『児童虐待罪』最悪の議論が始まりました。
自民党の若手で作るグループとやらが児童虐待防止法改正や懲戒権の廃止の議論のどさくさに紛れて『児童虐待罪』の議論を始めたといいます。
処罰第一でなく国と国民の誓いとしての体罰禁止法まではいいと思います。
ただ今回の児童虐待罪の法律ができてしまうということは僕にとって僕の想いのすべてが否定されるようなことと同等です。反対の声とともに自分はいち早く新たな議論を始めなければという思いに駆られています。
厳罰化により虐待を抑止する。
確かに。児童虐待の数を減らしたいだけならば厳罰化すればいい。極端な話、殺人罪より罰則を強くすれば当然に数は減ります。
そんなネトウヨ並みのことをこの議員の皆さんはしたり顔で議論したそうです。
児童虐待を虐待者と被虐待者だけの問題と捉えてしまう浅い浅い見識だとこうなってしまうのだと思います。
子育てストレスから子どもに手を上げてしまうのならそのストレスはどこから来ているのか。親はそのストレスを誰かに打ち明けられているのか。
当然にそれが《しつけ》だと思って手を出しているのなら、その《しつけ》の認識はどこから来ているのか。
人格的な異常さえ感じる《支配欲》から手を上げているのなら、その《支配欲》はどこから来ているのか。
その親自身がそう育てられてきているかもしれない。だとしたらその連鎖はなぜ止められないのか。
育ちではなくその親の成育歴に何か大きなトラブルはなかったか。それが認知の歪みを引き起こしてはいないか。
要因は一つ一つ異なりますが共通した言葉で語るのならば、そこには現在であれ過去であれ《親自身の生きづらさ》があり《孤立》があります。
精神や発達や知的な問題。そして自己責任社会。。。。。
当然私たちがアプローチすべきはそこであって、更に言えば虐待や貧困、虐めなどの多い現実は《生きづらさ》《孤立》自体が生まれない社会づくりが求めているのではないだろうか。もう一段階言わせていただければ、
『苦しいとき、困ったときに助けを求めやすい社会』
その結果としての
『支え合いの社会』づくり。
超高齢社会で障害者やマイノリティと言われる人が益々増え、少数派とは呼べなくなる時代が来るかもしれません。
そんな社会ですべての人が人として尊厳をもって生きていくためにこれは綺麗ごとじゃなく必然に目指すべく方向だと思います。
しかしこの自民党の議論はそうした大人社会としての責任を放棄し、自己責任社会から変わろうとせず、蓋をして食い止めようという何とも愚かしいものです。蓋で閉じ込めればまた別の出口を作り破裂するのだから。
もうこれ以上、社会に失望したくない。