稽古場レポート④by斎藤明仁
『夜ヒカル』稽古場からのおたよりです。
本レポートは、2023年9月22日(金)に上演を迎える『夜ヒカル鶴の仮面』(作:多和田葉子、演出:川口智子、@くにたち市民芸術小ホール)のお稽古の様子を記録したものである。くにたち市民芸術小ホール(以下、芸小)は、2016年より国立市出身の作家・多和田葉子を特集する企画「多和田葉子 複数の私」シリーズを連続して展開している。本上演はそのシリーズの第6回目にあたる。出演者は公募によってマッチングした市民16名。
※筆者の都合のために、お稽古に参加していない第四週のレポートは書かれていない。
第五週:もう少し大きい声で話しなさいよ
2023年9月6日(水)
普段なら憂鬱な水曜日の夜も、お稽古があると思うと心が弾む。ましてや先週は都合により参加できなかったから、期待はひとしおである。残念ながら筆者には、演劇は本番のみを観るのが当たり前という文化が理解できない(観劇は好きだが、クリエイションには興味がないというのもわからない)。お稽古では毎回違った景色が広がっているし、それこそ何度参加しても飽きることはない。
今日は第四場の稽古がおこなわれた。ジェスチャーゲームを終えたら、第三週のときと同じように台詞合わせがはじまる。ところが、これが全く上手くいかない。なぜなら、そもそも台詞が覚えられていないからだ。第四場は10分にも満たない場面であり、ほかと比べても決して長尺とは言えない。〈隣人〉以外は長台詞もなく、台詞を覚えるだけであればそこまで苦労することはないと思われたが、実際はそうではないようだ。今日はさすがの川口も、台詞をとにかく覚えてほしいとの旨を繰り返し口にしていた。ひと通り終えた後、今度はボール回しをせず、炭坑節を踊りながら台詞合わせをすることになった。盆踊りのごとく四人で円になり、踊りながら台詞を声に出す。四人で常に同じ動きになるはずだが、それぞれが自分の台詞の番になると動作がおろそかになって、踊りは徐々にずれていく。俳優たちもこのままではよろしくないと身に染みてわかったようで、稽古場の空気は少し張りつめていた。
立ち稽古もおこなわれたものの、この日はあまり良い仕上がりにはならなかった。なによりも台詞が頭に入っていないので、演技どころの話ではない。この場面は明後日にもう一度お稽古の時間があるので、それまでには台詞が完璧に覚えられていることを願う。
2023年9月8日(金)
一昨日と同様、第四場のお稽古がおこなわれた。まずは日課のウォーミングアップと台詞合わせをする。一昨日よりも台詞は覚えられていると言えるものの、及第点には遠い。もちろん、完璧に台詞を諳んじられる人もいたが、本来は全員がその水準に達していなければならない。ほかの場面と比べても後れをとってしまっているようだが、それでも前に進まなければならない。
立ち稽古がはじまった。すでに台詞合わせで予期されていたことではあるが、やはり演技が加わるといっそう台詞が立ち行かなくなる。というより、そもそも演劇が演劇として成立していないようにみえる。科白はだれに向けて話しているのかわからないし(具体的なだれかに向けられていない科白は存在しない)、〈姉〉を含めた五人のつながりもみえずにそれぞれがばらばらになにかをやっているだけになってしまっている。〈妹〉は怒る演技に逃げがちで、〈通訳〉は自分ひとりの世界に入りがちになっている。発声も全員が竜頭蛇尾で好ましくない。もちろん演出家はそれらの問題を解決するために、細かくアプローチしていく。俳優の立ち位置、発声方法などを手直ししていくことは、時間はかかるが大事な作業である。会話をするときに動いたり近づいたりすることは、エネルギーの逃げる行為であるそうだ。人と人との距離だって、(お互いの親密性が関係するのはもちろんだが)発話のイントネーションや大きさ、速さによっても毎回変わってくる。それは日常会話では無意識のうちにおこなっているはずなのだが、演劇になるとどうも「芝居」をしようとしてしまうらしい。
ここまで非常に苦労しているかのように書いているが、そもそも今回の座組はお稽古二週目にしてmatureなものになることが判明していたため、川口の要求も自然と高いものになっている。川口は『夜ヒカル』にすでに三回も取り組んできたが、どうやら今回のクリエイションでひと区切りつけるつもりらしい。
2023年9月9日(土)
