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稽古場レポート②by斎藤明仁

『夜ヒカル』稽古場からのおたよりです。


本レポートは、2023年9月22日(金)に上演を迎える『夜ヒカル鶴の仮面』(作:多和田葉子、演出:川口智子、@くにたち市民芸術小ホール)のお稽古の様子を記録したものである。くにたち市民芸術小ホール(以下、芸小)は、2016年より国立市出身の作家・多和田葉子を特集する企画「多和田葉子 複数の私」シリーズを連続して展開している。本上演はそのシリーズの第6回目にあたる。出演者は公募によってマッチングした市民16名。


第二週:あたし姉さんの足なんか恐くなかった

2023年8月12日(土)
ウォーミングアップをする市民たちを見ながら、川口が「もう大家族にしか見えない」と声を弾ませている。確かに、葬式のために久しぶりに集った親戚連中という、ゆるやかな一体感がある気がする。葬式の戯曲を上演するからそう見えているのだろうか。どうも「奇蹟的なメンバー」であるらしい。
今日もまた、遊ぶことからはじまる。くじ引きでそれぞれが「フレンド」か「キラー」になり、目をつぶって空間を歩く。誰かに触ったら自分の役をお互いにささやく。「キラー」は全ての「フレンド」に出会えば勝利となる。一方で「フレンド」は「キラー」とささやかれたら、遺言(稽古では辞世の句と称された)を叫んで倒れ、リタイアする。時間内にひとりでも生き残れば勝利になる。遺言は実にさまざまで面白い。うめき声をあげる人もいれば、「菜の花の和え物!」や「給料日まだだったのに!」と叫ぶ人もいる。視覚に頼らないでお互いの距離をつかむのには最適な遊びである。
お葬式づくりは三組に分かれておこなった。今日のテーマは「ロボットが人間の葬儀をする」というもの。プログラミングされたロボットはどうやって人間を弔うのだろうか。人間の身体の持つ歴史的文脈がわからないだろうから、こうすれば人間の葬式のようになるのだろうと推測して動作するのかもしれない。あるグループは「いいヒトだったね」とロボットたちが無感情に発する場面をつくっていたが、人間の持つロボット観をよく表していたように思う。
二週間のお休みの期間では、台詞を覚えることが宿題になっていた。この日は、ひとりずつ自分の覚えた箇所を諳んじた。川口はプロンプをしつつ、同時に各俳優の話し方や姿勢、動作の癖を的確に指摘していく。さらに、それぞれに適した台詞の覚え方も提案している。全てをわずか数分のあいだに造作もなくこなしている。これが演出家というものか。プロの仕事に圧倒させられてしまう。川口がいかに個々の俳優に向き合っているかというのがよく分かる場面だった。
演劇において「かっこいい」ということは重要なのかもしれない。上品でおしゃんで(良い意味で)少しマッチョなイメージの「かっこいい」である。川口は映画にはあまり興味がないと過去に語っていたが、しかし稽古場ではときおり映画作品に言及されることがある。『007』や『オーシャンズ』といったスパイ映画だ。今日のお稽古のはじめ、『007』をモチーフにしたウォーミングアップがあったし、『オーシャンズ』はくにたちオペラのお稽古の際に「かっこいい」の引き合いに出された作品である。不意に『心の声など聞こえるか』の滝本直子のソロパートを思い出した。けれども「かっこいい」演劇ってなんだろうか。

2023年8月13日(日)
お稽古から演出家の手つきが少なくなりつつある。演出家はお稽古に対して最低限の提案しかしなくなっている。今日は「ドロケイ」と「かごめかごめ」で遊んだが、いずれも市民が発案・主導したものであった。「ドロケイ」のとき、川口はわずかなルールの追加をするだけで、「かごめかごめ」のときにはひとつの提案すらもしていない。残念ながら筆者は演劇に疎いので、市民が俳優を担う作品において、それがどの程度稀有なことなのかはわからない。
お葬式づくりも完成度の高い仕上がりになってきた。今日は「動物が人間の弔いをする」というお題が出されている。あるグループでは、同じ種族の動物たちが族長にしたがって死体を囲み、さまざまな方法で死体に触った後で、一斉に遠吠えをはじめた。ジブリ作品の一場面が思い出された。巨大な猪が(偽の)一族を連れて森の主のもとへ向かう、あのそら怖ろしい場面である。そういえば、川口はよく「人間はたぬきにはなれないが、たぬきの真似をすることはできる」ということを語っている。多和田葉子がかつて「文学のテーマには、(近代的な)人間として生きるのは無理というのがある」と話していたことも、今回の作品づくりではしばしば参照されている。ワークを終えた後、川口は「もう大事な場面ができた」と嬉しそうにしていた。
前日に取り組んだ、ロボットによる葬式も再びおこなわれた。今度は全員でひとつのシーンをつくる。あえて人間らしく動いてみるロボット、木魚を叩く人間を戯画的に表現するロボット、いずれも本当にありそうなロボットの姿を演じている。動作にも言葉にも無駄がない。ましてやアジア各地の葬式によくあるような、食事の共有や死んでいない者どうしの会話といった場面は存在するはずもない。そこには単なるバケツリレー方式の伝達行為しかないのである。これも上演のどこかに取り入れるつもりらしいが、果たしてどんな葬式ができるのか楽しみでならない。
お稽古で読み合わせに使われる時間は極めて少ない。ここでいう読み合わせは、俳優が台本を持ってしばしば机を囲み(あるいは輪になって)、台詞を音読する行為のことである。読み合わせの時間を最小限にする理由を、川口は山登りにたとえて巧みに説明している。山登りにおいて、フックをかけるのに適切な岩は、時と状況に応じてその場で判断して選ぶのであり、事前に決めることができない。それと同じように、科白も(本来、日常会話がそうであるように)そのときどういう場がつくられていて、どのような声調で会話がパスされるかに応じて発する必要があるのだという。これまでの稽古でも、読み合わせがおこなわれるのは配役決めと台詞を覚えているかの確認のためだけだった。川口にとって稽古場は常に遊び、つまりplayの場なのである。

さあ、フレンドは残りふたりです!固唾をのんで見守るメンバーの豊かな表情にも注目◎

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