遺書を書いた
月経周期にめちゃくちゃ影響されるために、毎月一度は「死にたいな」と思うんだけども、今月は特に酷い。
月経が開始したあとは大抵気分も晴れるのに、今月は全く晴れない。
昨日は、本当に些細な出来事で著しく情緒が荒ぶる下の子に対して暴言を吐いてしまった。
母親失格。そうして自覚して、また気持ちがさらに落ち込む。泥沼、どつぼに嵌っている。
愛しい子どもたちをきちんと大事に出来ていない自覚がある。その自覚が自分に更なるプレッシャーをかけ、ストレスを増強させる。
その結果として、わたしはここ最近、人生を終わらせるということに気持ちが向いてしまっている。
死ぬ気でやれよ死なないから、っていうのを前に何処かできいた。
それは実践している、死ななければ来る明日、というスタンスで毎日を生きてる。でも、しんどい。
ということで遺書を書いた。
壮大な死んだ振り。
書いたらば、死ななければならないような気がするが、前述したとおり、今のところ待てば来る明日。
何をしたって、明日を迎えられるようにすれば、こちらの勝ちなのだ。
書いた遺書を読み返す。非常に陳腐だ。
こんなものが辞世の句であることは、とても恥ずかしいのかも、と思う。
生きて明日を迎えたから、次に書く遺書は陳腐でない、とはならない。
結局のところ、自死を選ぶことすら出来ないのだ。
生きるのも死ぬのも中途半端である。
何をしても虚無感でいっぱい。
おそらく鬱の波に飲まれている。
黙って堪える。
死んではいけない。それすらも、本当にどうでもよくなったら、また遺書を書いて、既遂に至る。
それまでは生きる。
下らない自殺ごっこ、遺書を書いたあと、美味しくご飯を食べた。