シルクロード紀行(新疆・天山・敦煌・黄河・西蔵・西安・洛陽)
多賀城市にある東北歴史博物館で開催中の世界遺産大シルクロード展を見学してきました。シルクロードから発掘され、中国の27の博物館、研究所が所蔵する一級文物を一同にみれた素晴らしい内容でした。シルクロードを肌で感じれるまたとない機会であり、2019年に天皇御即位特別展で東京で正倉院展を見学して以来の感動がありました。
私は1999年から3年間中国武漢に赴任し、仕事でシルクロード沿いの街に触れられたこと、さらに現地の博物館で観た文物もあり当時を思い出し感慨深い見学となりました。
中国赴任当時にシルクロードに触れた感想を紀行文にし記録しておりましたので、今回の大シルクロード展の見学を機会にここに掲載しました。二十数年前は中国はまだ発展途上であり、シルクロードは秘境でよい時代に訪れたことに感謝し以下に寄稿します。
尚、当時撮影し整理した関連写真を末尾に添付しました。
民族の交差点
初めて新彊ウルムチの中国電信を訪問した際、会議室のテーブルに大皿いっぱいにハミ瓜や西瓜、葡萄が盛り付けられ歓迎されたことを今でも忘れられない。この土地は果物が豊富で大切な人を果物でもてなすというのである。私はここの人々の心遣いに感激した。プロジェクト打ち上げで現地のウイグル人や漢族と一緒に洒落た酒屋に連れて行ってもらった。客の大半は回族で彫りが深く、あごヒゲをはやし、なんともエキゾチックである。ビールの摘みにシシカバブを食べながら、民族楽器に合わせて朝方まで自由奔放にサンバのような踊りを踊る。私達も仲間に入って踊る。我を忘れて時間が流れる。なんと幸せな世界があるのだろうか。やはりここは民族の交差点、多民族を自由に受け入れる雰囲気があるのだろう。
トルファン近郊の道端でハミ瓜を買って食べた。ブルーの目をしたかわいい女の子が手伝っている。その露店商の畑で葡萄狩りをさせてもらった。家の土塀の裏手には小さな葡萄畑があり、緑の真珠といわれる白葡萄を摘み取ることができた。私は新彊を訪問する度に必ず干し葡萄を土産に買ってくる。そしてあの異国情緒豊かな新彊の風景や人々を思い浮かべながら、酒のつまみにこの干し葡萄をつまむのが楽しみである。
天山越え
私は1999年の7月から2002年の7月までの3年間を中国武漢に赴任した。この間、天山北路と南路に総延長6,200kmを結ぶ光通信機器の設置を行うビッグプロジェクトに携わり光ファイバーケーブルの敷設ルートに沿っての視察旅行を行う機会を得た。ウルムチから天山北路のイーニン経由で反時計回りし、途中から天山山脈を横断しクチャに入り天山南路を通ってウルムチに戻るという1,700km程度を3泊4日で走破するラリー並の日程である。新彊ウルムチの空港に降り立ったのは2001年7月4日の夜11時半である。こんな時間に滑走路のはるか地平線に沈む真っ赤な太陽を見ることができ、西に来た実感がひしひしと沸いて来た。日本人は私1人、運転手は現地の回族、他3名が通訳を含め漢民族である。羊や馬、ヤクの大放牧地帯である天山南路を1日中四駆で走り続け、翌朝天山山脈の谷間に沿って天山南路側のクチャに向かった。谷間とはいえ峠越えである。草原には白や黄色の高山植物が咲き乱れ、これらの花を利用した養蜂が盛んなのであろうか、道端の所々で蜂蜜が売られている。峠に近づくにつれ霧が立ち込め、何とみぞれに変わってしまった。このみぞれの山岳路を黒装束で顔を隠した女性が2人歩いている。天候急変で家路 に急いでいるのであろうが、往来する車や馬車さえない山岳路のいったいどこに帰る家があるのであろうか。
さらに登って行くと雪をかぶったパオが2棟出てきた。寒々とした光景ながら、パオの煙突から立ちこめる煙が人の温もりを感じさせる。雪で真っ白になった草の斜面には羊とヤクが多数放牧されており、まだら模様に見えて面白い。
