トキシックロマンス-劣等パラドックス-#2
叶汰は沙夜に曲を聞かれた時のやりとりをぼんやりと反芻していた。明日は休みだ。沙夜を送り終えた車を本部の車庫に戻すと、六本木へ飲みに出た。
時刻は深夜一時。自分が管轄しているナイトクラブへ顔を出し、スタッフに酒を振る舞ってから街中をあてもなく歩いていく。十月の中旬、朝晩は少々冷え込むようになった。秋めいた夜風が頬を撫でた時、叶汰の脳裏にふと、数時間前のコンクリートに広がる血溜まりが過ぎった。金扇組に入った当初は、ああいう現場に行った日には帰って何度も嘔吐していた。けれど人間慣れるものだ。ゆっくりと死に追いやっていく凄惨な殺め方も、物事を俯瞰して見ることも、感情を抑圧してやがて無いものにすることも。
ドンキホーテの前で女が一人、ガードレールへ腰掛けうなだれていた。人差し指にかろうじて引っかかっているミニバッグは全開で、今にも財布が落ちそうだ。叶汰は迷ったものの、なんだか放っておけず彼女の方へ向かっていた。
「おーい。おねーさん、大丈夫? おねーさん」
珍しく声を張ってみる。女の頭が、とてつもなく重そうに上がっていく。そして目を瞑ったまま眉間に皺を寄せてうう、と唸った。
「バッグ。開いちゃってるよ」
色素の薄い肌。整った鼻筋――――。見入りながらそう言えば、彼女は目と口を半分開けた。
「あ。ああー。久しぶり」
叶汰の顔を見てにへら、と笑う。まるで友達を見つけたかのように。
「俺ら会った事あるっけ」
「あるない」
「…………ひとりじゃ危ないよ? 友達は?」
「撒ーいーたーの。いや、撒かれたのかも……飲みすぎたからー、みんな嫌になっちゃったのかも」
ガードレールから腰を上げ、髪を掻き上げる。気持ちよさそうに伸びをしたかと思えば、おみず、と呟く。彼女の顔にしばらく見惚れていた叶汰は自販機へ行って、水を買い与える。
「ありがとー」
もちろん会ったことはない。「有る無い」「飲みすぎて撒かれた」とかぬかしている彼女からは、破天荒な匂いがぷんぷん漂っている。
「お兄さんはもう帰っちゃうの?」
「んー……どうしよ」
このタイプは、関わったら面白いか怠いかのどちらかだ。
「わたし、まだ飲めそうなんだけど」
「あっそう」
数秒間、無言で見つめ合う。彼女の顔は、どうします? と言っている。叶汰は、ポケットに両手を入れてぱちくりとまばたきをする。面倒なことは避けたい、が――――。彼女はもう一度、肩をすくませながら視線で訴える。
「…………俺と飲み直す?」
顔が、抜群に可愛いのである。ため息混じりに折れた叶汰を見て満足げに頷いた女は、おすすめのバーを教えて? と猫のように甘えてきた。初めて会った気がしない。懐っこいにも程がある。もう少し人を警戒した方がいい、と叶汰は思った。
それから、知り合いに会う確率が低そうなバーに連れて行った。カウンターに座って、とりとめのない話をたくさんした。笑いのツボがどことなく似ている。時折睡魔に負けてうなだれるものの、水を与えるとまた復活をする。自由な彼女は見ていて飽きない。あっけらかんとしていて、人に媚びる素振りもない。何を言っても遮らず、話をまず全て聞く姿勢は好感が持てる。バーを出た叶汰はあれこれ考えるよりも先に「うち来る?」と言っていた。彼女は「うん」と頷いた。
腕枕は寝にくいから嫌いだと言う。黒で統一した寝具は乱れに乱れていて、身震いをする程には汗が引いていて、二人はクイーンベッドの真ん中で肌を寄せ合っていた。
「名前は?」
「迷ってる」
「はい?」
このテンションで人様に聞き返したのは本日二度目だ。彼女は自分のスマホを手に取り、あくびをしながら液晶をタップした。
「ジュリエットかー、メリーかー、アラバマか。迷ってるの」
「……自分のことなんだと思ってんの?」
一夜限りの相手に名前を教える気はないらしい。そしてその場合、思い描く作品が一緒ならば叶汰の名前候補も自動的に決まってしまう。
「ジュリエットにしよ。君は?」
「ええ……じゃあ、ロミオ?」
言ったそばから二人して鼻で笑った。ジュリエットはスマホのスクロールを終えると、身体を起こして枕に肘をついた。
「でもさ、少し髪の毛切ったら本当に似てるよ。昔のディカプリオに」
「そう?」
「うん。でも、ディカプリオはこんなに刺青入ってないと思うの」
