"有意義な"時間の使い方とは?①
「有意義に時間を使わなければ。」いつも、そんな考えが頭をよぎる。
何もしていないことに耐えられない。あるいは、何かしていたとしても、時間を無駄遣いすると、罪悪感に駆られる。
「限られた時間を有効に使え」という声が、私を焦らせる。
常に先のことを考えてしまい、今をじっくり味わえない。ぼーっとしようとしても、すぐに色んな考えが頭に浮かぶ。
日々はますます色褪せていき、心はすり減っていくばかり。
どうして、こんなにも時間に追われているのだろうか?そもそも、時間を"うまく使う"とはどういうことなのか?
この問いに答えるため、まずは時間の起源を考えてみる。
紀元前4000年前のエジプトには、すでに日時計があった。古代エジプト人は、棒を地面に突き刺し、その影の動きを時計にしたのだ。
それから水時計、火時計など次々と新しい時計が生み出されていき、数百年前にようやく、現代の機械式時計、クォーツ時計が発明された。
そして大事なのは、これらの時計は農業や航海など、人々の生活に必要不可欠だったということ。時間は私たちを苦しめる一方で、数多くの恩恵を与えてくれる、無くてはならないものなのだ。
少し考えてみるだけでも、時計が無ければ、人との待ち合わせにどれほど苦労するか明らかだろう。
この事からわかるように、時間それ自体は問題ではない。問題は、私たちの時間に対する考え方、もっと言えば、近代以降の人間観にある。
産業革命以降、奴隷の代わりを作るため、人々は機械化を進めた。しかし、その意に反して、人間は「機械の操作者」、そして機械が生み出した物をただ受け身で使い続ける「消費者」になってしまった。つまり、機械が人間の奴隷になるのではなく、機械が人間を奴隷にしたのだ。
機械の奴隷として、工場のシステムに組み込まれていくうちに、人間も自分たちを機械のような存在だと考えるようになった。
機械は「性能」で評価され、より生産的、効率的であることを求められる。「性能」で劣る機械は捨てられてしまう。
だから私たちは、「優秀な機械」であるべく、より生産的、効率的に、時間を使わなければと必死になる。社会もそれを求め、賞賛する。
こういった人間観こそが、私たちを焦らせる元凶なのではないだろうか。そして、この人間観の下で、時間の"うまい使い方"とは、生産的、効率的であることを意味する。より端的に言えば、どれだけ資本を増やせるかということ。
こうした時間の使い方によって、社会が豊かになってきたのは事実だ。しかし、実感している通り、これだけでは私たちは幸せになれない。物質的には豊かになれど、精神的には貧しくなる一方だ。
では、私たちを幸福へと導いてくれる、これに代わる人間観、そして時間の"有効な使い方"とは如何なるものだろうか?
次回は、以上のことを踏まえて、この問いについて考えていく。