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嫌なことと「すれ違う」という考え方

この前、『五十嵐くんと中原くん』という漫画を読んでいて、久しぶりに心躍る概念を手にしたので報告させてほしい。


これまで、主人公の中原にとって、中学生時代の思い出は消し去りたいもの・無かったことにしたい黒歴史として振り返られてきた。


いわゆる「高校デビュー」をした彼は、髪を金髪にして、眼鏡をコンタクトにして、歩き方も、話し方さえ総入れ替えして鎧を纏い、舐められないよう・傷つかないよういつも怯えていた。

中原の過去の記憶は、いつだって「蓋をしたいもの」「思い出すと惨めな気持ちになってしまうもの」として描かれており、今までは思い出すことから逃れていたように思う。

なのに、39話の彼はどうだろう。


そんな思い出を目の前にしても、息が詰まりそうな動悸も、押さえつけられているかのような緊張感もなく、凪のような気持ちで自分の過去(クラスメート)と対峙していた。

いつもは過去の記憶を遡った描写の後に、目を背けたくなるくらい惨めな中原の心情を語るモノローグが続くのに、今回はそうではなく、今関わっている人間の顔が脳内に浮かんできた。


得体のしれない恐怖対象だった元同級生たちを、今自分が関わっている人間たちと対比して滔々と評価していき、心が凪いでいく。

「でも最初は五十嵐の方が怖かったな」
「意味不明さで言えば水守」
「見た目ならカケルさんの方がいかつい」


あんなにバカにされ、惨めな気持ちにさせられた人間たちを前にしているというのに、すごく冷静な中原がいた。


彼の頭の中で、五十嵐が言う。

“わざわざ立ち向かわなくてもいい事だって、たくさんあるじゃない”


過去から逃げ出して、自分の思いから目をそむける。鎧を纏って、傷つかないように丸まって耳を塞ぐ。心を守ることに注力していた彼が、五十嵐の言葉を思い出して、戦うのをやめた。

五十嵐に会いたくなって、「どうも!」と言って中原は駆け出す。過去と、すれ違う。


今までじゃなくて、これからに目を向けて、未来に向かって走っていく。そんな終わり方だった。


……え?すごくない?


嫌な事・嫌な思い出ってたくさんあって、時折思い出してウワーー!!ってなりながら誤魔化してやり過ごしてるけど、逃げるわけでも向き合って解消するわけでもなく、”すれ違う”っていうルートがあることに気付かされて盲点だった。


嫌だったことを再生するのは、本当にうんざりする作業だ。しかも自分の意思とは関係なくやってくるそれは、無防備な心をサンドバッグのように殴られているようでとても苦しい。


できることなら解放されたい。でも、思い出してとことん対峙するのも、逃げてまたいつか同じ気持ちを繰り返すのも怖い。どうしたらいいものか。何か解決策はないのか。


そう思っていた矢先のこの話だったので、本当に救いの神が現れたのかと思った。


この前、親友といやなことを何回も思い出すというのは、「思い出せ」ってことなのではないか。向き合って解決しろ、解放してくれって脳みそが助けを求めてきてるんじゃないか。という話をした。

その時は解決方法が”向き合う”一択という前提で議論したんだが、この話を読んで視界が拓けたので、今度は全く別の会話ができそうだと期待している。


彼女には次会った時にこの件を報告しようと思うんだが、まずどこかにこの喜びを記録しておきたかったので、noteでひとまずシェアしておく。



この漫画はジャンルでいうとBLなんだが、「人間関係って思ってるより簡単で、でもその簡単が何より難しい」っていうことを教えてくれるいい作品なので、人間関係に悩んだことのある全人類におすすめしたい。


生々しい性描写とか出てこないし、ひたすら人と向き合う話なので誰でも拒否感なく読めるはずだ。


時々皮膚の薄いところをスッとナイフで切りつけられるような苦しい場面が出てくるけど、やっぱり人と関わるっていうのは時々「怖い」ものだと思うので…その辺の描写がかなりリアルで響くところがあると思う。


“すれ違う”は逃げじゃない(逃げも悪いことではないが)。
向き合ってもないけど、やり過ごしてもない。


私自身も、いつの日か私の黒歴史や嫌だった思い出に関わった人に出くわした時、なんてことない顔で笑って「どうも」とすれ違えるようになりたい。そう思った日だった。

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