稽古場レポート③by斎藤明仁
『夜ヒカル』稽古場からのおたよりです。
本レポートは、2023年9月22日(金)に上演を迎える『夜ヒカル鶴の仮面』(作:多和田葉子、演出:川口智子、@くにたち市民芸術小ホール)のお稽古の様子を記録したものである。くにたち市民芸術小ホール(以下、芸小)は、2016年より国立市出身の作家・多和田葉子を特集する企画「多和田葉子 複数の私」シリーズを連続して展開している。本上演はそのシリーズの第6回目にあたる。出演者は公募によってマッチングした市民16名。
第三週:ひょっとしたらね
2023年8月18日(金)
今週から場面ごとのお稽古にうつっている。今回の上演では戯曲を六つの場面に区切り、舞台の転換と俳優の入れ替えがおこなわれることになっている。いずれの場面も〈姉〉〈妹〉〈弟〉〈通訳〉〈隣人〉の五人の対話で構成されているために、各場面のお稽古も(事前に割り当てられた)五人を基本単位としている。今日は第一場と第四場に出演する俳優が集まった。
ウォーミングアップは「ウインクキラー」と「風船ゲーム」(飲み会などでおこなわれるゲームらしい)であった。広く一般的にも共有されている遊びのようなので、ここではルールなどに言及しないが、気になった方は各自で調べてみると良いだろう。いずれも俳優たちの提案によるもので、前者は主に空間把握と目線を合わせること、後者は声だしと瞬発力を鍛えることに適していると言える。今日のお稽古は19時開始である。仕事帰りで疲れている人も多いはずなのに、誰もが元気で和気あいあいとしており、市民たちはもしかすると日常生活のリフレッシュのためにお稽古に来ているのかもしれない。
台詞合わせはやや体力が必要である。五人が音楽練習室の空間に散らばって低速ジョギングをし、なおかつボールのパス回しをしながら、場面の最初から通して台詞を声に出す(台詞がとんだら演出助手がプロンプする)。俳優がエンターテイナーであることも忘れてはならない。台詞を思い出すのに必死になってほかの人と目を合わせなかったり、しかめっ面になったりせず、いつでもお互いを笑わせようとする心意気で取り組むことが重要である。もちろん、この台詞合わせは今日がはじめてなので、最初から上手くいくことはない。ボール回しに気をとられて台詞がとんでしまったり、反対に台詞を声に出すことに集中していい加減にボールを投げてしまったりする。川口はさまざまなお稽古でこの方法の台詞合わせをおこなっているそうで、これが「芝居の基本的な構造」であるらしい。
川口は台詞合わせをみながら、各個人の科白の癖を見抜いていたようだ。なかには演劇をするときにはあまり好ましくない癖もあり、この後はそれを直すために時間をかけた。但し、そもそも台詞をしっかり覚えていない人もいたために、残念ながらこの日の稽古はあまり先に進むことができなかった。市民たちにとっては辛いかもしれないが、こういう地道な作業も欠かすことはできない。
2023年8月19日(土)
今日は午前中に第二場と第三場、午後には第五場と第六場のお稽古だった。ウォーミングアップの遊び(英語圏の「だるまさんが転んだ」は、赤信号なのに止まらなかったから捕まってしまうという設定だそうだ)をして、前日の参加者がおこなったと同じく台詞合わせをする。この方法での台詞合わせの目的のひとつは、身体と言葉を切り離すことであるそうだ。演劇は常に他者とのコミュニケーションで成り立っている。そのコミュニケーションは(日常生活と同じく)当然毎回変化するもので、いくら台詞が決まっているからといって演技が同じになるはずはない(台詞も発話のニュアンスが同じになることは二度とない)。そういったコミュニケーションが上演中におこなえるためにも、ボール(=自分と違うもの)が回ってきたときに身体が反応して受け止められることはとても重要である。
午前も午後も、皆が比較的台詞を覚えられているようで、お稽古は先に進むことができた。次は「ジブリッシュ翻訳」というゲームがおこなわれる。〈姉〉役以外の四人はそれぞれ現地住民・観光客・通訳にわかれる。メインは通訳者で、ある土地に観光に来た人と現地住民の間で言葉の橋渡しをおこなう。まず現地住民ふたりだけが、観光客の前で話すテーマをあらかじめ決めておく。その後、ふたりは観光客と通訳者の前でそのテーマに沿って、但しジブリッシュ(デタラメ語)で会話をする。通訳者はふたりの動作や語気などを読み取って、現地住民が話している内容を想像し、その場で物語をつくって(あたかも通訳しているように!)観光客に日本語で伝える。これが「ジブリッシュ翻訳」ゲームである。遊びの原型はベケットの戯曲からヒントを得ており、このルールは二年前の『夜ヒカル』のお稽古で開発されたそうだ。「わからないのに通訳し続けること」は『夜ヒカル』の〈通訳〉そのものでもある。この戯曲の〈通訳〉にはtranslate(übersetzen)のダークサイド、つまり翻訳不可能性への示唆も含まれている。
どうやらこの「ジブリッシュ翻訳」も上手くいったようなので、本来予定にはない第一場の稽古にうつった。冒頭のト書きが終わった後からはじまる〈妹〉の科白が中心的に取り上げられる。〈妹〉は戯曲全体という長い時間のスケールを握っており、なおかつ〈姉〉を真面目に弔っている唯一の人物であるそうだ。ほかの人物(そして観客含めた私たち全員)を召喚する儀式を執りおこなう人物(ドイツ語版の台詞参照:Wir können jetzt allein in Ruhe unsere Zeremonie durchführen.)でもある。〈妹〉役に対して、川口からは美輪明宏をイメージすると良いとのアドバイスがあった。前週のレポートの影響か、筆者には〈モロの君〉の悠然とした姿が思い浮かんだ。言葉も時間も、人間よりはるかにスケールが大きい。