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日常

 薬をもらいに行かなければならなかった。動物のアレルギーがあるにもかかわらず、うちには小さい毛むくじゃらの生きものが二匹滞在していた。彼らを何処かにやってしまおう、という考えはないので無論、わたしの方が工夫して生活するしかなかった。
「体調、お変わりないですか?」
 母と同じくらいの歳の女性が、穏やかな口調で訊く。
「はい」
「こちらの他にも、処方されているお薬があるようですが」
「ああ、それは症状が出た時だけ飲むので」
「そうでしたか。では常に併用しているわけではないのですね。」
 そういえば、最近は不安と上手く付き合えているような気がする。薬を飲まなくても平気なのだ。代わりになるものといえば、毛むくじゃらの生きものたちと、小説と、たまに顔を合わせる友だち——時々体を重ねることもあるけれど、だからといって友だちから何か変わるわけではない——それと、友だちから分け与えてもらう数本の煙草だった。
 支払いを済ませて、向こう口にある写真屋に顔を出す。おじさんが、はい こんちは、と挨拶してくれる。
「これ、ピンホールのやつなんですけど」
「ああ。はいはい、とりあえず現像だけしてみるよ」
「巻き取り、うまく行きませんでした」
「途中であけちゃったの?」
「はい」
「ちゃんとすぐ閉めた?」
「諦めて、電気つけて巻きました。最初の方ぜんぶ駄目だと思います」
 おじさんはわたしの無念に寄り添うように苦い顔をして笑ってくれた。
 箱からつくったピンホールカメラを持ち歩いていたのは、去年の夏ごろだったから、西の方の景色がフィルムに写されているに違いなかった。京都へ出かけたときのことだ。千本鳥居の脇道にあった雑木林、頭のうえを走る奈良線、静かに厳かに鮮やかに流れる真昼の鴨川、夜の交差点を行き交う数々の光たち。現像しに行く足を渋って、とうとう一年が経とうとしていた、潮時だと思っておじさんに、やっとフィルムを明け渡したのだった。
 夕暮れ時の喫茶店は、何かの境目のような心地がした。彼岸と此岸、夜と昼、青色と橙色、わたしとあなた。ウィナー珈琲の生クリームがいつもより固くてもったりとしていた。わたしは嬉しくなって、スプーンの先で突いてみた。くずれない。上唇を生クリームの下に滑らせると、熱い液体が舌に触れて、わたしはだれかを思い出していた。
 机の脇に置いてあるふたつのシュガーポットの蓋を取ると、ざらめ、その奥に白砂糖。ざらめをひとすくいしてクリームの上にふりかけると、ゆっくり時間をかけて、白の隙間に沈んでいった。
 今朝、明け方の空に、知らない人の口ずさむ時代を聴いた。眠れないおじさんの散歩かもしれなかった。
 今日は 倒れた 旅人たちも 生まれ変わって 歩きだすよ
 わたしは眠い目をこすりながら、おじさんの声にハミングした。隣に寝転ぶ友だちは、わたしたちのうたごえに拍手を送った。わたしは下着と服を身につけた。
「もう帰るの」
「うん。猫に餌あげなきゃ」
 毛むくじゃらたちがいてよかったことといえば、愛玩することだけではない。ちゃんと、、、、家に帰る理由になる。それも、生死を伴う重大な責任を負っているので、瞬発の欲望に負けるようなことは絶対になかった。
「いいじゃん朝ごはんくらい」
 友だちは煙草の先に火を点けた。ライターには二眼レフがデザインされていた。
「だめ。あの子たちからしたら、わたしだけが生きるよすがなんだから」
「おおげさだな」
「大袈裟なんかじゃないよ。本当のことだよ」
「違うよ。お前はいつも使うことばが大きいんだよ」
 わたしは友だちの言葉には耳を貸さず、荷物をまとめて家を飛び出した。かぎ慣れたシャンプーの匂いが、朝の空気に漂っていた。
 まわる まわるよ 時代は回る 喜び 悲しみ 繰り返し 今日は 別れた 恋人たちも 生まれ変わって めぐり逢うよ
 駅のホームで口ずさむ。わたしはまた、だれかを思い出している。それが誰なのかは分からない。わたしのなかの幻影は、通過する快速列車に巻き込まれて、どこかとおくへ消えていった。

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←これ実は、猫じゃなくて、狼なんです。