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アイス、アイス、タコライス

 完璧主義者ではあるが、妥協しないと身が持たないことをこれまでの社会生活において重々理解しているので、なんの抵抗もなく何らかの理由を設けて心身にダメージを受けること無く、早々と妥協することにしている。
 僕はもう充分に大人だった。
 口が随分と大蒜《ニンニク》臭い。
 キッチンの匂いを中和するアルミ製ソープで洗ってはみたが気休め程度で、手も大蒜臭い。毛穴という毛穴から汗と一緒に臭気が放出されているようだ。
 あれだ、昼飯につくったタコライスのせいだ。
 大蒜を微塵切りにして挽肉を炒めタコミートを作り、上にかけサルサソースにも熟れた真っ赤なトマトと玉葱を、これまた大蒜の微塵切りをレモン汁とカイエンペッパーとチリパウダーで和えて、炊きたての白飯の上にレタスを敷き湯気の立つ出来たての熱々のタコミートを乗せ、チーズはモッツァレラでもチェイダーでも、ピザ用チーズでも何でもいい、チーズをばらまいて、先ほどのソースを上からかける。これでもかってくらいに。だから言うまでもなく僕自身が今は猛烈に臭いのだ。
 28度設定のゆるくかけられたエアコンの室温の中で扇風機がぬるい風をひたすらに攪拌し、回転音だけが静かな部屋に鳴っている。
 そもそも何年か前に一人で沖縄に旅行をしてタコライスを知ったのが始まり、だった。
 勤続十年近くになる積もり積もった社畜生活の有給休暇を消費すべく少しづつ仕事量を調整して思い立ったが吉日、宿泊先と航空券がセットになった方が安価だったチケットをネットで取って、翌日には空港から仕事疲れの身体を引きずって、寝惚け眼で沖縄へ飛び立った。三時間程のフライトだ。
 窓際から見渡すと曇っていた下界とは格段の差で雲の上は快晴だった。機内のハッチを開けた瞬間から、空港に降り立つとじっとりとしたまとわりつく南国独特の気候の匂いに包まれていた。
 宿泊先のホテルには泊まらずに安いドミトリーと呼ばれるバックパッカー御用達の安宿に泊まろうと思った。見知らぬ土地で、何故そんな破天荒な行動に出たのか今となっては思い出せない。
 これが夏の仕業だと言われれば、そうだったかも知れないと今なら考える。

 レンタカーを借りて上下横断すればいいかとも思ったが、駐屯地近くになると海兵たちの軍用車で渋滞がよく起こることは事前に聞いていたので、麦酒片手に電車やバスやタクシーを乗り継ぎ観光地を回ってから、夜は適当なところで琉球古酒を好きなだけ飲もうと決めていた。
 そして一度食べてみたかった沖縄料理にも挑戦してみたかった。

 旅行雑誌で見たソーキ蕎麦の美味しいと話題の定食屋で彼女とは出会った。評判を聞きつけた観光客と常連の地元客で店の中はごった返している。生半可な空調と客の扉の開閉で暑いのか涼しいのかどっちつかずな定食屋の中、設置された販売機で食券を買おうと並んでいると、近くのテーブルに座っていた彼女が情けない形の眉毛をさせ困った様子で、声をかけてきた。

