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【思うこと】感想を持つことの大切さ。

どうも。動画編集に興味が芽生えてしまって、イラスト創作の席に「動画編集」が座りそうな、ふへ歩です(・∀・)

小説創作は、連載する気になればおそらく支部からnoteに移行してくるでしょう。私のことだから。

さて今回は、タイトルの通りです。「感想を持つ」ということの大切さ。

感想文とか一言日記について

読者様も一度は学生時代に「感想文なるもの」を書いたことがあるのではないでしょうか。え?ない?……、では漫画や映画をみたあとを想像してください。演劇とかでも大丈夫です。

学生時代なんかも演劇鑑賞会とかありましたよね。そのあとって必ずと言って良いほど感想文とか書かされませんでしたか?

夏休みの読書感想文とかも、そう。書かされましたよね?

私は下手なりでも、感想文とか長期休暇の一言日記みたいなのが大好きで、「書く(描く)」という行為が大好きな学生でした。一言日記は、感想文と違って行が限られていないフリースペースだったのを良いことに、豆粒サイズの文字で書いていたのをいまも覚えていますw

私は学校の先生になった覚えもないけれど、一言日記の大切さだとか、学校の先生ならどんなことを目的に読んだりするんだろう、とこんな性格だからか考えてしまうんですよね。

一日一日に目的を持って生活すること、だったり。

この生徒はいま、何に興味関心を抱いているのだろう、だとか。

感想文だとまたちょっと範囲が狭まって、「目の前の出来事に対して、どのように受け止めるのか」「言葉や文章でどのように表現するのか」。出来事って言い方は何か違ったかも知れない。事例?

目の前の演劇についての感想だとか、この夏に読んだ本の感想だとか、とりあえず「限定されている」わけです。

日記は、範囲が広い感想。

感想文は、限定的である。

そう、私は考えています。この2つの違いについて。

どこに「大切さ」を感じるか

情報過多になった現代社会。これからもっともっと、情報は増えていき、情報発信者側のアウトプットの仕方とかも多様性が出てきて、受け取る側は「自分の受け取りやすい発信者」に関心を持つようになる。

そう思っています。

言葉を使って発信する人にも「文章」なのか、「声」なのか。文章ひとつにしても、記事にするのか物語にするのかとかの違い。声にしても、歌うことで伝えるのか、音読することで伝えるのか。

動きを利用する発信者にも「ダンス」なのか、「アニメーション」なのか。ダンスにもジャンルがあったり、アニメーションにもデジタルとアナログの違いがある。

情報があふれた社会で、何も頭の整理をせずにただただ情報に踊らされたり、情報に潰されそうになるのでは非常にしんどいものがあるのではないか。

そうなると、自分がインプットしやすいものを知ろう、となるわけです。私の中では。ならない人もいるのかもだけど。

感想文だったり一言日記は、自分の脳を知るきっかけなのではないか、って思うわけですね。

文章だと理解しやすいけど、映像になると終盤には「最初の方の話、なんだったっけ…」とか。

動きや音声が入ってるアニメは楽しめるけど、漫画とか小説になると無理!とか。

歌詞見ないで曲聴くと、空耳しちゃって歌詞に集中できなかったり。ミュージックビデオを観ると、映像に集中しちゃって曲の歌詞は覚えれないや。……みたいなの。ありませんか?ありますよね??

ちなみに。私は「文章や写真だと覚えやすくて、動きがあったり音声だと覚えるまでに時間がかなり必要」なタイプだと、自分の脳の処理能力について思います。

二次元化されたもの>文字、映像、音声>立体的なもの

得意であろう順に並べると、こうな気がします。

楽しめるか楽しめないか、は別として。

「記憶できるかできないか」「印象に残るか残らないか」で考えてみたください。


私みたいなタイプは、二次元化されている「写真」だったり「絵」などの平面的なものが覚えやすくて、三次元化されているものを認識したり想像するのが苦手なタイプ、かもしれません。要するに、立体が苦手。


物事に対して、自分から感想を持ったり、記憶に残りやすくする工夫をできるようにする。

これから非常に重要になるのではないでしょうか。既にそうなのかもしれませんが。いろいろな言葉が飛び交ってますからね。


自分の脳について、知っておいたほうがいい時代になっているのかもしれません。