323. 信条は個人の自由だが、同性の結婚を認めて、公的支援を施すことには抵抗感がある。
埼玉県では令和2年に県民に対して「性的マイノリティ」についてアンケート調査を実施したとのこと。その結果が埼玉県のHPで見られます。
「アライ」や「アウティング」などの言葉は「聞いたことがないし意味も分からない」という回答が多いことがわかります。
この調査で面白いと思ったのは自由記述の部分があって、そこに埼玉県の方の様々な意見が書いてあるところです。
今回は「質問」ではありませんが、その自由記述の中から1つ取り上げてみました。
まず、「信条は個人の自由」とされている部分が気になります。
性的指向(誰を性愛の対象とするのか)や性自認(自分が男性であるのか、女性であるのか、どちらでもあるのか、どちらでもないのかなどの感じ方)は「信条」ではありません。
レズビアンやゲイは「同性が好きだ」と「信じて守っている」わけではありませんし、トランスジェンダーも自分の心の性を「信じて守っている」のではありません。性的指向や性自認はなのかの宗教の「教義」でもありません。
後半部分も気になります。この方は「同性婚を認めて公的支援を施すことに抵抗がある」とおっしゃっています。
もしかしたら、これを読んでいらっしゃる方の中にも「同性婚」なんて「特別な権利」を与えるなんてとんでもないと考えていらっしゃる方がいるかもしれませんね。
「婚姻」が「特別な権利」であるならば、今その「特別な権利」を使うことが許されているのは異性愛者だけです。
なぜでしょうか。
なぜ異性愛者だけが「特権」を認められていて、同性愛者にはその権利がないのでしょうか?
(家族の在り方とか子どもを作って国力が云々という話は置いておきます)
もっとわかりやすい例えにしましょう。
ある幼稚園ににブランコがあります。A, B, C, Dという4人の子どもがいます。ブランコに乗って遊ぶことができるのはAとBの2人だけ。
CとDは「私たち(僕たち)もブランコで遊びたい」と思っていますが、この幼稚園のルールで「ブランコに乗れるのはAとBだけ」と決まっているのです。
子どもたちの違いは次のとおりです:
【AとB】=異性愛者
【CとD】=同性愛者
自分で変えようと思っても変えられない「個性」。その個性の矢印が異性に向いているか同性に向いているかの違いです。
それでブランコに乗れるかどうかが決まっているのです。
今回とりあげた埼玉の方の意見では、CとDという2人がブランコで遊べるようになるのはどうかと思うとのことです。
私は4人ともブランコで遊べるようになったほうがいいと思います。
笑顔が2倍、幸せも2倍になります。笑い声も2倍になるでしょう。
「そんな単純な話じゃないぞ!」とおっしゃる方がいるかもしれません。
さぁ、みなさんはどうお考えになりますか?
参考資料
埼玉県 第155回簡易アンケート自由意見
画像:UnsplashのNational Cancer Instituteが撮影した写真