「味噌汁を頼むともうひとつ味噌汁が出てきて困ってます。もし注文前なら、半分食べてくれませんか? もちろん、お金は要らないですから!」

 丸めた布巾と、薬味瓶と箸立てが無造作に置かれたテーブルの上には分厚く切られたスパムに豆腐と卵、細かく刻まれた何種類もの野菜がどっさりと乗っかった味噌汁が大きな椀に二杯、丼に大盛りの白飯二杯が並べられていた。
「単品で頼んだはずなんですけど」
「凄い量だね」
「元から全部に味噌汁とご飯が付いてくるなんて思わなくて」
「じゃ、お言葉に甘えていただきます」
 セルフサービスの給水機で水を汲み、彼女の向かいに座り、その味噌汁と白飯をほうばった。
 彼女も、存在感の有り余る味噌汁とご飯に格闘を挑んでいる。
「おいしーっ」
「うん、旨い」
 機内でほぼ惰眠を貪っていて腹が減っていた僕は味の染みた味噌汁とご飯を早々に完食させ、ソーキ蕎麦の食券をもう一枚購入することした。
「ここのソーキ蕎麦は食べた?」
「ここのは食べてないです」
「味見に分けたげるよ。大盛り頼んだから」
「わー、嬉しい」
 滞在三日目だと言う。名前は紗南。
 それが本名か偽名かなんて事はどうでも良かった。
 僕は宮田と名乗った。
「僕は来たばっかりなんだけど、もう色々回った?」
「市内観光はほとんど行きましたよ。琉球ガラスと三線《さんしん》の体験も参加したりして。楽しかったです」
「水族館は?」
「あ、まだなんですよね。これから行こうと思ってたとこで」
 別の丼を借りて紗南に蕎麦を分け、熱々の鰹出汁に沈む太麺に紅生姜を絡めては啜った。
 食べ終わると、僕らはゆいレールに乗って水族館へ向かうことにした。

 お土産物屋が並び観光客で賑わう大通りを抜け、駅から乗り換えて目指した水族館の、公園の入り口でミストシャワーに騒ぐ子供達に混ざり、彼女は胸元をパタパタとさせ、水蒸気と戯れ、無邪気に笑っていた。
 おおかた失恋の痛手を癒すための傷心旅行だろうと思った。指にはリングもなく髪の毛はさっぱりと短く揃えられていた。小さな鞄ひとつ、沖縄の空に似合う青空と同じ色のデニムのショートパンツとTシャツ、日焼けした健康的な首元から覗く小さな石の付いたネックレス、それに安くさい薄っぺらなビーチサンダル。ブーゲンビリアを模した造花が鼻緒の中央に付いてたから、これは現地で調達したっぽい。メイクも簡単に眉毛と紅を引いただけの飾りっけのない彼女は何よりも男の気配がしなかった。

 汗ばむような混雑した中、大きなマンタが空を飛ぶように水槽を横切るとき、彼女の湿り気を含んだ手は僕を拒みはしなかった。
 手を繋いだまま、そのまま暗がりでキスをした。
 水族館内でも紗南は鮫の歯型標本をくぐったり、無料で貰える魚の図鑑を集めたりしながら、始終笑顔だった。水族館を出た頃にはすっかり陽も傾いていた。
 夕焼けが落ちる海を見に行かないか、と彼女が提案したので一旦戻りバスを利用して那覇市内のビーチに行くことにし、途中寄り道をしながら海を目指してぶらぶらと歩いた。

「全種類、網羅したかったな~。明日までには無理だわ」
「お腹壊すよ。本土からでも取り寄せできるでしょ」
「そうだけど、そうじゃないもの」
「んー、じゃ、今日のお礼にアイスをご馳走する。紗南が食べられるだけ、自己申告で」
 家族連れやカップルでごった返すアイスクリームショップの陳列棚に並べられた色とりどりのアイスクリームを見つめ紗南は優柔不断に何度もガラスケースの前を移動した。
「私、ウベと紅芋にする!」
「宮田さんは?」
「なんでもいいかな」
「なら、ブルーウェーブと琉球ミルクティーにしてください! そして一口分けてください!」
「わかった」
「私と一緒にいる時は、なんでもいいって、言うのやめてください。悲しすぎます」