峠は短いトンネルになっており、トンネルの付け根には番人小屋なのか、一軒の石造りの家とパオが隣り合って建っている。防寒着に身を包んだ峠番のような1人の男が道端の雪をかいでいる。トンネルを抜けるとまばゆいばかりの日差しが射し込めた。天山南路へと続く南斜面の明るい山岳路である。急勾配を下り、雪ともあっという間に別れを告げた。天山を抜けると天山南路の紅山という岩盤地帯に入った。トルファンの火焔山にも似た様相である。真っ青な空に茶褐色の山群とのコントラストが凄い。1日にして40℃以上の温度差を体験したことになろう。厳しい自然環境ながら、真夏でも枯れない天山の豊富な雪解け水や緑豊かな大自然が下界の町を潤し、トルファンのようなオアシスができたのが十分に理解できる天山の峠越えであった。そして今では、天山北路と南路に沿って光ファイバーが走り、人々がこの道を通って何年もかけて情報を異国に運んだのが、瞬時にして届く世の中にまでなったことに複雑な思いを感じぜざるを得ない。
敦煌鳴沙山
街が突然砂丘に変わる。砂丘とはいえ、その先は砂漠である。
ホテルが多く点在する街の中心部から4km程度で、ラクダに乗って月の砂漠の旅情を味わえるというのであるから不思議な地形である。
鳴沙山の入り口に着くと、何十頭というラクダが待ち受けている。
こんなにラクダがいたら、その糞だけで砂丘が汚染されてしまうと思うのであるがきれいに清掃されている。観光地としてしっかり環境管理しているのであろう。
砂丘の輪形が美しく目に入る。カレンダーなどで見たことのある、あこがれの稜線が飛び込んでくる。40元でラクダ一頭を雇い稜線に沿って登るのだ。
ラクダへの乗り降り時はラクダはしゃがんでくれる。こぶとこぶの間に跨ぐし、手掴みも設けられており、馬に乗るような不安定さは全くない。ラクダは立ち上がる時に後ろ足から立つので、一瞬前かがみになる。あとは安定歩行であるが、上下振動が結構伝わってくるので尻が徐々に痛くなってくる。乗馬と同じように吸収のコツをつかんでしまえばまさに快適な砂漠のタクシーとなろう。
1グループ5~10頭程度の列になって、砂丘を登って行く。ちょっとした探検隊のような気分になれる。でもこれが延々と続く灼熱の砂漠横断であったら、こんな優雅な思いにはなれないであろう。観光だからこそ夢も見れるのである。中腹で一服、来た道を振り返ると他のラクダ隊がきれいに一列になって登ってくる。数隊が見え、砂丘と調和した光景がすばらしい。 さらに下方には敦煌の街が見える。こうして見ると敦煌も砂漠のオアシスということなのだろうか。
このアラビアンナイトのような世界が、中国の田舎町と隣接している不思議さに改めて驚かされた。砂をすべると音がするというので、砂丘に登ってダンボールを使って砂ソリをしている人がいる。でも人は砂丘に飲み込まれ小さな点にしか見えない。
月牙泉に着いた。途中多数の観光ラクダ隊とすれ違うが、なんと観光客の多いことか。日本人は当然として、欧米からも多くの人々が入っている。
砂山に登り、日が暮れるまで砂に腰掛け思いにふける。下方には月牙泉が見えている。なぜ砂丘に池があるのか。砂漠の入り口であるから泉があってもそう驚くことはないと思うが、3000年以上もの間ほとんど枯れたことがないというのにはやはり神秘を感じる。太陽が沈むのは砂丘が邪魔し見れなかった。いつの間にか砂丘の上には半月が出ている。砂漠の月夜は明るいものではあるが、帰路うっすらと暗くなった状況で多数のラクダから自分の雇ったラクダを探すのは大変であった。
敦煌莫高窟
