見出し画像

失格

 体だけの関係を保つのはゆるやかな自傷行為だね、と言われた。いつからか始まった右瞼の痙攣が不規則に続いていた。わたしの自罰的習慣に言及したのは、高校の同級生と再会して4年ものあいだ交際を続けている加奈子だった。加奈子は堅実で頭がよくて柔和でものいいがやさしくて、然るべき時にわたしの道を正してくれる、気高くて美しい女性だった。わたしが彼の存在を口にすると、加奈子は「常に少しずつ傷つきつづけていることが大事なの?」と、涼しげな面持ちでわたしの行動を咎めた。わたしはそれについて肯定以外の答えを持ち合わせていなかった。
 わたしが体だけの関係を保ちつづけている男は、わたしが彼にほんとうに惚れていると信じて疑わなかった。自分に対して愛をもって接してくる女をあらく扱うことに快感をおぼえる体質なのだ。わたしは彼に本当の意味で惚れてはいないけれど、彼のその卑しさをものすごく愛おしく感じるときがあった。馬鹿で傲慢でわがままで鈍感、だけれど、彼の何をも映さない瞳はとてもつぶらで、飾りだけの耳たぶは赤ん坊の肌のように指をおしかえしてくる。
 彼の体はしなやかに動いた。わたしは彼に覆われながら彼の額の生え際を撫でるのがすごく好きだった。手入れのされていない髪の束が、体の動きに合わせて忙しなく運動していた。あまりの健気さに涙が出てくることさえあった。そういう時、彼はわたしの頬を伝う涙を拭い、きまって「そんなによかった?」と満足気に微笑んだ。この単純さ、この奔放さ。わたしは彼と一緒になるとき、一度だって快楽を覚えたことはないけれど、わたしはいつもその振りをした、男のためにではなく、自分のために。みじめで、孤独で、自由で、何にも替えがたい時間。わたしの全てを失い、そして、この世のすべてを手にしているような、そんな感覚。薄っぺらい優越感と自尊心を構築しては崩され、またたてなおし、またくずされてゆく。加奈子は自傷行為と表現したが、わたしには自傷行為も自慰のうちだった。
 彼の部屋の窓を開けると小さなベランダがあって、そこに留まっていると向かいに住む独り身らしい男とよく目が合った。彼は毎晩のようにわたしの漏らす声を聞いているだろうし、わたしも毎晩のように、向かいの男の気配を感じながら抱かれていた。40代ぐらいの背格好で、髪の毛は白髪の混じった灰色、顔立ちはあまりパッとせず、整えられていない眉毛だけ主張が強くて、どこかアンバランスな感じがした。いつもTシャツとボーダー柄の短パンを身につけていて、仕事は何をしているのか、きちんとした格好で外を出歩いているところを見たことがなかった。わたしと彼が顔を合わせるとき、大抵は二人ともタバコを吹かしているのだが、時には雨予報に急かされて洗濯物を取り込んだりした。そういう時、わたしはなぜか男と気持ちが通じ合ったような気がした。「雨に降られなくてよかったですね」「ええほんとうに。」「せっかく晴れてるときに干したのですものね。」「そうですね、よかったですね」という、会話を交わしたように。
 わたしの興味はいつからか、行為を行う相手よりも、向かいに住む男のほうへ移っていった。彼にわたしの捻れた声を聞いて欲しいと思ったし、歪に膨らんだ乳房を眺めてほしいと思った。わたしは一度だけ相手の男に頼んだことがあった、暑いから窓を開けて、カーテンも開けて、こちらに明かりがなければ大丈夫、外になど見えやしないと、わたしの体を窓に押し付けて、強引にしてほしいと。わたしからそのように何かを求めることは珍しかったので、彼は一瞬戸惑いを見せたが、優位に立つことに努めてわたしを打った。そして、手首を握りつぶすほど強く掴んで、わたしの体を窓に叩きつけた。暗闇のなか、わたしは確かに向かいの男の気配を感じていた、姿は見えなくとも、彼はわたしを見ていると、そう確信していた。
 常に傷つきつづけることは案外むずかしかった。行為が終わってしまえば、次までに期間が空くし、次がなければその時点で自傷は終わってしまう。行為が終わった時、次があることなんて誰も保証はできないのだから、果たしてわたしは傷つきつづけていいのかわからない。だから必要なのは、蔑ろにしつづけてくれる男を見抜く洞察力と、男のだらしなさへの信頼だった。それでしか私の痛みはつづかなかった。
 馬鹿らしいと思うこともあった。好きでもない男に身体をあずけることの無意味さ、時間を無駄にしているという確かな感覚。こんなことでもないとわたしは時間を持て余してしまう、その事実に耐えられず崩れてしまうよりも、よほど幸福で健全だと思っていた。
『今日夜、会える?』
 聞き慣れた声がわたしを求めた。私は仕方なく荷造りをした。またこの日も男に会いにゆき、組体操のように互いの身体を絡めあって飢餓の子どものように互いの体を貪るのだ。
 男の家の前に着くと、わたしはすぐ異変に気づいた。ものすごく違和感があった。それは主に嗅覚へ訴えかけていることにわたしは気づいた。煤のような、ものが焦げたような匂いがするのだ。ふと気がつくと、向かいの建物の一角の、壁一面が黒に覆われていた。
「ここ」
 わたしが体も動かせずに声だけでその場所を示すと、男は「ああ」とそちらを振り向きもせずに自宅の鍵を開けた。
「焼けたみたいだよ。俺もいない時間だったから、よく知らないけど。男の人が一人で住んでたんだけどね、どうなったかは俺もまだ分からない」
「いつ」
「一昨日の昼間、ついさっきも警察みたいな人がうろついてたけど、もういないね」
「住んでいた人、は」
「どうなったんだろうね? 死んじゃったんじゃない。」
 気がついたらすでに体が動いていた。手のひらは痺れ、鈍い音の余韻がまだ残っていた。男は舌で頬の内側を舐めて、苦い顔をした。それを認識する頃には、もう体は壁に押し付けられていた。胸ぐらが拳に圧迫されて、息ができなかった。
「好きじゃない、」
 辛うじて声を紡いだ。
「愛してなんか、ない」
 男は腕を離した。腑抜けた顔をしていた。
「わたしあなたのこと好きじゃない、誰のことをも好きになれない、ごめん、ぶっ壊れてて、ごめん、私はもうあなたとは一緒になれない、わたしは何かすごく大切なものを失った気がする」
 捲し立てて外に飛び出した。男が追ってくる気配はなかった。男の家の前の道路は一直線で、まるで私が走りつづけるために用意されている終わりのない線のようだった、どこまでも続く、途方もない、直線。
 息ができなくて心臓が爆発しそうでも、わたしは走るのをやめなかった。生きるのをやめなかった。向かいの男はきっと、一度別れた家族と再会して、奥さんと娘と幸せに暮らしているのだと思った。わたしはただそれだけで良かった、何も知らない他人の幸せを願うだけで良かった。
「愛して」
 声が響いてきた、男の声ではなかった。
「愛して、ちゃんと愛して」
 空がわたしに請うていた。わたしはちゃんと愛そうと思った。腕にも脚にも、汗の滴がびっしりと貼り付いていた。目の前に快速電車が通過したとき、わたしの前髪はふわりと舞い上がった。
「碌でもない私はもうやめる」
 そう心に決めて、これからは朝に食パンとバターだけで満足できるような、そんな健康的な女になりたいと思った。

いいなと思ったら応援しよう!

よる
←これ実は、猫じゃなくて、狼なんです。