八田與一のダムを訪問して
11月末「日台友好歴史探訪」ツアーに参加し、数十年ぶりに台湾を訪れた。前回は台湾の大学教育についての打ち合わせのために訪れたが、印象に残っているのは、空港から市街地に向か途中で喉が痛かったことで、多分、ガソリンの純度があまり良くないため、車の排ガスに含まれる亜硫酸ガス(SO2)のせいだったのだろう。今回、そんな気配は微塵もなく、東京と同じくきれいな空だった。
烏山頭ダム・嘉南大圳
今回のツアーで技術者として興味があったのは、台湾でもっとも愛される日本人として知られる八田與一のダム、烏山頭ダムだった。このダムは、貯水量1億5000万トン(黒部ダムの75%)で、当時世界最新のセミ・ハイドロ-リック工法を日本で初めて採用していた。この工法は粘土・砂・礫を使用し、コンクリートをほとんど使用しない工法である。
嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っているが、灌漑設備が不十分であったため、15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。不毛の地である嘉南平野に灌漑施設を建設し、一大穀倉地帯に変えるという壮大な計画の下、大工事は進んだ。
八田は、1981年(大正7年)台湾南部の嘉南平野の調査を行った。八田は官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出、さらに精査したうえで国会に提出され、この計画が認められた。
事業は受益者がのちの嘉南大圳組合を結成して施行、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年から1930年まで、完成に至るまで工事を指揮した。
そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1,000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭として完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000 kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体は嘉南大圳と呼ばれている。ダム建設に際して作業員の福利厚生を充実させるため宿舎・学校・病院なども建設した。2011年八田技師没後69年の命日に、工事関係者や家族のための住居区を復元した記念園区(八田與一八田記念公園)が新たに公開された。
2000年代以降も、烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、その大きな役割を曽文渓ダムに譲っている。八田が採用したセミ・ハイドロ-リック工法は、ダム内に土砂が溜まりにくくなっており、近年これと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、しっかりと稼動している。烏山頭ダムは公園として整備され、八田の銅像と墓が公園の中にある。また、八田を顕彰する記念館も併設されている。
殉職
1941年、フィリピンの南方開発に赴くために乗り込んだ大洋丸が米軍の魚雷攻撃によって撃沈、八田も56歳で殉職することになった。八田の遺体は対馬海流に乗って山口県萩市沖に漂着し、萩の漁師によって引き揚げられたと伝えられている。
その後、1945年の終戦で日本人の引き揚げが始まるも、女手一つで8人の子供を育て上げた妻 外代樹は台湾にとどまり、夫の作ったダムの着工記念日である 9月1日に、八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。八田與一の銅像の後ろには、2人墓が置かれている。