人生は続きます。



普段あまり意識しませんが、我々人間は、意識的・無意識に関係なく、かなり頻繁に「他人の許可」を得ながら生きているのですね。

もしかしたら、それによって「責任の分散」をしているのかもしれないな、と気付きます。

誰が何と言おうと、自分はこうするのだ!」と決めたら、責任は100%自分です。
それが「自由」というものですが、同時に恐怖を伴います。

でも、誰かに確認して、「○○していいですよね?OK?」だったら、もしうまくいかなかった時に、「あの時OKって言ったよね?」と、一部を他人のせいにできます。
一種の保険、逃げ、責任転嫁。

責任を取ってくれるわけでもないんですけどね。

「社長は孤独である」という意味も、何となく分かります。
会社でどんなに偉い役職についても、社長じゃなければ、最終的な責任は社長にあるので全責任を負うことはありません。

でもトップの人は、決めたことに全ての責任を負う必要があります。
誰のせいにもできません。

「おひとりさま」の不安も、そのへんにあるのかもしれませんね。
経済的不安、健康不安はあるでしょうが、自分の生き方や行動の決断について「許可」をくれる人がいない。
全部自分で決めないといけなくなります。
すべてが自己責任であり、責任を分散させる人がいない、という不安。

ただ、そこをクリアすると、自分の責任で、自分で決めて、自分の意思で行動できる人になります。
それができている人は、まぶしく見えるんですよね。


長い間、人の許可を得ながら生きていると、自分で自分に許可を出すことに慣れていません。

こればかりは、小さなことから決断を繰り返し、慣れていく必要があるのだろうと思います。

長い人生、最終的には、自分の意思で生きていかないといけないのでね。

ある程度の年齢になったら、誰か他人の許可ではなく、自分で自分に許可を出していいのだと思います。

ちょっとした勇気を出して、

「オッケー!それでいこう」

って言ってみましょう。


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