莫高窟へは街の中心から南東へ約20km、土漠の中にたたずんでいる。 個人が自由に各洞窟に入ることはできない。現地ガイドに着いて回るのであるが、駆け足での見学、さらに都度洞窟の扉を明けての薄明かりと懐中電灯で照らしての仏像の見学である。その色彩や彫刻のすばらしさにはだれもが驚かされることだろう。この地で修行した僧達の気の遠くなるような歴史を感じる。紀元366年から 1000年にも渡って掘り続けられたという。ここの仏教美術をしっかり心に留めたければ数日間の見学は必要だ。駆け足の見学では見たという実績だけで、何が何だかわからない。写真撮影は禁止であるから、現地で購入した説明書を後から読んでその芸術の凄さを勉強するのが精一杯である。人の多さにも驚かされる。各洞窟を扉で閉め、無用な紫外線を避けたり、勝手に人に入られないようにしてこれらの遺産を保護はしているものの、この観光客の多さを見るとどこまで守れるのか不安だ。 敦煌の土産店では飛天の絵が随所で見れる。敦煌莫高窟492の洞窟のうち、270余の洞窟に飛天があり、合計4500にもなるという。供養菩薩とされ、香華を振り撒き、音楽を奏で舞踏をする浄土の天女とされている。 敦煌は秘境の面影は消えてしまっているが、人々を寄せ付けるに十分なすばらしい町である。 仏教美術の宝庫として、さらにはこのような砂丘を味わえる立地条件を活かし観光開発が成功した昔の秘境といえよう。
ウルムチ~トルファン車窓
ウルムチからきれいに整備され
片側2車線の高速道路を南東に向かう。車も少なく、広大な景色を独り占めできる。左手方向には平原が広がり、遥かかなたには雪を抱いた天山の主峰ゴボダ峰の勇姿が印象的だ。右手方向には丘が点在するが草がほとんど生えていない。突然前方に巨大な白い風車群が現れた。凄い数が高速道路に沿って整然と並んでいる。日本の所々でも見かけたことがあるデンマーク製の3枚羽をもった風車だ。
この地帯は海抜零メートル地帯で、天山から吹き降ろす風の通り道になっているという。煙突効果を利用した風力発電なのである。この環境にやさしい近代的な風車がシルクロードに設置され、見事に周りの景色に調和している。西安の兵馬庸を見た時も度肝を抜いたが、ここのスケールも圧巻だ。アイデイン湖が見えてきた。海抜はマイナス154mである。死海に次いで世界で二番目の低地である。枯渇しているということもあって、車窓からは水面は見えず湖の形が何とかわかる程度だ。白っぽいものが目立つが塩らしい。採塩がされているようだ。こんな大陸の真中でも大昔はここは海だったということだう。日本では湖は淡水が普通だが、この地方では淡水湖のほうが珍しいという。
右車窓はやがて土漠の平地に変わった。そこにまっすぐに走る列車が見える。かなりの長さだ。ディーゼル機関車に引かれた貨物列車だ。いったい西のどこまで続く線路なのだろうか。カシュガルを越えヨーロッパや中近東までにも伸びているのだろうか。
トルファン葡萄溝
トルファンの葡萄は世界的に有名である。白葡萄は中国の緑の真珠といわれている。櫻蘭のワインは世界の品評会で銅賞を受賞した実績がある。
園内にはカレーズが走り天山の豊かな雪解け水が届けられている。先人達の知恵による一大事業がこの地方を果物の産地にし、砂漠のオアシスを造り上げたという証を見ることができる。
明るく開放的な園内では、頭上の葡萄をつまみ食いしながら、ウイグル族の踊りを見たり、異国情緒豊かな土産物を探すのが楽しい。
野外食堂の木陰で食べる新鮮な葡萄とハミ瓜はまた格別である。昼食に焼うどんに羊肉を絡ませた拉麺を食べる。日本人好みの味だ。屋根だけのついた座敷を見ると、ゆりかごのような形をしたベッドで民族色豊かな衣を羽織った赤ちゃんが気持ちよさそうに昼寝をしている。ウイグル族の子であろう。土産に幾種類かの干し葡萄が売られている。干し葡萄は、ここの乾燥した土地と天山の風を利用するため、風穴造りのレンガ倉庫の中に吊るして作られる。私はしばらくトルファンの思い出に浸るために2種類の干し葡萄を土産に買った。
火焔山とベゼクリク千仏洞
赤褐色の火の炎のような岩肌の山並みが幅9km、長さ100kmで続くという。
西遊記で有名な玄装法師がインドへ行く途中に灼熱のこの地を渡れず、孫悟空が芭蕉扇でやっと火を鎮めたとう所だ。夏には連日40℃を越す灼熱地獄の地だ。そして冬にはマイナス20度以下になるというから恐ろしい温度差である。いつの間にか西遊記の像が造られている。前回来た時はなかったように思う。