叶汰は、興味津々に自分の顔や身体を見つめながら上肢の彫り物をなぞる彼女の胸元に目をやった。雑に覆ったシーツから半分ほど見えるお椀型の双丘は、下に流れて深い深い谷間を作っている。
「君がジュリエットかあ」
「うん」
へらへらと口角を上げた彼女に覆いかぶさった。あどけない幼女のような振る舞いをするくせに、肉付きのいい身体とぽってりつややかな唇が誘惑的だ。居心地も悪くない。今日の叶汰は「もうこの女早く帰ってくれ」と内心白目をむいていない。そして何より、身体の相性が最高だった。自身を離すまいと食する中の感覚と善がる表情を思い出し、叶汰の下腹部はたやすく再熱した。それを見ると、ジュリエットはやっぱり幼女みたいに、楽しそうに笑った。
精神科やメンタルクリニックの需要は年々増加傾向にある。宮東クリニックは今日も朝から予約でいっぱいだった。
「どうしても他人と比べてしまうんです。SNSで友達が楽しそうにしてたり、成功してるのを見ると、いいなあ、私、何やってるんだろうって」
中でも多いのは、SNSの世界に根を張りすぎてしまった者の“隣の芝生は青く見える”現代病だ。
「仕事も同期に比べると私なんて全然出来なくて」
湊の診察は手厚く長い。今も二十代後半の女性患者の目をじっと見つめて、頷きながら話を聞いている。ゆるく巻かれた栗色のロングヘアー。ラウンドに整えられた淡いピンクのネイル。整った鼻筋に、均等な二重とぱっちりカールがついたまつ毛。彼女は華やかな見た目で、一見こんな悩みを抱えているようにはとても見えない。
「やりたいことも、周りを見て焦ってばかりで結局見つけられなくて。結婚や子どももそろそろ考えなきゃなのかなとか……でも私、子ども欲しいのかなとか……常に周りの何かと自分を比べてしまうのを辞めたいです」
喉を詰まらせたこの患者の中では、日々蓄積された複数のネガティブな感情が肥大化し、一つの大きな塊となっていた。
「うーん、今、あなたの目に映るあらゆるものが悩みの種になって混沌としているから、まずは一つ一つ、整理していきましょうか」
彼女は視線を落としたまま頷いた。湊は続ける。
「じゃあ。このティッシュを触ってみて」
ティッシュの箱を差し出すと、彼女は戸惑いながらもティッシュをつまんだ。
「どう?」
「薄い、やわら、かいです」
「じゃあ、この机はどう?」
「かたいです……?」
「……目的地に行くまでに、空いたバスなら三十分、混んだ電車なら十五分で着く。どっちの手段を使いますか」
「んー…………バス、かな」
「新しい化粧品を買う時。気になるアイテムが三つあったとしたら、何を参考にする?」
「……レビュー、とか、星の数、とか比べて……で、良い方を選びます」
「うん。人間は幼い頃から比較を学ぶし、今自分でも言ったように常にこうして比較をする生き物なんです。だから、比べてしまうこと自体は悪くない」
「……はい」
「SNS上で楽しそうにしてる人や成功してる人を見て、私何やってるんだろうって思う時って、その中にはどんな感情があるのかな」
「んー……」
「例えば寂しい、とか、私呼ばれてない、悔しい、とか」
「あー…………焦る。置いていかれてるみたいな……みんなの投稿が多ければ多いほど病む」
「うん。それは、なんでだと思う?」
「んっと……最近仕事で嫌なことが続いてたり、お休みの日に自分には何も予定がなくて。家でじっとしていることに劣等感を覚えてしまいます」
友人の日常のたった一時の切り取りでも、現代病の人間には大ダメージなのだ。友人にも家でじっとしている時間や苦労している時間はあるはずなのに、その想像までは至らない。
「じゃあ、自分に予定が出来たときはどう?」
「……おでかけして、どんな写真を撮ろうかなって。で、写真をいっぱい撮ってアップしたり」
「うん」
「でも……いいねの数とかコメントの数とか、すごく気にします。それを見て、この前のあの子の方がいい写真だったんだ、とか……」
「うん」
「だから、次は少し話や写真を盛ってしまったり。でももうそんな嘘、いやで。……前はそんなの気にせずもっと自由に出来て、楽しかったんだけどな」
