稽古場レポート⑤by斎藤明仁
『夜ヒカル』稽古場からのおたよりです。
本レポートは、2023年9月22日(金)に上演を迎える『夜ヒカル鶴の仮面』(作:多和田葉子、演出:川口智子、@くにたち市民芸術小ホール)のお稽古の様子を記録したものである。くにたち市民芸術小ホール(以下、芸小)は、2016年より国立市出身の作家・多和田葉子を特集する企画「多和田葉子 複数の私」シリーズを連続して展開している。本上演はそのシリーズの第6回目にあたる。出演者は公募によってマッチングした市民16名。
第六週:土の中に沈んでいく今夜中に、
2023年9月13日(水)
久しぶりのホールでの稽古は清閑にはじめられる。それは声が小さかったり元気がなかったりするわけではない。ウォーミングアップは「風船ゲーム」だったので、むしろ賑々しいほどである。きっとホールの広さとお稽古が佳境を迎えているという状況(あるいは市民たちの緊張感?)が、一方では非日常な雰囲気もつくりだしてくれているのかもしれない。
稽古場の空間が広いので、台詞合わせもいっそう体力を必要とする。ボールもしばしばあらぬ方向に飛んでいって、その度に誰かがきわどい態勢でキャッチするので、皆がそのおもしろさに笑っている。クリエイション開始からもうすぐ二か月になる。当然、座組の仲は深まるし、だからこそあと一週間でお別れになってしまうのがどうしようもなく惜しい。
立ち稽古はまずプロローグの組み立てがおこなわれた。舞台中央に棺桶がおかれ、そのなかには〈死体〉が横たわっている。全員が自分の仮面を被ってひとりずつ棺桶のまわりに集まり、死者を弔う啼き声をあげる。仮面はどれも全く違ったもの(モチーフにしている動物が同じでもひとつとして同じ仮面はないし、それどころか動物でなく天使までもいる)であるから、ひとりひとつの弔い方がある。けれども同時にこの場面でおこなわれるのは、全ての仮面たちが同じ場と物語を共有するということでもある。原型は8月13日(日)におこなわれたワークショップでの動物たちのお葬式である(稽古場レポート②参照)。
通し稽古もおこなわれた。ホールではいつも通りの発声方法だとやや心もとない。ましてや本番では芝居に200人以上の観客が座っているため、さらに音は吸収されてしまうだろう。観客がいるということをどれだけ念頭に入れる必要があるのかはわからないが、それでもふたたびお互いの演技(それから台詞も!)を見直すのには良い機会なのではないだろうか。
2023年9月15日(金)
台詞合わせが終わったら、川口から一昨日のフィードバックがおこなわれる。場面ごとに数十分にわたって細かい指摘が続く。それは、仮面の使い方や『夜ヒカル』におけるマイム(特に、実際はその場に物体がないのに、まるであるかのように演じること)の無意味さ、お芝居のやめかた(中途半端なお芝居はいらない!)といった全員に共通することから、例えば第一場の〈妹〉〈弟〉の身体の使い方(お互いのお芝居に影響され合うこと、ほかの人のお芝居を変えること)や、第二場の〈隣人〉のパフォーマンスのしかた(まるでパリコレ2023であるかのように堂々とランウェイを歩くこと)といった各個人に対するアドバイスまで非常に多岐に及んでいる。
今日のメインは場面転換の組み立てである。『夜ヒカル』の戯曲には「(音楽)」というト書きが三個所あり、川口はこれを時間の経過をあらわすものだと解釈している。二年前の京都の上演では、川口がアジア各地の友人たちにインタヴューした際のZoom映像をスクリーンに映していた。今回はその三個所に加えてさらに三個所の場面転換があり、どうやら全て「作業」の時間になるらしい。小道具を片付け、椅子を動かし、玉手箱(マジックボックス?)を運んで〈死体〉が横たわれば、あっという間に景色が変化する。それは同時に、お芝居をやめる時間(川口作品の要のひとつ)でもある。「ここお願いしまーす」「鍋オッケーです」など、俳優たちは声を掛け合いながら楽しく(とても大事!)舞台をセットしていく。けれども今回はあまりにも手順が多いので、なにをいつどこにやるのか覚えるだけでも一苦労だ。
今日は舞台監督の横山弘之さんもいらしていた。俳優たちが台詞合わせをしていたころ、舞台の配置を川口と相談していた。向かって左側にも客席がつくられ、舞台はやや縦長の矩形になった。能舞台の配置である。橋掛かりが上演の際に立ち現れてくるのは非常におもしろい。前回の京都での上演を目にした人ならば、「アジアのお葬式」というテーマが散りばめられている今回の上演はいっそう楽しめることだろう。
2023年9月16日(土)
お芝居の楽しさは、いかに台本から読みこんだ以上のことをできるかということだと川口は言う。重要なのは誤読をすることなのだと。ある翻訳者が「誤訳のポエジー」こそ多和田文学の営為のひとつであると巧みに指摘していたことを思い出す。川口の読みのおもしろさは、俳優の科白(=意識の有無にかかわらず、俳優の読み)も取り入れたうえで、さらに戯曲を読み込んで上演に反映させてしまうというところである。もしかすると、戯曲というのははじめからひとりで読むということが不可能なメディアなのかもしれない。そうであるならば、戯曲は小説や詩などといった文字テクストとは根本的に異なるものだと言うことができるだろう。