ベゼクリク千仏洞に隣接した赤富士のような小高い丘にラクダを雇って登った。土地の中学生位の少年が手綱を引く。土漠で草も木も全くない。
300m位登り、踊り場のようになっている。通訳と私、それに2頭のラクダと2人の少年。あとはだれもいないし赤い岩肌以外にはなにも見えない。片側は崖っぷちだ。ラクダが暴れようもしたら大変だが、いたっておとなしい。敦煌では砂丘をラクダに乗って歩いたがここは火焔山だ。ここでラクダ遊覧ができるとは思ってもみなかった。観光化が進んで来たともいえるだろうが、まだ静かなうちに一瞬にせよ玄装法師の気分になれたことは幸せだ。記念写真を撮る。ラクダ引きの少年が私の胸のペンに興味を示し、貸してくれという素振りをするので渡した。来た道を下ってラクダ代を払ったが、さて貸したはずのペンが戻ってこない。トラブっているうちに少年の父親らしい人が来て、通訳がペンを返してほしいことを説明した。少年はしかられ、ペンは取り返され無事手元に戻った。何か少年には気の毒なことをした。普通のボールペン程度であれば笑って寄付もできたのだが、このペンは長く愛用し、いつも肌身離さない想い出の多い貴重なものであった。中国の都会部の子供であれば、ペンは何本も持っているであろうが、ここでは貴重で字の練習に子供達がほしがるに違いない。中国の田舎を旅行する際はプレゼントができるような安価なボールペンを数本持ち歩くことをお勧めする。
ラクダ遊覧後、道路を隔てたベゼクリク千仏洞に向かう。
階段を下ると眼下に谷川が目に飛び込んできた。 真っ直ぐに伸びた木が川に沿って生え、その流れは黄褐色の断崖に吸収されて行く。この谷川の断崖に77の石窟がある。ウイグル国王家の石窟寺院である。6~14世紀にかけて掘られたものだ。仏教美術の宝庫としてすばらしい壁画や仏像があったというが、イスラム教徒の侵攻や外国探検隊の侵略によって、壁画までが剥がされ海外に持ち出されたという。残念ながら洞窟の中には昔の姿はない。天井や壁の所々に残る色彩豊かな仏教壁画の断片によって最盛期のすばらしさを思い浮かべるのが精一杯である。
当時の洞窟内部の状況を分析再生したCD ROMを洞窟入口で安価に購入できた。その再現壁画はすばらしいものである。NHKで放映の新シルクロードでは、海外に持ち出された壁画を最新のデジタル技術を使って合成し再現を行っていた。多民族が描かれ、まさに民族の交差点であったことを証明する内容であった。
この千仏洞は寺院跡であり、多くの僧が修行をしていたという。谷川が流れ、それに沿って修行僧が住み、中層階、上層階に洞窟が掘られ、その中に東西を結ぶすばらしい仏教芸術が花咲いたといえよう。
このような世界遺産が簡単に破壊されたり、略奪されたとは何とかなしいことであろう。長い歴史の証明が消え空しさが残るベゼクリク千仏洞であった。
交河故城
交河故城はヤルナイゼ川によって削りとられた30mほどの断崖構造をした中州を利用した自然の要塞である。長さ1650m、最大幅300mの木の葉形をした台地に土で造られた古代都市といえよう。民家は地下式になっており、灼熱の地にあって熱波を避ける構造になっている。長い風化で当時の街の姿は部分的にしか残ってはいないが城門や役所、集会所、寺院跡等興味をそそる。当時からの井戸もあり、小さな井戸穴からは今も水面が覗け、古代人になった気分を味わった。
私は木の葉形の街の長手方向に走る中道に沿って駆け足で見学しただけなので、全体像を把握できなかったが、当時の街区が明確であり、ゆっくり散策できたらさぞ楽しいことであろう。
この街は前漢から後漢にかけ、トルファンの政治の中心として賑わっていたという。崖っぷちに行って眼下を見下ろせばヤルナイゼ川が走り、この地が川に挟まれた台形の丘に建っていることがよくわかる。はるか遠くには針葉樹群やイスラム寺院の塔が見え絶景である。緑多い地域は葡萄溝付近であろうか。
アスターナ古墳群