SNSによって気づかないうちに自己肯定感が低くなってしまった人間は、常に人目を気にして、他者と比較することで自己を評価する。そのうち自分に起きた良いことには目もくれず、他人がよく見えて仕方がなくなる。自分の生き様が数値で可視化されるのは残酷だ。良い自分を演出することに没頭しつつ、時には数値のために平気で虚構を作り出す。“本当の自分”をあけすけにさらけ出す勇気はない。そして、たかがSNS上での薄っぺらな評価に二十四時間振り回される。強がる心は暗い思い込みでいつも勝手に傷ついている。他者によって作られていく自尊心は不安定で、ものすごく脆いものだ。“充実”“成功”の裏にうごめくのは無意識の勝敗。嫉妬。優越。粗探し。いつから始まったかも、いつから自分がそこにいたかもわからない競争社会に疲弊していく。人間が生活する上で必要な比較心理も承認欲求も、行き過ぎれば自爆を招く。
「そういう評価に疲れて更新するのも見るのも辞めると、少しは落ち着くんですけど……そのうちそわそわしちゃって」
「うん。更新も見るのもやめた時、どう落ち着く?」
「…………何も更新しなくていい、みたいな……その状態が楽だし、安心する」
「じゃあ、そのあとはどういう風にそわそわするのかな」
「……私の知らないところで、何が起こっているのかな、とか」
「……比較は執着にもなってるってことだね」
彼女は黙ってしまった。“執着”という言葉を受け入れられないらしく、真顔で目をまたたかせている。
「写真をいっぱい撮ってアップするのは、僕はいいと思う。でもそれを他人に見て見て、って向けるんじゃなくて、ただ自分の思い出として綺麗に残せたらいいよね」
「……はい……あなたはあなた、私は私、って、したい」
「そうだね。おやすみの日は何をしてるの?」
「何もない日は……本当は料理したり、ずっと寝ていたい、んですけど」
今は、携帯をずっと見ちゃってます、と彼女の声はどんどん小さくなっていった。人間は欲に素直になった方が生きやすい。変わりたいと願う彼女の口からは、少しずつ少しずつ本音が溢れてくる。
「……今はそのお休みの日や仕事で悩んでる状態を、どこかで悪いものだと思っているのかもね。だから友達の投稿が良く見える。例えばそれを、自分の充電期間や成長過程と思うとか。見方を変えてみるのはどうだろう」
「なるほど…………はい」
「って言ってもいきなりは難しいか……もう一度言うね。比較は悪いことではないです。でも、人生は“自分が主役”。これはいいかな」
湊は真白い紙に簡単な人型を描いた。そのど真ん中に一本の縦線を引き、“自分の軸”のイメージをさせた。
「……はい」
「今、自分を良く見せたくて、私を見て、って意識が外に向いているよね」
人型の周りに外向けの矢印をいくつも書いていく。その時ふと、湊の脳裏に幼き日の弟が思い浮かんだ。一瞬手が止まったものの、悟られないようすぐに動かした。
「……でも人生って誰かのものじゃないよね。他人の評価に委ねるものでもないよね。幸せも楽しいも悲しいも悔しいも、感情は他人と比べるものでもない」
今は完全に他人軸で生きてしまっている彼女の心の芯まで届くように、湊はゆっくり諭していく。彼女は湊の目をまっすぐ見つめて、かすかに頬を染めながらこくん、と頷いた。
「この矢印を、全て自分のために、って内側に向けられたらいいよね。自分が納得してる、だから良い、ってしたいよね」
今度は赤ペンで、人型に向いた矢印を同じ数だけ記していく。まず矛先を、評価やSNS上での周囲の監視ではなく、現実の自分だけに向ける。そして軽めの日記のような感覚でSNSを使うくらいがちょうど良いのかもしれない。
「少し話を戻して……その焦りや執着、比較してしまう癖って、何か原因があるのかも。幼少期に寂しい思いをしたとか、自分をよく見せないといけない環境にいたとか、常々褒められていたとか……何か、心当たりはある?」
――――まだまだこれは序盤である。多方面からメスを入れて、患者の言葉を拾い上げ、今日も一から人間の立て直しをしていく。他人軸で生きるようになってしまった原因は、誰かの些細な一言かもしれない。幼少期の傷心、親の言葉や期待、自分で作り出した歪なプレッシャーかもしれない。心の蓋を開けて毒出しをしていく。似通った悩みでも、その中身は皆全く異なるものだ。書き出したワードとワードが線で繋がって、ようやく悩みの核にたどり着いたところでカルテが埋まる。膨大な気の病の原因は、意外とシンプルだったりする。そして自分を理解することで生きやすくなるのがわかると、患者の顔つきも少しずつ変わってくる。
「……じゃあ、またいつでもお越しください」
約二時間のカウンセリングが終わり、湊は患者を送り出す時だけやわらかく微笑む。自分の魅力に気づいていながらそれをやっているのかは、誰にもわからない。
