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形式美の限界

後輩の訃報がLINEグループに流れてきた。
突然の知らせという表現は当たり前すぎてツッコミようがないけど、前振りとか、予兆とか、そんなものはなかった。

彼のことを散歩しながら思い返す。いろいろあったなぁ。
昭和な先輩たちの理不尽な振る舞いにマジギレして、それに巻き込まれることが多かったけど、それをネタに酒を一緒に飲むことはもうできない。寂しい限り。

週末にお通夜があると聞いたけども、出張が重なってるので参列はあきらめた。遠い空から冥福を祈ることにしよう。

後輩との懐かしい思い出と同時に、会社員時代の慣習を思い出した。

それは香典を包むというもの。
お通夜や葬儀に参列する際に、香典を包むことではなくて。
参列はしないけど、香典を参列者に託して、それも連名で届けてもらうというものです。

これって気持ちが置き去りにされてるなぁと思う。当時は気にしなかったというか、むしろ、そちらの方が良いことくらいに思ってた節はあるけど。

忙しいから行けないけど、気持ちは包んで届けますねって。アリバイみたいなもので、よろしくない。

超適当な推量だけど、高度経済成長を経てバブルを経験し、働くことがすべてに優先することが美しかった時代の名残じゃないかな。
みんな忙しく、家庭さえ振り返ることがなかった。そうして、冠婚葬祭についてもどんどん合理化が進んだのだと思う。

新規オープンなどに行儀良く連なる胡蝶蘭。
結婚式に届けられる、例文から選ばれたお祝いの言葉。

作法が先行してしまった結果、形だけの味気のないものに成り下がってしまったものは多いと思う。

環境問題でもグリーンウォッシュとか見透かされるし、国家の策略さえ隠し通せない世の中で、表面的な作法はますます意味をなさなくなると思う。だって裏側がみんな見えてしまうから。

そうはいっても、出張を止めてまで参列しようとは思ってないです。香典も包まないし。

ただ、今日のところは作法など忘れて、故人と過ごした時間を肴に晩酌でもしようと思います。

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