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遠ざかる、

 言語の発達が遅かったわたしにとって、絵筆はことばだった。頭の中にある宇宙を目の前に再現できる方法を、わたしは幼いころに覚えた。言葉が出てきてからも、わたしは黙って、机と向き合った。これがわたしを確立する術だと、自己同一性を委ねるまでして、でも今思えばそれが、良くなかったのかもしれない。
「いつもこういうふうに?」
 その人があまりにも語を略すので、わたしは危うく文脈を見失うところだった。その人はわたしの絵に添えられたパネルの文章——わたしにとって表現とは一種の自傷行為であり、自身を底まで陥れて何かを創造する——を意図しているらしかった。
「ええ、まあ、自分を痛めつけるためにやっている、という意識は常にあります」
 その人は短く息を吐いた。
「そう。……君の気持ちはよくわかります。自罰的な表現はすごく気持ちのいい時があります。でも、考えてみてください。ネガティヴな気持ちで生み出したものが、ポジティヴな気持ちで生み出したものに、勝てると思いますか」
 わたしは閉口した。その人の言っていることがよく分からなかったからだ。
「自分を傷つける表現は、高が知れています。」
 その人はやわらかく笑った。
「もう少し、自分を大切にしてみてください。毎日、自分を褒めてあげてください。最初は難しいかもしれませんが、いつか力が育まれたことを実感する時がきっと来ます。」
 その人はそれだけ言うとわたしに背を向けて会場をあとにした。わたしはその人の言葉に感心したので、毎日少しずつ自分を大切にして、褒める練習をして、偉い、という言葉が身体に馴染んできた頃にはもう、絵が描けなくなった。
 内部進学した大学も1年通いきらずに休学し、実家暮らしのアルバイトで貯めた金で南の島へ逃げた。事情を知ったホストファミリーはわたしをさまざまなところに連れ出してくれたが、心が震えるから描けるようになるということもなく、そのうち連れて行ってもらうのが申し訳なくなりだしたわたしの思いを察してか、最近では彼らからもドライブに誘ってくることはなくなった。
 わたしはただ、町をあるいた。ひび割れた道路、木で出来た電信柱、道の左右に生える背の高い木々、どこからか香るあまい花の匂い、頬に触る風の手触り、遠くから聞こえてくる海鳥たちの声、島のどこからでも見渡せる宝石のような水面。すべてがわたしの住む世界とは違っていて、わたしは慣れたやりかたで感動を示すのだけれど、それはもっとわたしに新鮮で、全く新しくて、わたしの知らない世界がそこに広がっていた。もっと、もっとうまく表現できたらいいのに。ビューティフォーとか、ワンダフォーとか、そんな陳腐な音の羅列じゃなくて。
 日本の大学はもう夏休みに入ったようで、SNSではそれぞれの夏を作り上げることに必死な若者たちが見受けられた。わたしは大学の子達に、”語学留学したくなった。今しかないと思った”と言い残して出てきたので、それ以上追求しようのないことにみんな首を突っ込んでこなかったが、こちらに来てから定期的に連絡を取っている人物がひとりだけ存在した。それまでの学校生活でこれといった関わりはなく、ただ専攻が同じでいくつか同じ授業を履修している顔見知り、といったところだった。こちらの景色やホストファミリーに飼われている犬の写真を欲しがるのではじめは面倒に思っていたが、散歩をしているときに偶然見つけた鳩の水浴びとか、山のうえに架かった虹とか、ウミガメと泳いだこととか、高潮にお気に入りのビーチサンダルが取られたこととか、そういう何気ないものをシェアしているうちに、彼女はわたしの生活にも欠かせない存在となった。
『今ね、ピンクの建物のとこいる!』
『もうすぐつくー』
 わたしは車に揺られながら文字を打った。ファミリーは、久々にドライブがしたいと言った私の申し出を快く引き受けてくれた。車内では「付き合ってる人?」とマザーがしつこく聞くので、わたしは「ノー。ジャスト フレンド。」と答えた。本当はまだ、友だちでもないのかもしれないけれど、英語での説明の仕方が分からずに、仕方なくそう答えた。
 ピンクパレスの前に停められた車の中で、わたしは夫婦と頬を合わせてから車を降りた。建物の向こうから心地よい風が吹いて、わたしは思わず目をつむった。花の匂いがそこらじゅうに広がった。まぶたのうらに太陽が透けていた。
『どこにいる?』
『建物のなかの、ソファに座ってる。目の前にお店がある、服とか絵とか売ってる。』
 右を振り向くと、それらしい人影があった。「あ、」とわたしが声をかける前に、彼女もこちらに気づいて駆け寄ってきた。
「久しぶり、元気だったあ。やけたねえ。すっかり現地の人じゃん」
「まだ4ヶ月」
「絶対、生きているうちに来たいと思ってたんだ。もう、本当に、最高。昨日はね、アロハシャツのお店に行ってね、これ、このワンピース買ったの、可愛いでしょ? それでね、マラサダっていう揚げパンみたいなお菓子を食べたの。でも店に着いたときは車がたくさんあって、中も長蛇の列で、大丈夫かなあって心配してたんだけど、ガイドさんが先に注文してくれててね、横から声かけて優先的にもらえたんだよ、すごくない! VIPになったみたいで感動しちゃった」
「うん」
 彼女の口にしたものはまだ何一つとして経験したことがなかったけれど、質問しても答える前に話が飛躍することを知っているのでわたしはわざわざ彼女の言葉を遮ることはしなかった。
「ここにいたらたくさん、インスピレーション得られそう」
 そう彼女が呟くので、わたしはただ頷いた。
 彼女の生み出すものは、そこぬけに明るい。表現方法もそのきっかけも、私とは真反対のところにあるようなひとだった。彼女が教授と話しているときに発した、「楽しいことがしたいから、描く」という言葉を聞いたときに、わたしは、確かにこれには敵わないかもしれない、と過去の答え合わせをしたような気分になった。
「きれい…… なんて、言葉しか出てこない」
「うん」
 地球をかたどる水平線が鮮やかな青で息をしていた。少しずつ迫る波はまるで海の鼓動だった。
 彼女は慣れた手つきでキャンバスに海を広げた。わたしは反射する光に目が眩んで瞼を閉じた。もう、一生筆を持たないかもしれない、わたしの人生だと思っていたけれど、それから解放されて身軽になったような気もする。ただ、空虚。
「旅先でも、写真より絵なんだね。」
「やっぱり、描きたくなっちゃう」
 彼女はわたしを振り向いて言った。
「世界はうつくしいからね」
 わけもわからずに泣いていた。ヤシの葉が太陽の光を揺らしていた。出港する船が長い汽笛を鳴らしていた。海は視界のどこまでも広がりつづけ、そこに存在していた。わたしを受け入れも、拒みもせず、ただ静かに息をしていた。
 彼女はわたしと別れるときに、バイバイ、とも、またね、とも言わずに、ただ笑顔で手を振っていた。ハグをしたときのヴァニラのような匂いがまだ、胸に残っている気がした。わたしはあてもなく道を歩いた。小さな砂が足裏を刺激した。白い鳥が目の前を飛び立ったときに、少しの寂しさと共に、わたしの中からことばが抜け落ちていくような気がした。


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よる
←これ実は、猫じゃなくて、狼なんです。