叶汰が連絡先を自ら教えることは滅多にない。しかしジュリエットと初めて出会った夜、彼女のスマホを手に取り勝手に電話番号を入力していた。彼女はネイルをいじりながらさんきゅー、と言っていた。それからはなんとなく連絡を取り合っていて、会うのは週一。肌を重ねたのは今日で三回目だ。
「どうでもいい話なんだけどね」
事後、天井に両手をかざして新調したネイルを眺めながら、鼻歌を歌っていた彼女が得意げに言う。
「世界中で私しか知らない曲があるんだよ」
「へー」
「今歌ってた曲」
「わからないよ」
「スローテンポで、ちょっとノスタルジックで、女の人の声が儚くてね……なんか、聴いたあとの寂しさが尾を引くって言うのかなあ。で、歌詞はちょっとえっちなの」
「ふーん。君の鼻歌、全然寂しそうではなかったけど」
「いーーのっ」
「はいはい」
「繰り返し聴きたくなる曲ってあるよね」
「今流してもいいよ。スピーカーもあるし」
「うーん…………うん……もう、聴けなくなっちゃった」
叶汰は頭の後ろで手を組み、黙って天井を見つめていた。いつもは無言で携帯をいじったり、どうでもいい話をぽろぽろとしている程度なのに、今日の彼女は饒舌だった。
「見つけてから五日もたたないうちに配信が停止されてたの。そんなことあると思う?」
「……さあ。でもそれって、よくあることなんじゃないの?」
ちょうどこの前、そんなような話を聞いたばかりだ。
「ないよ、滅多にない」
「そうなんだ」
「ジャケ写もかわいかった。都会の街並みに大きいピンク色の満月が浮かんでてね、満天の星もロマンチックなの」
「……大きいピンク色の満月?」
「おすすめに出てきて、ジャケ写だけでうわ、かわいいって思って。スクショも撮ったんだ。ほら、見て」
それを思い出している彼女はどこか生き生きしていて、スマホの画面を見せてきた。
「…………へえ……?」
「知ってる?」
「いや知らない、けど」
「そーだよね。見て見て、この怖いくらい大きい満月。街を妖しく照らしてさ……幻想的だよね」
「……うん」
「……タイトルとアーティストで何回検索をかけても、ウェブにもユーチューブにもどっこにも出てこないの……本当に消されちゃったのかなあ」
これ、もしかして――――。なんの心の準備も出来ていないまま、今、あの答えに近しい情報が半強制的に目に入っている。
「あのさ……なんで世界中で君しか知らないなんてわかるの?」
「ん? それはなんと、私が彼女の記念すべき一人目のフォロワーだったからです」
意外と食いついてくる叶汰に、彼女は嬉しそうに言った。
「……」
「……思い出して頭の中で流すの。でもやっぱりだめ。所々霞んだり、記憶だけじゃ補えない」
叶汰はあれから何度もあの曲を探していた。憧れの人の役に立ちたいと思うのは人間の真理だ。けれどやはり、沙夜のワードだけでは限界があった。堂々巡りになってヒントには何一つ辿り着けないまま、もうその話題には二度と触れることはないと思っていたのに――――。鼓動が少しだけ早くなった叶汰は一呼吸してからたずねてみた。
「それってさ。洋楽?」
「うん、そうだよ」
「……そっか」
「はあー……また聴きたい」
唐突に希望の粉を振りまいた彼女は、スマホの画面を見つめながら思いを馳せるように呟いた。
「うん……そうだね」
「え?」
「………………俺も聴いてみたいな」
ほんとお? と笑いながら叶汰の腕の中にずいずい入ってきた彼女は、今肌を寄せた男の上司がそのあと二人目のフォロワーになったであろうことなど知る由もない。全世界共通の音楽配信サービスという広大無辺な海で、一瞬にして消え失せたその曲を探している人間が、同じように頭の中で再生しているであろう人間が、人一人向こう側にいることなど知る由もない。
叶汰はこれを「引き寄せ」の一言で終わらせるにはあまりにも不十分だと思ったし、遅れてやってくる曖昧な達成感にはまだまだ首をかしげてしまいそうだった。
互いの名前や仕事、年齢を知ろうともしないまま、熱烈に身体だけを求め合い、終われば寝るか、取るに足らないことばかりを話している。唯一知っているのは、彼女はソースがたっぷり染み込んだカツサンドと皮膚科通いが好きなことだけだ。叶汰は彼女の背骨を下から一つずつ数えるように撫で上げながら、奇妙な巡り合わせを咀嚼していった。