アスターナ古墳群は殺風景な土漠である。入口の小店で入場券を買って、適当な地下のお墓に入って見学する。階段を下るとミイラが簡単なガラスケースをかけられ収まっている。女性であろうか。髪などはしっかりしているが、皮膚はやはり干上がっている。案内人がいないので死後年代がわからなかったが、年間降水量が16mm以下と超乾燥地帯ならではできるミイラ観光である。 数百元の寄付をすれば、お墓を発掘し、その墓の入口に寄付者の氏名名板を付けてくれるという。考古学的には墓の掘り起こしには意味があるのかも知れないが、私には死者を掘り出してまで後世に自分の名を残すなんて、無気味でとてもできない。ミイラを見たければ、4,000年前の貴婦人が眠るトルファンの博物館に行ったほうがよいようだ。
黄河から 丙霊寺石窟へ
蘭州から南西へ約100km、落ちたら命は助からないと思うような崖ぷちをランクルで突っ走る。黄河の上流に向かっている。劉家狭の船着場に着いた。オフシーズンで遊覧船はもう出ていない。同行の中国電信の友人が現地の船主と交渉し、モーターボートをチャーターしてくれた。船頭を入れ4人で丙霊寺石窟へと黄河を上流へ向かう。高速艇で約1時間の船旅である。
船着場はダム湖の湾になっているため黄河の流れも感じなかったが、ボートが上流に登って行くに連れ、恐ろしいほど川がどんどん大きくなって行く。両岸には黄色の裸の丘が続くだけであるが、川の広さと合致してその風景は真に雄大である。
岸辺の所々に緑の木の群落があり、黄色い山肌と調和している。
日本ではこのような景色には出会えないことであろう。
水は乳白色にも近い褐色で濁流ではあるが、大きなうねりがないのと、雄大な景色を見ていると小船であるにも関わらず、怖さを感じないのが不思議である。
突如、水面の色が真っ二つに分かれた。褐色水と透明な澄んだ水とが分水している。黄河と兆河、青河が合流する地点だという。他の2つの河はここまでは清流ということなのだろうか。河がたどる道筋で水質は全く違うということだろうか。
海のような広さの中で、突如水の色が分かれるのであるから感動的である。
岸辺に山羊の群れが見える。放牧なのか野生なのかはわからないが、水を飲みに来たようである。なだらかな山群はいつの間にか垂直に切り立った崖に変わり、川幅も狭くなっている。これまた絶景である。岩ではなく土崖である。今でも風化にさらされ姿を変えているのだろうか。
突然にボートにショックがあり停止した。浅瀬に乗り上げた。川底には岩や石もなく大事はないようである。渇水期に入り所々浅瀬になっているのであろうか。ボートは水流に任せ少し流されてから無事発進した。黄河で立ち往生して命を落とさないのも、これまた我ながら不思議に思えた。
船着場に着岸。丙霊寺石窟への細いあぜ道を歩く。数件の民家が見える。2人のおばさんが付きまとう。きれいな石ころを買ってくれという。石に特に興味もないので「不要、不要」と言って追い払おうとしても1人がうるさく着いて来た。 通訳が言うには、孫を学校にやれないから買ってくれと言っているという。甘粛省は中国で最も貧困な地区である。気の毒になったので、2元を渡し石は要らないと言った。おばさんはお礼を何回もいい、石をよこす。断っても付いて来てよこそうとする。かえって失礼かなと思い石を受け取った。おばさんは満足そうな顔でお礼を言って私から離れた。
甘粛省の貧困さの現実をあとからひしひしと感じることになる出来事であった。
中国では義務教育でもお金がかかる。金がなければ小学校にも入学できないという。孫の学費をおばあさんが必死に稼いでいるという厳しさがある。ここには上海のような発展とは無縁な世界がある。
丙霊寺石窟は4世紀から19世紀まで彫り続けられたという。断崖に183の石窟があり694の石仏がある。オフシーズンでもあり石窟の大半を覗くことはできなかったが、27mの高さをもつ第71石窟の巨大大仏は静かにしっかり見ることができた。上半身が石、下半身は泥で作られているとのことである。自然の中で風化がかなり進んでいるようであるが、柔和なりっぱな大仏である。その背後にかけられた何層にも連なった梯子が印象的である。梯子は大仏の頭の上の断崖まで続いている。石窟を結ぶ梯子なのであろう。この静かな石窟群の中を覗けたらさぞすばらしいことだったろう。帰路ボートは屋形船のような変わった形をした小船とすれ違ったが、私は黄河の中でのこの光景の美しさを忘れられず、今でもよく思い出す。
