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【短編小説】夢想に溺れる泡雪


こんにちは。
相手のために行った自己犠牲がけっきょく個人的な自己満足だったことはよくありますね。
ままならないです、大事にしたい気持ちはほんとうなのに。4049文字です。

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夢想に溺れる泡雪

 両親が最期に遺したのは、世界はもう終わったのだから好きに生きなさいという絶望とも希望ともとれる言葉だった。少なくとも活動できる範囲にはもうぼくたち双子しかいないことはわかっていた。いつからそういうふうになったのかは知らないが、気づけば既にぼくたちの世界に他人はいなかった。両親の顔だって思い出せない。ただ先述した言葉と、外に出る際は必ず防護服を着て酸素ボンベを背負いなさいと口酸っぱく言われたことだけを頭に閉じ込めてそれを厳守してきた。防護服越しでしか見たことのない外の世界には、常に真っ白い灰のようななにかが降っていて、皮膚に触れればそれはたちまち体を侵しものの数分で死に至るのだとぼくたちは言い聞かされていた。情報のすべてを共有しているぼくたち双子は、食料の調達時も寝るときも必ず祈るように手をつないでいた。どうかきみは生きて。存在を信じたこともない神様にそれが届けばいいなんて、ぼくは都合のいいことを思っていた。
 ぼくたちの今の住処に残った酸素ボンベと食料はあと一週間かそこらで尽きる。それは弟のユメも知っていた。つまり死を意味するということも。隣町もそのまた隣町も、もう誰もいないし何もない。だからぼくたちは遠くの街に住処を変えなければいけなくて、けれどそのために必要な酸素ボンベはもう僅か。毎晩握り合った手を見つめてユメは素敵に笑う。
「ユキ、ぼくたちふたりで静かに終わろう」
 薄い毛布を頭からかぶって、永遠を誓い合うみたいにぼくたちは夜を過ごす。
「そうだね、ユメ」
 ぼくはユメの目が見れない。見てしまえばきっとボロが出る。ごめんね嘘だよ、そう唇を裂いて飛び出てしまう。ぼくはこの嘘を貫き通すこと、そしてどうなっても目の前の愛しいきみを守り抜くこと、その強い思いだけで生きてきた。貴重な燃料を消耗する灯りを消して、真っ暗闇のなか二人はまぶたを閉じた。

「ユメ、忘れ物はない?」
「うん。ユキも大丈夫?」
「ちゃんと持ったよ。これユメの酸素ボンベ」
 ある朝早く、ぼくたちはまぶたを擦りながら慣れた手つきで防護服をまとい、必要最低限の荷物を持っていた。ユメがありがとうと言って受け取った酸素ボンベは満タンだ。ぼくが背負う酸素ボンベの残量は、三分の一ほど。ユメは知らない。知らなくていいんだ。満タンあれば遠くの街まで行ける。それさえわかっていればいい。ぼくは、これでいいんだ。
 三日前の深夜、眠りこけるユメの手をほどいて毛布を抜け出した。細心の注意を払って防護服と酸素ボンベを装備して真っ暗闇へ足を踏み出した。片手に灯りと紙を、もう片手には方位磁石とペンを持ってさくさく足音を鳴らしながら進む。しばらく歩いたところに聳え立つ大きな建物の階段を必死にのぼった。頂上からは遥か遠くの景色も見えるが、ただ真っ白いことに変わりはない。遠くの、遠くの方に街が見える。それだけを確認してぼくは帰路を急いだ。翌日眠る直前明かりを消そうとするユメを制してぼくは提案した。まだ酸素ボンベはあるから遠くの街に住処を変えよう、と。ふたりで交わした約束のなかに物資がある限り生きようというものがあったから、ユメは頷いてぼくもそう考えてたと悪戯っぽく笑った。
 厳重な扉を開ける。ぼくたちが外の空気を吸うことは生まれ落ちた瞬間から世界が許さなかった。いつも重たい酸素ボンベから流れるそれを生命線に、防護服の中から霞んだ白い世界を見てきた。
 今まで転々としてきた数々の住処のどこかしらに必ず景色や絵、または難しい言葉のみで形成された紙の束があった。だいたいのものが棚に保管されていて、ぼくたちは気に入った紙の束を持ち歩き宝物にしていた。洋服一枚で外を走り回る子供たちの様子や色彩豊かな景色、そんな世界が記されていたから、ぼくたちは紙をめくるたびに知らない世界を旅して空想に耽っていた。いつかこんな世界をふたりで手をつないで思い切り走ろう、うんと遊んで、あたたかいご飯を食べて、ふかふかのお布団で眠ろう。きっといつか。
 外は相変わらず真っ白い灰が降っていた。足が重たく沈んで足跡は小さな穴になる。数分後にはまた真っ白い平地になっているだろう。少しの風がやさしくぼくたちを撫でてはしゃぎながら流れていく。
「……ユキが下見してくれた遠くの街って、どんなとこだった?」
 酸素ボンベを無駄遣いしないよう消え入りそうな声でユキが尋ねた。
「……食料も、ぼくたちの大好きな紙の束もたくさんあったよ」
「そっかぁ……たのしみだね」
 やっぱり、ユメの笑顔は美しいなと思った。同じ顔のはずなのに、ユメの微笑む顔はいつだって神聖で無垢で、まぶしい。ぼくにはないものだ。
 もうずいぶんと歩いた気がする。ぼくは息がだんだんと苦しくなっていることに気づき始めていた。ユメにだけは悟られないよう、つないだ手にこめた力はぜったいに緩めなかった。それまでは。
「ユメ」
「…どうしたの、ユキ」
 よかった、ユメは怪しんでいない。ぼくはいつもの調子で続ける。
「ぼくあの建物に荷物を取りに行くよ。下見のときに置いておいたものがあるんだ」
「ぼくも行くよ」
 ぼくだからわかる、ユメはこういうときぼくを一人にしない。緩めた手をユメが強く握る。ぼくはその手を無理やりにほどいた。
「心配しないで。必ず追いつくから。地図と方位磁石を預けるね」
「でも……」
 ぼくだからわかる、ユメはこういうとき押しに弱いんだ。ぼくの手の代わりにそのふたつを握らせた。
「早く行って、おたがい酸素ボンベがもたないよ」
 ユメの真似をして微笑む。そうしたら最後にユメの悲しい顔を見なくてすむんだ。ぼくが笑えば同じように笑うのがきみだから。
「……わかった。先行ってるね」
 天使みたいに笑うユメが、ひどく愛おしい。ほんの少し、その笑顔が陰って見えたのはぼくの心境のせいだろう。真っ白い灰に消えていくユメの後ろ姿を見送った。
完全に見えなくなって、ぼくはいよいよ底を尽きる酸素ボンベを抱えてなんとか近くの建物を目指した。足と頭が重りをぶらさげてるみたいにどんどん重たくなる。吐き気も耳鳴りもひどい。一歩進むごとにユメの笑顔が浮かぶせいで、視界が滲んでいく。ふたりでいたことで流したことのない涙は見ることすら初めてだった。覚悟はしていたつもりだったのに。なのに、なんで。
「……こんなに悲しいなんて、きいてないよ」
 息が苦しい、何も見えなくなっていく。さようなら、ぼくの天使。また会えるよ。

