Escape from luv
からだが重力に逆らえず、沼地を歩くように足取りが重たい。やっと便器に腰をおろした彩伽は、先程まで自身の肌に張り付いていた布をみて絶望した。処女雪のようにまっさらな敷きものに、鮮血が3滴ほど滲んでいた。鉛のような腕を持ち上げて、大きめのものを手に取った。それを下着に敷いている間も、彩伽の身体は病原菌に滅亡させられるような心地だった。やっとの思いで布団のなかへ潜り、脇に挟んだものを確認すると103.8を示していた。今頃ソフィアたちはクラブで踊り狂っていると、ただそれだけが彩伽の気にかかるのだった。無意識のうちに、右手が下半身へ伸びた。そこを触ると、内側は沸騰するように熱い。朦朧とした意識のなか、彼の帰ってくる音がした。彩伽が赤い指先を差し出すと、彼はぬるま湯につけたタオルで優しく拭ってくれた。あのまま兄貴と暮らしていたら、今頃頭からも血を流しているだろうと、彩伽は思い出してぞっとした。この国へ来て、この国の男と出会い、お互いの寮を行き来したのち、2人で住まい(と言っても、こちらも学生寮の一部だが)を借りるようになった。彼の存在は、異国の地に一人でやってきた寂寥感孤独感を埋めるためというだけでなく、避難場所としての価値があった。この旅路は、彩伽にとってのエスケープだ。閉鎖された地域の閉鎖された家庭で、今にも飼い殺されそうになっていた少女を救うための逃亡なのだ。彩伽は満たされて顔からは笑みが溢れた。「Still want it?」と訊ねられ、彩伽はそれがわからずかぶりを振った。男は、オーケイ。と「オー」を変に伸ばした返事を寄越した。「いらない。」と彩伽が口にすると、彼は口元に微笑をたたえて、眉毛をあげた。彩伽は突然、泣きたい衝動に駆られて、それでも彼を困惑させたくなくてこらえた。「i want it」と呟くと、彼は呆れたように笑って、彩伽の体を布団の上から撫でた。
「Not now」
と、彼は穏やかな調子でそう言った。そして、「for a while」と付け足した。
いつのまにか寝てしまった。目が覚めると、部屋はオレンジ色の光に包まれていた。男は彩伽の目の前で、熱心に映画を観ていた。そろそろひとり目の少女が死ぬところだった。止めて、と頼むと彼は驚いたように振り返り、映像をバラエティ番組に切り替えてしまった。
いつ帰ろうか。
普段の頭では決して浮かぶことのない考えがよぎった。傷つけられることに慣れてしまうと、そうでない状態に恐怖を覚えるようになった。だから私はこの男に傷つけられたい、彩伽はそう願った。彩伽はもう一度目をとじた。次に目を開けた時には、すべてが終わっているようにと、祈りを捧げながら。
彩伽のウイルスは使われなかった胎盤とともにすべて排泄されたらしい。血が漏れなくなった頃には体も幾分か軽くなっていた。休み明けの友情の再開も案外早くからだに馴染んだし、彩伽が心配しているほどのことは何も起こらなかった。ただ一つを除いて。彼はやはり、彩伽に対して暴力を振るわなかった。彼女はそれだけがまだ腑に落ちていなかった。それから彼女は毎晩、その感触が直に手のひらに現れるくらい、男を散々痛めつける想像をした。隣に寝ている男がはっと目を覚まし、彩伽の方を振り向いてひとこと、「I missed you」といったところで、彼女は帰国を決心したのだった。