今日は午前中に第一場と第三場が、午後には第二場と第五場、第六場のお稽古がおこなわれた。例のごとく台詞合わせからはじまり、お互いの身体のチューニングをする。そろそろこのメニューにも慣れてきたのだろうか、演出助手のプロンプをする回数も減ってきているように感じる。けれども、台詞合わせはもっと速くこなせることが理想だ。もちろん、お互いを楽しませることを忘れずに。
立ち稽古は第三場からはじめられる。この場面も前日までの第四場と同じく、仕上がりに遅れが出ている場面のようだ。たとえば、〈通訳〉の電話をする演技。人は普段電話をするとき、目線をどこにやっていて、それが演技の場合にはどうなるのか。これら両者の表面上の行為には、果たして差異があるのだろうか。亀の真似も、イメージの亀と実際の亀は全く違う。真似をするには実際の亀の一挙手一投足をじっくり観察する必要がある。
場面ごとの稽古とはいえ、演出家は一日中常に気を張って皆の演技を観続けなければならない。毎回どこを改善すべきかをメモして、一人ひとりに対して細かくアドバイスをしている姿を見ていると、演出家がいかに体力を使う仕事で、しかもマルチタスク必須の職業であることがよくわかる。一日の終わりごろ、川口は〈妹〉の弔いの行為について言及していた。『夜ヒカル』の〈妹〉はなぜ弔うという行為を(観客を含めた)全員にみせているのだろうか。人を弔うという行為に〈妹〉はなにを重ねているのだろうか。そのパフォーマティビティ(行為遂行性)が気になっているのだという。川口はそこに、新型コロナウイルスという世界状況(二年前、京都にて上演された『夜ヒカル』では、この状況が「アジア多言語版」というクリエイションのテーマに大きく影響した)や『アンティゴネ』を重ねていた。共通しているのは、弔う行為が禁止されているということ。
2023年9月10日(日)
今日から全体稽古に戻っている。全員が一堂に会すのは9月3日(日)の小道具づくり以来だが、全体稽古となると8月13日(日)まで約一ヵ月もさかのぼることになる。戯曲全体を通した台詞合わせも今日がはじめてである。先週見たときに比べ、台詞はスムーズになってきているが、一方でパス回しは少し疎かになっているようにも感じる。度々ボールが地面に落ちてしまっている。相手の目を見て丁寧に投げることは、いつでも忘れてはならない。それは自分の台詞を特定の誰かに手渡すという行為の具体化でもあるのだ。
今週のお稽古の進捗状況を踏まえて、予定にはなかった第四場の場面稽古がまずおこなわれる。相変わらず台詞の覚えは良いとは言えないが、それでも俳優たちが試行錯誤をしている痕跡は明らかにわかる。状況が芳しくないのは、この第四場という場面が戯曲のなかでも非常に難しい部分であるということも影響している。この場面から、登場人物たちがある鶴の昔話を、実際に演じることによって語っていくというさらなる入れ子構造に突入しているのである。要するにこの戯曲は、端的に言えば(1)現実世界(2)『夜ヒカル』の現実世界(3)『夜ヒカル』のなかで上演される物語世界という三層構造をとっており(細かく言えば、もっと複雑なのだが)、第四場はちょうどこの(2)と(3)が入り乱れる時間なのだ。それ故、上演の難易度も一気に跳ね上がっており、川口が『夜ヒカル』をとにかく難しい戯曲と位置付けているのも、これが理由のひとつであるだろう。とはいえ、第四場の最たる問題は演技をしようとしないということではないだろうか。つまり、体力を使わずにできるだけ省エネでその場を乗り切ろうとしている場合が多いのだ。川口は稽古場で何度も、台詞合わせのほうが疲れるくらいならお芝居を観るよりそちらを観ていたほうがましだと言ってきたが、今の第四場の状況はまさにその通りになってしまっている。そこで川口は、歌舞伎をイメージして演じてみると良いとアドバイスをしていた。すると、途端に声も身ぶりも大きくなり、自然と緩急が生まれたので観ていて楽しい。なるほど一歩進んだ感じがした。
全体では通し稽古を一度おこなって終わった。今週は場面ごとに様々な問題点が見つかり、それを踏まえて新しくトライしてみることに手一杯だったはずなのに、久しぶりの全員集合かつはじめての通しで気分が高揚しているからだろうか、完成度が非常に高くなっている。クリエイションがはじまってからしばしば思うが、この座組はワークショップ的な取り組みだったり、急な通し稽古だったりしたほうが上手である。それが不思議でならないのだが、そのちぐはぐさこそがこの座組の一番の魅力であるのかもしれない。