今度は黄河の真中でボートのガソリンが切れて立ち往生した。
船頭は無線でどこかと連絡をしている。まもなく仲間の船が来て給油、無事事無きを得て発進した。いかにも中国らしい出来事である。
黄河の如きおおらかな、そして変化に富んだすばらしい1日であった。
西蔵・避けて通れない高山病
ラサ空港では午前中の離着陸を中心にタイムスケジュールが組まれているようだ。
富士山頂に降り立つようなものであるから、気流の安定している朝に集中的にフライト時間が設定されているという。
チベットでは高山病がつき物だ。酸欠による頭痛、吐き気である。酸欠は空気の薄いところで徐々に体内に影響するものであるから、普通はラサに入ってから6時間後位から 症状が出始める。到着時にはしゃぎ過ぎると酸素供給不足が早く現れるので、静かにして徐々に体を馴染ませて行くことが防止対策のポイントだ。 熟したバナナの成分が高山病を防ぐことができるというので、バナナチップを3袋持参した。スーツケースから取り出してびっくりした。何と袋がフーセンのようにパンパンに膨らんでいる。気圧が低いので低地で密封された袋の空気圧との差でこんな現象が起きたのだ。気圧差が目で確認できて感激だ。
バナナチップを食べたが、夕方にはついに頭痛に悩まされた。現地で高山病に効くというドリンクが売っているので、これも飲んだ。歩くと益々頭痛がひどい。できるだけ静かに行動して体を慣らして行くしかない。でも3日目にはすっかり治った。
私はこんなものであったが、バナナを5房も買いこんでラサ入りした同僚はホテルで2日間も寝込んだままであった。
ホテルには酸素ボンベが備え付けられているので、上手に使用するのがよいが、頼りすぎると体の慣れも遅くなる。高山病は個人差が大きいから注意が必要である。中国の人々はチベットは1度行くのが最高、でも2度と行くところではないとよく言っている。これはチベットの風景への憧れあれど、高山病は2度とは味わいたくないということである。当社の低血圧の女性は非常に体調がよかったとチベットが大のお気に入りである。低気圧環境は低血圧の人には心地よいようである。
4泊5日の滞在を終え、早朝便でラサを発つ。まだ暗いうちにホテルを出発した。間もなく空が赤く染まり黄色に変わって行く。そして車正面の遼前方から度でかい太陽が顔を出した。ヤルン・ツァンボ川の川面が金色に輝く。チベットのすばらしい朝である。
大自然のすばらしい光景と宇宙の生命を感じつつチベットを後にした。
西蔵・歓迎晩餐会
西蔵電信局のお客様から夕食に招待された。
薄手の白絹でできたマフラーのような帯を首にかけて頂き、ラサ訪問の祝福を受けた。この白絹のプレゼントは、この地方の伝統的な歓迎表現なのである。ハワイで行われているレイの習慣に似ている。
食事では、百年に一度しか実がならないという珍しい植物の実、高価な薬草である冬虫夏草を使った料理、それに団子、ラサ川の魚料理等、珍しいものを食べさせて頂いた。味付けは薄く、日本人好みである。冬虫夏草は草の中に幼虫がミイラ化して入った薬草で古来より不老不死の薬として重宝がられてきた。標高3000mを超す地になる高原 薬草である。チベット産が最高級であり、日本ではそうそう手には入らない。滋養強壮に絶大な効果があるという。姿形は大きな蓑虫のようなものだ。四川料理の火鍋などにも入れられることが多い。
面白い話を聞いた。チベットでは今でも一部鳥葬が行われているというが、埋葬方法で最も位の高い人が鳥葬なのだそうだ。死体は切断され大きな石の上に置かれる。そしてどこからともなく大鷹が寄ってきて、死体を食べ天空高く運んで行くという。つまり確実に天国に導くということであろう。