 夕刻が迫って風が吹き、緩やかな陽射しになってきたとはいえ外はまだ冷めやらぬ気温で、アイスはカップの底で混じって溶けた。
 
 ついさっき、アイスをぺろりと平らげた紗南は停泊所兼、待合所に置いてあったお土産購入に繋げるサービス用のタッパーに入った黒糖を摘みあげて口に含んだ。
「甘い。黒糖好きになったんです、沖縄に来てから」
 本日最終のグラスボートに乗る。
「わあー、綺麗な色の魚がいっぱい」
 グラスボートから覗く真下に海には原色の鮮やかな魚達が泳ぎ、夕陽と相まって、本土とはまるで色が違った。それを見て僕は日本はまだまだ広いんだと素直に驚きもした。
「地元の人は、滅多に海で泳がないそうです。泳いでるのは観光客だけなんだって」
「ああ、いつも海が目の前にあったらそんなものなのかもな」
「水着持ってくればよかった」
 砂に残る波打ち際の網目、白い波をちゃぷちゃぷと追いかけたりして遊んでいる彼女に、色々と聞いてみようかとも考えたが、結局僕は何も聞かなかった。滞在三日目の最終日、紗南は明日は本土に帰る予定だったが、彼女の連絡先も聞かなかったし、また彼女からも聞かれはしなかった。

 彼女は昼間の顔とは違って、汗と愛液とでぬめぬめとし、まるで別人のようにしなやかに大胆で、木目の細やかな肌が指に吸い付いては、指や舌先で至る所を弾くたびに、甘ったるい声で喘いだ。
 そしてあどけない見た目とは裏腹に、男を悦ばせることに積極的な女の子だった。されるがままの愛撫を受け入れるだけでは飽き足らない、自分で満ち足りる事をキチンと心得ている、そんな女の子だった。
 乱暴に女の子を抱くと次はないことを僕はよく知っていたが、紗南には乱暴にめちゃくちゃにしてやりたい気持ちと、そうは出来ない気持ちがいっしょくたになって夕刻に食べたアイスのカップの底みたいに混在していた。

 島唄酒場と呼ばれる居酒屋で島らっきょうとグルクンの煮付けを肴に泡盛を飲み、チャンプルーを分け合って食べ、紗南と崩れ込むようにホテルに来る前に聴いたこの土地特有の太古からの歴史をメロディーに乗せた、鎮魂歌のような、しかしまた宴のような島唄の拍子と胃の中の泡盛とが混ざって反転しては身体の中で新たなリズムを打ち出していた。僕は酔っぱらって、捨てたかった自分をこの時は捨てられたのだと思う。
 腹の中で、三線の音色にカチャーシーと呼ばれる踊りを見知らぬ者同士が興じている。
 
 曖昧で不確かな輪郭が滲むような優しい夜に、僕たちも溶けあった。
 
 今でもその一夜のことを思い出すと下半身が熱く滾るのを僕は誇りにも思っているし、妻の知らない僕自身の共有できない秘密に罪悪感を伴いつつも、この記憶だけは抜け落ちないように、美しく磨き上げては今でも机の抽斗からすぐに使えるように努力をしているとも言える。
 彼女以外にも、飲み屋で知り合った人妻を抱いたことや、彼氏がいる女の子の寂しさを紛らわす為だけに望まれるままその女の子たちを抱いたこともあったが、数日後には柔らかな乳房の感触も鼻先に付着した独特の匂いも、顔も真夏の日のアスファルトに立ち上る蜃気楼のように気化しては記憶から抜け落ちてしまっていた。男としての優越感や自尊心は僕自身を度々大きく見せる事になったし、おおいにこの身を助けはしたが、いまだビル街の照り返す灼熱地獄に感じる様な身体の底から沸き立つ渇きが、ちりちりと奥底で燻り続けている。

 そうして僕は確かで揺るぎようのない朝に、隣でイビキをかいて未だ寝ている最近悪阻が落ち着いた腹が目立ってきた妻の昼ご飯にと、大蒜たっぷりのタコライスを作った。なかなか起きてこない妻を尻目に、小さな音量であの日流れていた沖縄民謡を流しタコライスを先にテーブルで麦茶と共に食した。人生なんてそんなものだと妥協しながら。
 平成最後の夏、僕はきっと幸せなのだろう。

 起きてくる気配もないので、冷凍庫の中にいつも買い置きしている大箱のアイスを一本取り出して、口に投げ込む。
 こうしていると、ただの暑い夏だ。

                 (了)

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