その読みをできる限りお芝居に反映させるために、場面ごと科白ひとつごとに細かくあたっていく。演劇(play)のお稽古では演出家が俳優に指導をするかのようなイメージが持たれがちだが、それは全くの誤りである。技術の伝達という部分では演出家による教育的側面もあるだろうが、戯曲の読みという点については全く別である。それというのも、お稽古でおこなわれているのは俳優と演出家の戯曲の読み合いなのだ。俳優は戯曲から読みこんだものを科白として具現化する。演出家はそれに対して、どう見えていたのかを自分の読みと照らし合わせて俳優に伝える(これがフィードバックである)。それは決して一方的な関係ではなく、むしろ俳優の発話や行為から演出家が戯曲の読みに気づくこともある。立ち位置ひとつをとってみても根拠のないお芝居は存在しない。どの瞬間においても、なぜそこにいてなぜその科白になっているのかには必ず理由がある。川口の言うとおり「行間にはなにも書いていないし、虚空にはだれもいない」。
第三場と第四場(あいだの場面転換も含める)を中心にお稽古をした。特に、第三場はお芝居の度に手順が増えていく。お仕舞には新しく加わった出来事が数十個所にも及んでいた。筆者の走り書きのメモも、あぶれるほどの多さと複雑さである。ルーティンの台詞合わせの重要さは、きっと俳優たちも実感したことだろう。最後に第五場の「最後の晩餐」シーンをつくった。13人がダヴィンチの例の絵画を真似てそこに観光客と〈死体〉が紛れ込んでいる。絶景である。
2023年9月17日(日)
「お芝居は技術」だと、川口は最近よく口にしている。技術に演技の基礎があるのだと。この技術というのは、ひとつは感情が先行しないということである。はじめから台詞の感情を決めつけて演じてしまうというのは、台本の先読み(まるでこれから起こることを知っているかのように演じてしまう)であって演技としては間違っている。もうひとつは、それまでのお芝居(出来事)に対してどう反応するかということである。川口がよく引き合いに出すのは、電話が鳴ってから出るまでのシーンだ。(1)電話が鳴って(2)鳴ったことに気づいて(3)電話の場所を探して見つけて(4)取りに行くために動いて(4)受話器を取って(5)「もしもし」と言うこと。普段の生活では、電話の場所がわかっていたら「探す」ことはしないし、電話で話しているときに「目が泳ぐ」こともないはずだ。そうであるならば、お芝居でも電話まで一直線に向かえばいいし、電話口で一点をみつめて話せばよい。さらに技術というのは、対象をじっくり観察するということでもあろう。例えば亀のものまねをするなら、まずどの部位からまねるだろうか。手足なのか、甲羅なのか、あるいは薄ら目で口をぱくぱくさせているという表情なのか。鶴の鳴き声も、どう鳴くのかを知らないままイメージでまねようとするなどできない。要するに技術とは、声を大きくするや動くのをやめるなどといった単純な行為の複雑な組み合わせなのだという。「アクションよりもリアクション」を考えることが重要なのだ。川口の稽古場にいるだけで、演技の教科書(奥義書)がつくれてしまう。
お稽古は、昨日やっていない第一場と第二場、第六場を中心におこなう。第六場はこの日はじめて全体的な組み立てがおこなわれた。テーマは「笑えるディストピア」「愉快な人形たちの遊び」だそうだ。第五場からの場面転換では、扉の前に俳優全員が倒れ込み、〈死体〉が整然と並ぶ。第六場の俳優たちは、自分の台詞を言っているときだけまるで操り人形のように徐々に起き上がって、けれども台詞が終わればまたにわかに倒れ込む。だれも完全に立ち上がることはなく、扉/棺桶だけがずっと立っている。やがて〈妹〉が最後の台詞を言うまでに完全に立ち上がって、けれどもそれもまた倒されてしまう。棺桶、冷蔵庫、タンス、風呂、電話ボックス、テーブル、扉。それぞれの場面でモチーフをずらしながら舞台に居続けた矩形の箱の、エピローグでその赤色の扉を閉じられることによって、舞台の幕はおりる。多和田作品の引用、川口智子の自己引用、市民たちの台本の読み。それら全てが詰め込まれたこの箱は、まさに物語の想像力/創造力そのものだ。
一日の最後に通しをおこなった。照明の横原由祐さんや制作の斉藤かおりさんもいらしていた。本番を前に、続々と座組のメンバーが集まっていく。劇場は俳優だけでは成立しない。明後日からは小屋入りである。まるで大きな獣が翼を広げるように、本格的に劇場が動き出していく。筆者もスタッフのひとりであるので、ここからがお仕事のピークである。小屋入り後のレポートはきっと本番までには間に合わないだろう。このレポートはエピローグがあってもいいし、未完成のまま終わってもいい(「お稽古」の記録であれば、今日を限りに完成しているのだが)。
まだ未来のあなた、これから過去のあなた、だれでもないあなたとほかでもないこの劇場と物語でめぐり逢えたことに感謝いたします。こうして稽古場の記録を書きとどめる場所をくださったみなさまに心からのお礼を申し上げます。ありがとうございました。
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