見出し画像

まばたき

「幸せって、努力が必要だと思う?」
 あたしは言った。彼は窓の外に向かいながら、こちらを振り向きもせずに首を傾げた。
「努力しても幸せになれないことならある」
「例えば?」
「たとえば、俺は5歳から野球を始めて、雨の日も風の日も1日たりとも欠かさずに練習を続けてきたけれど、中学に上がってから野球を始めた、運動能力と才能が抜群にあるやつがグランドに立ってて、俺はベンチに座ってそいつを眺めてるんだ」
「幸せって、相対的なものなの?」
「確かに今の話だとね。ただ、努力しても報われないこともある、ってこと」
「それでも幸せのために、努力した方がいいのかしら」
 彼は何も答えなかった。
 彼の肩越しに外の冷気が少しずつ部屋のなかを支配していた。足元からすうっと、張り詰めた空気がこちらまで上がってきた。
「ねえ、こっちにおいでよ」
 彼は火を消して一度キッチンへ向かった。彼はタバコを吸ったあと、酢を水で薄めて蜂蜜を混ぜたものを飲む習慣があった。体に悪いことをしたあとに体に良いものを取り入れると相殺されると思っているらしい。わざわざそんなことするならタバコなんて吸わなければいいのに。一度だけ口に無理やり含まされたことがあるが、それは到底飲み込めるような代物ではなかった。
 彼はグラスを飲み干すとあたしのいるベッドによじ登ってきた。外はネオンの光が水滴に滲んで煌めいて見えた。
「窓、閉めてよ」
「後で」
 彼はそのままあたしにキスをした。苦くてぬるい感覚が口内に広がった。あたしは押し倒されたけれど視線で抵抗した。彼はあたしの乳房からくびれをなぞっただけで、手を離した。
「……イルミネーション、見に行きたいな」
 彼は起き上がって、何も言わずに服をひとつずつ身につけていった。全く表情に出していないつもりなのだろうけれど、あたしは気づいていた。彼は気分でないことを提案される時、瞬きのほんの一瞬、目を閉じる瞬間がいつもより少しだけ長くなる。あたしは申し訳ないと思う気持ちもあるけれど、わがままに付き合わされるのはお互い様なのだから、彼の不満に気づいていないことにした。
 静かな空気だった。通りを歩いている人はまばらで、街は死んだように景色のすべてが冷たかった。あたしたちは本物のカップルのように腕を組んで歩いた。
「もうすぐクリスマスだね」
「そうだったね」
「今年は何にするの?」
「なんだかよくわからないけど、魔法の杖が欲しいんだって。スイッチを押すと、杖の先が赤く光って、音が鳴るんだ」
「へえ、子供らしくていいわね」
「よかないよ。偶然玩具屋でみつけて触ってから手放さないんだ。それで、あいつが”サンタさんに頼もうね”ってその場をやり過ごしたんだけど、それをちゃんと覚えてた。子どもの執着ってすごいよな。どうせすぐ飽きるって分かってるのに。」
「いいじゃない、1年に一度くらい。好きなもの買ってあげても」
「この時期はどこの店も変に顔を上気させた大人たちが長い列をつくってて気味悪いよ。まるで親であることを金で買っているみたいだ」
「あなたはどうなの」
「僕は自分を親だと思ったことはないよ」
「じゃあ子ども?」
「どちらかといえば、そうだね」
「過去から抜け出せないのね」
 彼は途端に黙ってしまった。道の突き当たりを左折すると、電飾の巻きつけられた木が一定の区間に植えられている通りに出た。人通りは先ほどよりも増えて、街が息を吹き返したようにも見えた。
「あたしたち、本当の恋人みたいね」
「そう見えるだろうね」
 彼はポケットに両手を突っ込んで、あたしの腕を絡ませるのを好きにさせていた。彼はあたしのやることにいちいち口を出したりしなかったが、自分の気に入らないことがあるとふいに目を瞑った。
 小学生くらいの女の子が、後ろからぱたぱたと足音をたててあたし達の横を駆け抜けていった。目の前で母親らしい女の人に体を抱きしめられていた。背中に低い音が降り注いで、振り向くと男がその親子に向かっていくのが見えた。
 あたしに足りないもの。ちぐはぐに編まれた厚手の手袋。何の疑いもなくその人に全てを委ねられる純粋さ。命をかけてでも、守りたいと思うもの。努力をした先にあるほんの些細なしあわせ、それを幸せだと素直に受け止められる清らかで健やかな身体と精神。
「あたしも何かもらいたいな」
「何が欲しいの」
「子供」
 彼は立ち止まった。
「あなたとの子ども」
 横を振り向くと、彼は何か考えるように宙を見つめていた。澄んだ瞳のなかにいくつもの光が淡く反射していた。
「子どもが子どもを」
 彼はそう呟いて笑った。あたしもそれにつられておかしくなって笑った。
 幸せをしあわせと受け止める健やかな精神はもう何処にもないのに、あたしたちはずっと大人になれなくて時間の狭間を彷徨っていた。あたしは突然、彼のつくる奇妙な飲み物の味を思い出して、その場に嘔吐した。青い光の集合体は大きく小さく滲み、あたしの目の中でいつまでも点滅していた。

いいなと思ったら応援しよう!

よる
←これ実は、猫じゃなくて、狼なんです。