次の高位の人は死体は川に流されると言う。これも魚に食べられ自然回帰するということらしい。
次は土葬である。土に返すのである。最後は火葬、これは悪人とかの埋葬になる。強制的に燃やしてしまい、自然回帰ができないようにするのであろうか。所変われば火葬は悪人の埋葬、こわい話である。
ラサの寺でも毎日鳥葬をやっているので見に行くかと誘われたが、なんだか夜な夜なうなされそうで怖いので、お断りをした。
でも、今私が食べた魚はひょっとして人間を食べて大きくなったのではと思うと、もう二度とこの地で魚は食べまいと思った。
西安
西安の空港から街までは、畑や果樹園が続く田舎道を走る。途中未舗装道路もありのどかな風景だ。この先に日本の文化に多大な影響を及ぼした街があると思うとなんとも不思議だ。途中の小さな町では露天市に向かう人々が行き交っている。
西安は四方を城壁に囲まれ3000年の古都の面影を残している。
城壁は東西3.8km、南北2.8kmで周囲約14kmあるそうだ。
現存するものは600年以上前の明の時代に築かれたもので、高さは12mあり、頂部の幅は15mもある石畳で馬車も走れるほどだ。城門には城楼があり、いっそう風格を際立たせている。唐代の長安城は、この10倍もの広さがあり、平城京や平安京のモデルになったというから当時の繁栄が覗える。 遣隋使、遣唐使として日本から多くの留学生が送られて来た。そして日本に伝わった文化は今も息づき、我々日本人ですらこの地から伝わったものであるということすらわからずに生活に溶け込んでいるものも数多くあることだろう。
西安と交流のあった日本がシルクロードの東の起点とはならず、西安が起点と言われるのは、東洋文化の発信源として世界へ影響を及ぼした文化は西安であると捕らえれば納得が行く。城壁門でいえばシルクロードの起点は西門になる。
今では近代都市に生まれ変わったが、中国の都市としては小ぢんまりとしており、規制があるのか他の都市のような高層ビルがないのはよいことである。
車は北門をくぐり、街中に入り南門を出てホテルに向かう。
高い城壁が圧巻である。デザインは違うが城壁の街としてドイツのローデンブルグを思い出してしまうが、城壁内は近代都市になってしまい期待ほどの街並みは望めなかった。レストランや喫茶店、CDショップなどが建ち並ぶ。
街周辺には、西遊記の玄装三蔵がインドから持ちかえったサンスクリット語の経典の翻訳と保存のために648年に建てられた大雁塔をはじめ、歴史遺産が散らばっている。まさに歴史博物館である。
翌日いよいよお目当ての兵馬傭抗の見学を行う。1974年に農民が井戸掘り中に発見したという。
それにしても、度でかい体育館構造で風雨を避け、その発掘現場に整然と並んでいる兵士や馬の数は何たることか。素焼きでできた等身大の近衛兵6000体が東方を向いて秦の始皇帝稜を守っているという。兵士一人一人の顔や装備品はリアルに装飾され同じ物がない。現在復元され見れている兵馬は3000体程度ほどで今も発掘復元作業が続いている。6000体の復元が完成したらまさに秦王朝にタイムスリップできることになる。
始皇帝が死んでも国力を維持するために兵士達にそっくりな人形を作らせ、副葬抗に埋葬させたという。国力を保つために壮大な計画が実行されたということであろうが、始皇帝の権力の大きさの証がこの兵馬傭抗といえよう。
歴史書にはこの兵馬傭抗のことは全く出てこないという。この造営には70万人もの人夫が携わったといわれるが、これらの人々の口封じはいかように行われたのであろう。人柱になった人も多かったのではないだろうか。
兵馬傭抗は発見前のはるか昔に火災にあっていたので、これらの素焼きの泥人形には色彩色が残っていないのが残念だ。いずれにしろ、この世界遺産は世界一級品である。
