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表現活動と環世界

大衆的観点から見たら非表現者である僕にとって、なぜ表現者は表現をしているのか、というピュアな興味がある。

そこには僕には想像のできない深い複雑な理由があったり、ものすごいシンプルな理由があったりする。

表現するとは

そもそも”表現する”とはどいうことなのか?

もし僕なりの解釈で定義をするのであれば、それは
”個々人あるいは集団が持っている環世界を創作・芸術活動を通じて伝えること”  

これはあくまでも僕なりの解釈であり、それぞれの解釈があっていいと思っているので、これの良し悪しは問うつもりはない。

環世界とは

上に出てきた”環世界”とは何か、Wikipedia にこう書いてある

環世界(かんせかい、Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。環境世界とも訳される。
すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。

まあよくわからないので、”環境”という言葉と比較するとわかりやすいかもしれない。

客観的なものとしての環境がある。三宅島、ハワイなどいった環境があり、それは客観的に存在していて、そこにある色々なものを測ったりできるわけだ。しかし実際に大事なのは、その環境にいる生物が、その中で自分のことと関係のある、意味のあるものとしてその中のものを選び出して自分の世界を作っていることにあり、それが環世界で、これこそが非常に大事であるという話。

自分の主観を大切にする、そして主観だけに寄り添わない

僕が”環世界”という言葉で、表現を定義しているのには明確な理由があって、それは、表現者が持つその主観(環世界)が表現において ものすごく大切である    主観だけを持つことの危険性を示唆してくれているから。

なんか難しいよくわからない話で、まとめ方もよくわからないことになっちったけど、ようは 人間社会で自分と他者を大切にしようねっていう当たり前のことがやっぱり大事だよね、という当たり前の話をどうしても書きたかったのです。

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