 ユキと別れてずいぶん歩いた。後ろを振り返りながら進んできたけれど、そんな余裕もなくなるくらい酸素の減りが著しくなってしまってぼくは先を急いだ。ずっと真っ白だった景色のなかでカラフルななにかが動いている。それが人だと理解するのに数秒かかった。思わず近くまで走り寄って見ると、人々は防護服ではなくいろんな色の洋服一枚で笑い合っている。どころか積もった真っ白い灰を素手で掴んだり固めたりして投げ合っているではないか。どうして、毒は。
 唖然と立ちすくむぼくに気づいた一人の男性が手を振った。目に映る現実が受け入れられないぼくの手を握って嬉しそうに涙を流す。
「ああよかった……!まだ生きてる人がいたんだ!」
「どうして、あの、みんな防護服は」
 喜び勇んで飛び跳ねんばかりにその人は続ける。
「つい最近だよ、俺たちの仲間が気づいたんだ。この白い灰は無害なんだ!」
 君もはやくその防護服を脱いでと急かされてまだ半信半疑のぼくは、けれど残りの酸素を考えて一か八かだと脱ぎ捨てた。冷たい空気が肺を圧迫する。肌が凍てつきそうなほどにひりひりする。真っ白い灰が頭に肩に積もる。一つを手に受け止めると刺さる冷たさを感じると同時に消えてなくなってしまった。手のひらの中心に少しの湿っぽさが残ったが、それもすぐに風にさらわれた。
「まだなんなのかはわからないけど、俺たちも触れて数時間が経ってもなんともないからきっと無害なはずなんだ」
 今までぼくらと同じように穴ぐらで生涯を過ごしてきたその男性はもうこの真っ白いなにかに怯えることもないのだと、涙を流して空を見上げていた。ぼくもしばらく真っ白い空を見つめて、ユキのことを思い出した。
「そうだ、ユキ……ユキにも伝えないと!」
 いてもたっても居られず荷物のすべてをその場に置いて駆け出した。ユキ、ユキ、ぼくたちもう自由だ。たくさん走って、たくさん遊ぼう。それから手をつないで眠って、ずっといっしょにいよう。
 空を飛ぶみたいに走り続けて息が切れても止まらなかった。ぼくたちのこれからを考えると足が勝手に動くのだ。はやくユキに会いたい、きっとその叫びが原動力になっていた。もうすぐユキと手をはなしたあの場所に着くのに防護服の影は見つけられない。もしかしたら酸素がなくなってしまって例の建物に身を潜めているのかもしれない。ぼくはとにかくユキの姿を求めて凍りそうな肺を押さえた。
「ユキ!ユキ!!」
 きょろきょろ辺りを見渡して叫んだ。真っ白いものに埋もれて、見覚えのある防護服が転がっている。全身が硬直した。見てはいけない触れてはいけないといくら本能が告げても、ゆっくりゆっくり足は前に進む。頭の中でどくどくと血が脈打つ音が響き渡る。ぼくの手が真っ白いそれを払って、防護服の中身を確認させようとする。
 心のどこかでわかっていた。苦しんだのだろう、その顔は目を見開いて涙と鼻水に濡れてぐちゃぐちゃになっていた。それでもぼくと同じ顔だった。
「ユキ…………」
 震える手で防護服を剥ぐ。真っ白い絨毯に座り込み人形みたいに動かないユキを抱き抱えて空を睨んだ。ぼくはそれからのどが嗄れても声が涸れても泣きじゃくった。目指した街の人たちが心配して迎えに来てくれるまで、冷たいユキを抱きしめていた。
 ユキ、ユキ。ぼくのたからもの。また会いたいよ。

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ありがとうございました。

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