碑林博物館も面白い。書家や漢文の好きな人には堪えられないだろう。漢代から清代までの3000余の石碑が保存されているという。唐の9代皇帝である玄宗皇帝自筆の石碑もある。拓本を専門にとっている工房があり、職人が大きな石碑に向かって和紙の上をポンポン叩いている。好きな漢詩の石碑を探し当てることができたら、さぞ楽しいことだろう。本来時間をかけて見学し、有名な漢詩の世界に浸るべきところである。
郊外に玄宗皇帝と楊貴妃のロマンの舞台とされる華清池がある。
白居易の長恨歌でも紹介されている天下の名湯の温泉宮と称していた歴代王朝の離宮である。楊貴妃は玄宗皇帝の息子の妃であったが、あまりの美しさに惚れた玄宗皇帝が自分の妻が亡くなると、息子から奪い取り後宮に迎えたという。
楊貴妃を迎え酒色に溺れた皇帝の政治は腐敗し、国は衰えて行くという小説紛いの実話の舞台である。楊貴妃がゆあみをしたという芙蓉湯は石造りでややひょうたんにも近い楕円形である。残念ながらお湯が入っておらず、枯れた井戸のようにも見える。湯船の大きさに比べると洗い場はかなり大きい。玄宗皇帝と楊貴妃は10月になるとこの地を訪れ春まで過ごしたという。
楊貴妃は絶世の美人として有名であるが、その美貌を保つために遠く南方の朱海などからライチを運ばせていたという話がある。当時のライチの保存も含め贅沢な生活が覗える。でも38歳にしてその命を絶った彼女の人生は波乱万丈、ほんとうに幸せであったのだろうか。
戸外では有料ではあるが、温泉湯が蛇口から汲んで行けるようにサービスされているが、大勢の観光客が行き交う路上で堂々と髪を洗っている人がいたのには驚いた。
中国では人目を気にしないこのような光景をよく見かけることがあり、これも旅の楽しみである。
西安の食べ物では餃子が有名である。ここの餃子は王宮餃子なのか160種以上もあるという。一般観光客が食べるものは餃子会席という感じで10種類程度の餃子料理を順番に食べて行くものだ。最後にスープに入った西太后の真珠という豆粒餃子を飲み込む。西太后が3粒しか食べなかったというので、3粒を食べる慣わしだ。私は餃子は大好きであるが、中国の家庭料理として味わえる水餃子をたらふく頂くのが最高である。やはり餃子は庶民の味がよい。
回族屋台街で柿子餅という饅頭を買い、暖かいうち屋台街を散策しながら食べる。日本の大判焼きを油で焼いたようなもので、とてもおいしかった。
回族の人が新教名物のシシケバブをあの長手の炭焼きコンロで焼いている。
まさしく、ここはシルクロードの起点である。
洛陽・竜門石窟
洛陽は中国の9つの王朝が都を置いた歴史があり見所が多い。
また、牡丹園も有名である。南東に80kmほど行けば少林寺がある。 少林寺の石畳は僧侶達の訓練で窪んでいるというから凄い。街のあちらこちらの店では少林小僧のかわいい人形が売られている。映画少林寺を思い出す。
私は時間がとれなかったので、世界遺産である竜門石窟だけに足を運んだ。
493年から400年間かけて造営されたという。石窟の崖に平行して大きな伊河が流れ、石窟前方が開けた構造になっているので、日差しが崖いっぱいに射し込み非常に明るい。白褐色の岩盤に多くの石仏が彫られている。この竜門山と対岸の香山を合わせ2343の石窟、約10万体の大小の仏像があるという。
ユネスコ世界遺産と刻まれた石窟門入口から数百m入ると高さ17mもの堂々たる座像が目に飛び込んできた。正面の幅の広い石段を登って石仏の真正面に立つ。その大きさに圧倒される。右壁には今にも飛び出してきそうな天王、力士像が躍動的に彫り刻まれている。
色彩は施されていない。洞窟といっても崖に彫ったような構造のため、日当たりは抜群で非常に開放的である。白褐色ということもあり西洋的な彫刻の面持ちさえ感じる。文化財を守るために扉を設け日光を遮断している敦煌漠高窟とは印象がかなり違う。石窟の上部から見る伊河上流方向ののどかな景色もなかなかよい。川面に沿って走ってくる風が気持ちよく、6月の暑さを忘れさせてくれた。
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