“有意義な“時間の使い方とは?②
簡単に前回のおさらいをしておく。
私たちが時間を“有意義に“使うと言うとき、それは大抵、生産的、効率的である事を意味する。言い換えると、短い時間でより多くの資本を生み出す時間の使い方ということだ。
こういった考え方は、私たちを物質的には豊かにすれど、精神的には貧しくさせる。時間を“うまく“使おうと必死になるあまり、焦りが生じたり、一つのことをじっくり味わえなかったりする。
そして、この認識の根底にあるのは、『人間』=『機械』とする人間観だった。機械の性能は、どれだけ早く多くの富を生み出すかで決まる。だから、私たちは優秀な機械であるべく、時間を“有意義に“使おうと躍起になるのだ。
では、これを踏まえて、人生がより豊かになる時間の使い方を考えてみよう。
問題は人間を機械のようにみなす考え方にあった。それによって、人間の価値は数値で測られるようになり、人間らしさが失われていった。いわゆる『人間疎外』というやつだ。
ならば、再び豊かな人生を送るには、この失われた人間らしさを取り戻す他ないだろう。
人間らしさ、もっと言えば、人間と機械を分けるものは一体なんだろうか?
様々な答えが考えられるが、今回はその中から「目的の有無」を取り上げてみたい。
人が生まれてきた事に意味はない。個々人が人生の目的だと感じるような、やりがいのある事はあるかもしれない。だけど、究極的に言えば、人の誕生はただの自然現象で、意味なんてものは存在しないのだ。
一方で、機械は人の役に立つために作られた。機械の中には、結果として役に立たない、あるいは害になるモノもあるかもしれない。けれど、結果の如何にかかわらず、全ての機械は何かを意図して作られた。機械の存在理由は人間の役に立つことであり、それを満たすことが機械の価値だ。
この目的の有無こそは、人間と機械の最も大きな違いだと思う。
『人間」=「機械」と考える時、どれだけ素早く目的を達成できるかが、人間の価値となる。だから、私たちは自分に価値があるのだと証明するため、時間を“有効に“使おうと必死になる。
とすれば、人間らしい行為とは、目的なき行為なのではないだろうか。ただ楽しいから遊ぶ子供のように、何かに役立てるためではなく、行為それ自体のために行動するとき、私たちは最も人間らしく輝いているのだと思う。
生産的、効率的といった言葉は、目的の存在を前提とした言葉だ。だから、行為それ自体のための行為というのは、側から見れば非生産的で、非効率なのかもしれない。時間を“無駄“遣いするなと、周りから非難されることもあるだろう。
だが、気にする必要はない。彼らは変化を恐れているだけだ。今のままでは満たされないのが分かっているなら、勇気を出し、一歩前へと踏み出そう。立ち止まっていては何も変わらない。
隙間がなければ薪は燃えないように、豊かな人生を送るにはゆとりが必要なのだ。だから、“無駄“であることを恐れず、今を思いっきり楽しもう。何かのためではなく、行為それ自体のために。
あなたは機械ではなく、人間なのだから。